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トルコを訪問したのは2005年12月です。佐倉市民カレッジの生徒でしたが、冬休みを利用しての旅行です。 同年の2~3月にはエジプトを訪れており、中近東から東アジアの流れを作りました。 トルコの風景はまだHPを作成したばかりの頃で、写真を並べるだけで、中身の薄いページでした。 2020年春の世界を震撼とさせた新コロナ風邪の流行で、外出・遠出もままならず、古いHPのページを模様替え することにしました。その第一弾がトルコです。記憶が定かでない部分も多く、記述には間違いがあるかもしれません。 |
トルコ全図です。2005年12月6日に 成田空港からトルコ・イスタンブールに飛び、 左図の黄色い線で一回りし、同年12月14日の 朝にイスタンブールから成田に戻りました。 ●面積 : 78万53k㎡ (日本の約2.1倍) ●人 口 : 約8千万人(2017年, 国家統計庁) ●首 都 : アンカラ ●民 族 : トルコ人、クルド人、少数民族として アルメニア人、ギリシャ人、ユダヤ人、アラブ人等 ●宗 教 : イスラム教(大部分がスンニ派)が 国民の9割以上。 憲法で政教分離が定められている。 ●気 候 : 地中海性気候 ●付加価値税 : 8%と18% ●主要都市と人口: イスタンブール15百万人、 アンカラ 540万人、イズミール 430万人 ●時 差 : 日本との時差はマイナス6時間。 夏時間はない。 |
イスタンブールの スルタンファメット地区の駐車場 入り口から眺める「スルタンアフメット・ジャミー」 (ブルーモスク)」です。 内部は博物館になっています。 |
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スルタンファメット地区にある 「アヤソフィヤ博物館」です。 ブルーモスクの隣にあります。 |
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アヤソフィア内部の絵画の一つです。 「キリストと皇帝コンスタンティヌス9世・ ゾエ夫妻」のモザイク画です。 |
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イスタンブールから連絡船で 対岸の「プルサ」へ渡ります。 連絡船はフェリーになっています。 我々はバスで乗船しました。 |
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ブルサにある「Yeisil Camil」 (イエシル・ジャーミー)です。 プルサはイスタンブールからフェリーで ボスポラス海峡を渡ったところにある 街です。 |
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イエシルジャーミーの内部の装飾です。 | |
「コリン・ホテル・チャナッカレ」です。 チャナッカレは、ダーダネルス海峡に 面したエリアの中心都市で、観光では トロイ遺跡観光のアクセス都市として よく利用されます。 |
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ダーダネルス海峡に落ちる夕日です。 | |
「トロイの遺跡」です。 遺跡入り口には大きな木馬(後出)が ありますが、これは近年に再現されたもの。 遺跡自体は世界遺産に登録されては いるが、こぢんまりとした印象。 時代によっていくつもの層を成しています。 |
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年代ごとの遺跡の様子です。 | |
トロイに最初の町が建設されたのは 紀元前3000から2500年とされ、 それから9回も都市が建設されました。 木馬で有名なトロイ戦争の話は紀元前 1250年頃の、6回目か7回目に 建設された都市で起こった話ではないか、 と推定されています。 8回目以降に建設された町はギリシャ、 そしてローマの都市とみなされています。 こちらは第8都市の住居跡です。 |
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左は遺跡の入り口にある木馬です。 1975年に観光アトラクションとして 造られたものです。 右は米国の映画撮影用に作成された 木馬です。チャナッカレの海岸遊歩道に 置かれています。 |
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トロイからイズミール経由クシャダシ に向かいました。クシャダシでは、 ここ「リッチモンドホテル」に泊まり、 翌日イズミル県のセルチュク近郊にある 「エフェソス遺跡群」へむかいました。 宿泊したホテルの玄関です。 |
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クシャダシの丘から見るエーゲ海です。 右手の白い建物はホテルです。 |
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「聖母マリアの家」です。 クシャダシで一泊後、翌朝セルチュクから エフェソスへ向かう途中で「聖母マリアの家」を 訪れました。 |
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「エフェソス遺跡」です。 エフェソス(Ephesos/Ephesus)は、 トルコ西部の小アジアの古代都市で、 現在のイズミル県のセルチュク近郊に 位置しています。 遺跡の「アッパータウン」と称する 地区に広がる石組です。 柱は「古代の市役所」のような行政機関 であったプリタネウム(prytaneum)跡です.。 |
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その奥にあるのが「劇場跡」です。 |
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「アゴラ」の内部の様子です。 アゴラとは古代ギリシャの都市国家の 公共広場のことです。 エフェソス遺跡の南入口を入ってすぐの所に |
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「大劇場跡」です。 高さ約30m、直径約150m、220度の 角度を有する劇場です。 |
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大劇場からセルシウス図書館跡(正面)へ 向かう通りです。 クレテス通りと称されています。 この通りの下の地区がアンダータウンで 昔の住民の居住区などがあります。 |
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「セルシウス図書館跡」です。 ここにはローマ帝国の特権階級であった 元老院の議員であり、ローマの属州で あったエーゲ海沿岸地方の総督の 役職であったティベリウス・J・セルシウスの 墓があり、紀元117年、彼の息子が 父の墓の上にこの図書館を建てたものと されています。 |
