今帰仁城跡
 元のページへ戻る
14世紀の琉球に、三大勢力が割拠した
グスク時代、沖縄本島北部の覇者、山北王が
天険の地に築き上げた百曲りの城壁をもつ
今帰仁城の城跡です。

1609年に薩摩軍の侵攻により、城は炎上し
監守が住まなくなった後は礼拝所として
利用されて来ています。

画面の赤○数字は以下の写真の場所です。
今帰仁村のHPから拝借した往時の状態の鳥瞰図です。
長い城壁に囲まれた城の状況がよく判ります。



駐車場から城内への通り道に
外郭があります。
高さは2m程度の石垣ですが、
蛇行していて延長は数百mに
なります。




外郭の別角度からの眺めです。
延々と続きます。


この城郭は大隅の外壁に
なります。
今帰仁城で最も高い石垣です。


上の石垣を右に出ると
世界遺産の表記が有ります。
案内図も付いています。
城内への石畳の道が続きます。


石畳の道を進むと
平郎門(へいろうもん)に出ます。

これが城の正門です。
1713年の「琉球国由来記」に
平郎門の名称がでていますので、
重要な門であったことが判っています。

然しながら1900年代初には
この門は崩落していたことも
判っています。

1961年12月から1962年4月に
かけて現在のように修復
されました。


門を入ると大隅(ウーシミ)への
通り道があります。
この先に広い場所があるとは
チョットわかりません。

大庭(ウーミヤ)は正殿、北殿、南殿
に取り巻かれている広場で、行事に
利用された場所のようです。
大庭から主郭へ向かう途中に
「志慶真乙樽(シゲマウトウダル)
の歌碑があります。

「今帰仁の城
   しもなりの九年母(クニブ)
      志慶真乙樽が
          ぬきゃいはきゃい」

内容は、乙樽と言う美女がいて、
その噂が国中に広まり、山北王が
側室にして仕えさせました。
山北王には子供がなく、王妃も乙樽も
子供のできることを祈っていたところ
王妃に子が授かり、そのことを
季節外れにみかんが実ったことに
例えて、子供のはしゃぐこ声に満ちた
平和な様子を謡ったものです。

 御内原(ウーチバル)から見た大隅の眺めです。戦時に備えて馬を飼い、兵馬を訓練した場所だそうです。


御内原(ウーチバル)から見た
古宇利島(だと思いますが)です。
北方向を見ています。



上から眺めた志慶真(シゲマ)門郭
です。ここは城主に仕えた身近な
人が住んでいた場所で、4つの
建物が有ったようです。


主郭(本丸)です。
城内で最も中心になる建物が
有った場所です。
発掘調査で築城から廃城までの
時期変遷を確認することが出来た
そうです。


主郭にあるお社です。火の神の祠と
よばれ参拝者が多いそうです。

前の石碑は
「山北今帰仁城監守来歴碑」と
呼ばれる碑で県の有形文化財に
なっています。

近くにいたガイドさんらしき人が
ここに百円玉を供えると願いごとが
かなうと言ってました。

若い二人連れが門を開けてもらって
百円玉をお供えしていました。(下図)



主郭の外側の状況です。
深い崖にこれだけの石垣を
重機もなしによくも組んだものだと
感心します。


志慶真(シゲマ)門郭です。
杭が打たれている場所は
建物があった所だそうです。


志慶真門郭の全景です。
帰り道に咲いていた
「ブッソウゲ(仏桑花)」です。
沖縄では通常アカバナーと
呼ばれています。


今帰仁村歴史文化センターです。
 元のページへ