中央区・日本橋
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日本橋は中央区の日本橋川に架かる橋ですが、
橋を中心とした地域を日本橋とも呼んでいます。
東京の日本橋は「にほんばし」で大阪の日本橋は「にっぽんばし」と
呼ばれています。

日本橋の中央には道路元標が埋め込まれています。
1604年(慶長9)に徳川幕府が五街道の起点と定め、
そのご、東京市が踏襲し、東京都になった時には現在の
日本国道路元標に取り換えられています。
「お江戸日本橋や七つ発ち・・・」と詠われた如く、旅立ちの
出発点となっていました。
現在の日本橋は1911年(明治44)に完成し、
国の重要文化財に指定されています。

現在の日本橋地区は元の日本橋区に相当します。
街の名前に日本橋を付けているところが多いです。

日本橋には三越本店、高島屋が店を構えており、
老舗百貨店の発祥地でもあります。
日本の証券市場の中心、兜町も日本橋にあります。
財閥の雄であった三井の本館(旧越後屋)もこの地にあります。

左の地図の青い部分が日本橋(旧日本橋区)地区となります。
日本橋人形町
人形町は日本橋地区のほぼ中央にあります。人形町の名前の由来は、かってこの地には
芝居小屋などが多く、人形遣いが沢山住んでいたことに因るとの事です。
1933年(昭和8)に正式に人形町が成立しています。
人形町の中心にある「甘酒横丁」の
交差点です。
飲食店街が続きます。
甘酒横丁の近くにある
「大観音寺」です。
1876年(明治9)に
鉄造菩薩頭が鎌倉から
人形町大観音寺に移され
以降、当寺の本尊とされています。

画面にポインターを置くと
本堂がご覧いただけます。

本堂内に本尊の「鉄造菩薩頭」が
安置されており、普段は公開されて
いません。

境内に本願地蔵尊が祀られています。
本堂と対面した形で置かれています。
日本橋七福神の内、大黒天と
毘沙門天の二つが人形町に
あります。

こちらは松嶋神社で大黒天が
祀られています。

都内の神社らしく、ビルの中に鎮座
されています。
鳥居だけは表に出ています。
毘沙門天を祀っている
末廣神社です。

末廣神社は、江戸時代の初期に
吉原(当初葦原と称した)がこの地に
あった時、その地主神、産土神として
信仰されていたといい、明暦の大火で
吉原が移転してからは、その跡地の
氏神として、また、勝運を授け、
災難をよける神様として、400年以上前
から信仰されているそうです。

画面にポインターを置くと
本堂をご覧いただけます。
日本橋浜町との境界に
浜町緑道があります。
一種のグリーンベルトの役割を
果たしています。

街中の細長い公園の様相です。
その通りの入口に「弁慶像」が
立っています。

人形町には江戸時代、幕府から
興行特権を認められていた
歌舞伎劇場江戸三座のうちの二座、
中村座と市村座がありました。
この関係で歌舞伎の演目で人気の
有った勧進帳から弁慶の像が
ここに建てられたそうです。
日本橋蠣殻町
昔は漁師の小網の干し場であり、牡蠣の殻の堆積した海浜であったらしいのですが、
町名の由来は明らかではありません。
大観音寺から甘酒横丁を通り、
更に南へ向かうと「水天宮」が
あります。人形町界隈とされますが、
日本橋蠣殻町にあります。

日本橋の水天宮は九州久留米の
水天宮の分社です。
久留米の水天宮は壇ノ浦の戦いで
破れた平家の女官が久留米に逃れ、
その地で平家と共に入水された
安徳天皇をお祭りしたのが始まりと
言われています。およそ700年ほど
前のことです。
水天宮は安産の御利益がある事で
有名だそうです。境内には産着や
腹帯など、出産グッズを売る屋台が
並びます。

安産に因んだ銅像もあります。

下の写真左は子宝犬(母犬と子犬の
像です)、
中は安産子育の河童像です。

右は幕末の勤王の志士・真木和泉守
を祀る神社です。
水天宮の水に因み、火と風の神を
お祭りしています。

中央に火風神社、左に高雄神社、
右に秋葉神社の三社が祀られています。
日本橋浜町
日本橋地域内では最多の人口を持つ町です。明治座や観光スポットに隣接する事から、
観光客や地元周辺の人たちが多く訪れる町になっているようです。
浜町と云えば「明治座」。

1873年(明治6)に喜昇座(きしょうざ)
として創建されました。初期には焼失と
再建を繰り返しながら成長し、その度に
名称も久松座(ひさまつざ)、
千歳座(ちとせざ)などに変わりました。
1893年(明治26)に初代市川左団次
が千歳座を買収して座元となり、
これを明治座と改称しました。
その後も空襲や失火で何度か焼失し、
1993年に現在のオフィスビル低層階に
設けられて今日に至っています。
人形町と浜町の境界にある
浜町緑道です。
区域としては浜町に所属しています。

元の浜町川を暗渠にして緑道と
したものです。

画面にポインターを置くと
別の場所もご覧いただけます。
明治時代は、ドイツ医学を範として
医事制度を確立し、漢方医学が
冷遇され没落していった時代でした。
この地で開業した医師・和田啓十郎は
、衣服や食事にかかる費用を倹約し
「医界之鉄椎(いかいのてっつい)」を
自費出版、漢方医学の復興に大きな
影響をもたらしました。
これを記念して、浜町緑地内に
「漢方医学復興の地」の碑が
立てられています。
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