|
元のページに戻る |
シュノンソー城は城主が歴代女性でした。
初代はアンリ2世の愛妾「ディアーヌ・ド・ポワティエ(1499~1566)」です。
アンリ2世逝去後はその未亡人の「カトリーヌ・ド・メディシス(1519~1589)」がディアーヌを
城から追い出して入りました。
1589年アンリ3世の逝去により、その夫人のルイーズ・ド・ロレーヌ(1553~1601)」が
白い服をまといシュノンソー城に引きこもりました。彼女の逝去後シュノンソー城は王族の居城としての
役割は終わっています。
その後「ルイーズ・デュパン(1706~1799)」がこの城で知識人のサロンを催し、ルソー、モンテスキュー
等を招いたそうです。彼女によりフランス革命の時にこの城が守られました。
更に、19世紀の産業資産家出身の「マルグリッド・ベル―ズ(1836~不詳)」が入居しディアーヌの
時代の城に復元しようとしましたが、破産のため、1913年まで何度か転売されています。
第一次大戦中は城を病院として利用し、「シモーヌ・ムニエ(1881~1972)」が看護婦長として病院の
運営を担当しました。
これら6名の女性の居城であった事より「6人の貴婦人たちの城」と称されることになりました。
城をはいってすぐにある 護衛兵の間です。 壁面にはフランドルの タペストリーが掛っています。 |
|
礼拝堂です。 ステンドグラスは 元のものは1944年の 爆撃で破壊され、 1954年にマックス・アングラン により製作されました、 |
|
ディアーヌ・ド・ポワティエの 部屋です。 タペストリーは16世紀に フランドル地方で織られた ものです。 後に載せていますが この部屋には メディシスの肖像画 暖炉の上に掛っています。 |
|
ギャラリー(回廊)です。 丁度川の上に作られた 部分が此処になります。 メディシスが1576年に 作らせたものです。 全長60m、幅6mの回廊で 舞踏会場として利用 されたようです。 |
|
ルイーズ・ド・ロレーヌの 居室です。 彼女は夫アンリ3世が暗殺 された後、ここで瞑想と 祈りの日々を過ごしました。 従い、この部屋は灯りが 全くありません。 残っていた天井を基に部屋が 復元されています。 ポインターを画面に置くと 当時のままの天井が ご覧頂けます。 (ちょっとボケてますが・・・) |
|
3階のホールです。 戸棚やテーブルは ルネッサンス期のものです。 |
|
1624年に城主となった セザール・ド・バンドームの 居室です。 調度品はルネッサンス期の ものです。 |
|
五人の王妃の居室です。 五人の王妃とは メディシスの二人の娘と 三人の義理の娘をさします。 16世紀の格子天井には 5人の王妃の紋章が 描かれています。 壁には一面フランドル タペストリーが掛っています。 |
|
カトリーヌ・ド・メディシスの 居室です。 だいぶボケてますが、 床は赤レンガです。 ベッドは天蓋付きで、柱や 横羽目板には彫刻が 施されています。 壁の絵はコレッジョの 「愛の教え」です。 この絵は木版に描かれており、 キャンバス地の作品は ロンドンのナショナルギャラリー に納められています。 |
|
二階のスペースにある 暖炉です。 暖炉の彫刻には アンリ2世のHと カトリーヌのCの組合せで 更に、ディアースのDを現した マークが付けられていました。 |
|
フランソワ1世のサロンです。 数々の絵画が掛っていました。 調度品は15世紀と16世紀の 物が飾られています。 |
|
厨房です。 川の上の城の橋脚部に 設置されており、 地下部分となります。 食材を川から引き上げる 事も出来るようになって いました。 銅の鍋釜類は綺麗に 磨き上げてあります。 |
|
食器棚です。 | |
ポワティエの居室の 暖炉の上にある ソバージュによる メディシスの肖像画です。 下にある文字はHとCの 組合せで、アンリ2世のHと ディアーヌのD、そして カトリーヌのCと言われています。 いまどきのブランドに 似ていますが・・・・ |
|
城内には非常に多くの 絵画が残されています。 一つ一つ説明を聞くと 一日では終わりそうもない数 です。 右は天井画です。 |
|
左はカトリーヌ・プリソネの ホールにかけられている 17世紀のオードナルドの タペストリーです。 右はフランソワ一世のサロンに 架かっている「三美神」です。 ファン・ローの作品で ルイ15世の竉妃ネールの三姉妹 であるシャトール夫人、 ヴァンティミリア夫人、マイイー 夫人がモデルとなっています。 |
|
このページのトップ | 元のページに戻る |