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図書館の左手にある 「ハドリアヌス神殿」です。 皇帝ハドリアヌスに捧げられた神殿。 アーチやまぐさ石の彫刻・レリーフが とても精緻であることで知られており、 幸運の女神ニケや蛇髪の怪物メドゥーサ、 女神アルテミス、アマゾネスなどの姿が 描かれています。 |
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アンダータウンの遺跡群です。 | |
「パムッカレ石灰棚」です。 エフェソスから「パムッカレ」に向かいます。 パムッカレの石灰棚は、トルコの西部、 デニズリ県にある世界遺産としても登録さ れている観光地です。パムッカレとは、 トルコ語で「綿の宮殿」という意味があり、 昔からこのあたりで綿花が多く生産されて いたことから名づけられたようです。 |
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パムッカレの石灰棚の一部です。 | |
こちらも「石灰棚」の眺めです。 | |
コンヤにある「スルタンファン(キャラバン サライ)」です。 コンヤからカッパドキアへと向かうD300号線 (コンヤ-アクサライ線)の途中に、 スルタンハンという隊商宿(キャラバンサライ )の町があります。その昔シルクロードの 隊商たちが立ち寄った町です。 画面にポインターを置くと正面玄関の 拡大画面をご覧いただけます。 |
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コンヤのメピラーナ博物館のまえにある 旋回舞踊の人形です。 |
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コンヤのメビラーナ博物館です。 トルコ南西部、アナトリア地方に 位置するコンヤ。首都アンカラの南に 位置し、人口120万人以上の大都市です。 1077年から1308年のセルジューク朝の 時代は首都として栄え、各地から学者や 芸術家などが集められました。 |
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博物館内部の展示です。 |
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旋回舞踊で世界的に有名なイスラム 神秘主義教団「メヴラーナ教」の発祥の 地です。博物館として一般公開されて いる内部には舞踊の際に着用した 衣装や儀式に使用されていた道具 などが展示されています。 創始者メヴラーナの霊廟は眩いばかり の装飾で施されており、外観も青い タイルが印象的で美しいです。 画面にポインターを置くと 霊廟の内部の様子をご覧いただけます。 |
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コンヤからカッパドキアへと向かいます。 「ギョレメ野外博物館」です。 ここは10世紀から12世紀に、当時の |
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洞窟の内部です。 昔の人の生活の後が残されています。 |
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同じく洞窟内部の様子です。 | |
「カッパドキア」です。 カッパドキア( Cappadocia)はトルコの |
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カッパドキアの様子です。 | |
こんな岩が林立しています。 柔らかい地層と硬い地層が重なり合い 侵食しあった結果できたキノコのような 形をした不思議な巨岩が乱立する地域です。 その不思議な地形から世界遺産に 認定されています。 |
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アンカラからイスタンブールへ向かう 夜行寝台列車です。 |
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ボスボラス海峡からのイスタンブール ヨーロッパ市街の眺望です。 左端はブルーモスク、その右はアヤソフィヤ、 右手にはトプカプ宮殿が見えています。 |
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ボスボラス海峡にある「クズ塔」です。 ウスキュダルの海岸から200mほどの ボスポラス海峡上にある小島に建つ塔で、 「乙女の塔」という意味があります。 1763年に再建されたもので、 |
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イスタンブール新市街地の一部です。 中央に見える「ガラタ塔」は、ボスポラス海峡 から、旧市街から、そしてアジア側からも 見える、イスタンブール新市街の ランドマーク的存在です。 |
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上図の左手方向の眺望です。 | |
ボスポラス大橋です。 左手の街並みはヨーロッパ地区です。 ボスポラス海峡を境に2つの陸に 分かれているイスタンブールの町は、 それぞれをヨーロッパ側(西側)と アジア側(東側)と呼ばれています。 こちらは西側になります。 |
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ボスボラス橋の反対側です。 こちらはアジア地域になります。 |
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海峡沿いに建つ「ドルマバフチェ・モスク」 です。 この右手にはドルマパフチェ宮殿も あります。 |
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城壁のような「ルメリ・ヒサル」 海峡の幅が狭くなってくるとヨーロッパ側に 見えはじめるのが、オスマン帝国の要塞 ルメリ・ヒサルです。1452年、オスマン帝国 のメフメット2世が、翌年のコンスタンティ ノープルの攻撃に備えて、約1万人の労働者と 1000人の石工職人を動員し、僅か4ヶ月で 築いたと言われています。 |
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トプカプ宮殿の外廷の正門 「挨拶の門」です。 門から先は有料となります。 トプカプ宮殿(Topkapı Sarayı、 「大砲の門宮殿」の意)は、 15世紀中頃から19世紀中頃まで オスマン帝国の君主が居住した宮殿です。 イスタンブール旧市街のある半島の 先端部分、三方をボスポラス海峡と マルマラ海、金角湾に囲まれた丘に 位置しています。 |
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トプカプ宮殿の内部の一部です。 |
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同じくトプカプ宮殿の内部で、広々とした 中庭があります。その横にあるのが、 皇帝のお気に入りの女性たちが暮らしていた 寵姫たちの部屋です。 |
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