イーストサイドギャラリー (ベルリンの壁遺跡)
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冷戦時代のベルリンの壁は西ベルリンの領土の境界150kmの内、115kmに1961年に東側が壁を作りました。
東ベルリンの人が西側へ抜けない様にするためです。西側の人達はわりに自由に東側へ入れたようです。
壁の東ベルリン側には100mの無人地帯が作られ、壁は真っ白に塗られ、人が近づけば判る様にしていました。
西側では、壁の傍まで行けたのだそうです。
1989年に東欧革命が進行し、周辺社会主義国の自由化が始まりました。これにより、東ドイツの人々が周辺国経由で
西ドイツへ脱出することが可能となり、壁の意味が殆どなくなりました。更には、東ドイツ中央委員の不手際で、東西ベルリンの
往来が自由となり、1989年11月に壁はその意味からは崩壊しました。

ドイツ統一後に冷戦の象徴としてベルリンの壁を保存することになり、シュプレー川沿いの壁1.3kmが遺されました。これが、
現在のイーストサイドギャラリーとなっています。壁には24の国の芸術家118人による壁画が描かれています。

また、ベルリン中央部の「テロのトポグラフィー」のある場所の壁も一部が遺されています。
冷戦時代のベルリンの地図です。

黄土色の線は1961年に作られた
ベルリンの壁の全長です。

緑の線(中央)は現在残されている
「イーストサイドギャラリー」の部分です。
約1.3kmあります。
今回立ち寄ったのはその内の
約100m程の部分です。

赤丸は「チェックポイント・チャーリー」です。



バスの駐車した場所からの
壁の様子です。

左端の「キス」の絵には人が一番多く
集まっています。
壁の一部が取り外され、川の傍へ
移されています。

反対側からの眺めを損なわない為との
説明で、お役所の建物と
聞いたように思いましたが、実際は
違っていました。

こうしてみると壁の厚さは極薄いのが
良く判ります。
取り外された壁の反対側に
建っていたのは
「メルセデスベンツ・アリーナ―」
でした。

ドイツで2番目の収容人数1.7万人の
多目的アリーナ―です。

ここからの眺めの為、壁をちょん切った??

余談ながら信号機のランプが
丸ではなく人のような形になっています。
他のページでも説明済みですが、
旧・東ドイツ時代に誕生し、現在でも
ベルリンを中心に活躍している
「アンぺルマン」です。


川向うは西ベルリン・米国管轄区
でした。

「兄弟キス」または「独裁者のキス」と
呼ばれるこの作品には、旧ソ連の
ブレジネフ書記長と旧東ドイツの
ホーネッカー書記長のキスシーンが
描かれています。

描かれた二人のキスは戦後東ドイツを
支配していた旧ソ連と旧東ドイツの
密接な関係を皮肉っているそうです。
東西分断時代のソ連と東ドイツの癒着が
ベルリンの壁に描かれているわけです。

左端に作者の名前が書かれていますが、
「Dmitry Vrubel」と読めます。
こうした絵が1.3kmの壁に
描かれています。

ただ、場所によっては落書きが多く、
景観を崩している個所もあります。

人が大勢訪れるこの辺りは、管理が
行き届いているようです。
左は壁の南東端です。

ここから北西方向へシュプレー川沿いに
1.3km続きます。
こちらは「テロのトポグラフィー」に
残されているベルリンの壁です。

ドイツゲシュタボの本拠地の壁です。
上記の壁の裏側です。

鉄筋が浮き出ています。
記念に壁土を持ち出す人が多く、
壁が薄くなるので、柵を付けて
近寄れないようにしたのだそうです。
こちらはチェックポイントチャーリーに
残されているベルリンの壁の跡です。

四角い石の並んでいる部分が
元壁の有った部分です。
大通りを仕切っていた壁の跡です。
1961〜1989と記されています。
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