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今回のクルーズは午後発の便でしたが、 古城は殆どがボンに向かって左手にあり、 逆光となって見難いので、ライン川クルーズは 午前出発が良いなぁと感じます。 ゆったりと航行する船からの眺めは 時間を忘れさせてくれます。 次から次へと古城が現れ、船内放送は ドイツ語、英語、日本語、中国語などで 行われています。 日本語は説明が後になるので、見るものが 続くと、説明が間に合わないこともあります。 ゆったりと過ごすか、慌ただしく過ごすか、 難しい所です。 |
クルーズ船、ゲーテ号が出航しました。 左手がリューデンスハイムの街で、 川に突き出ているのは観光船の埠頭です。 我々の船は最も右側のバースから出航 しました。 |
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最初の見ものは「ニューダヴァルト記念碑」 です。 1883年に完成したゲルマニア像です。 プロシアとフランスの戦争後に作られた ドイツ帝国発足記念碑です。 像の下段にある小さい像の左手は「戦争の像」 右手は「平和の像」です。 |
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記念碑の反対側にある「ネズミの塔」です。 10世紀中ごろ、マインツ大司教の ハットー2世によって築かれたとする 「伝説」があります。 ハットー2世は、飢饉にあって民を救済せず、 それどころか施しを求めた民を穀物庫に 押し込めて火をつけました。苦しむ人々を前に、 尚も嘲りの言葉を吐いたところ、突如鼠の 大群が現れてハットー2世に襲い掛かりました。 驚いたハットー2世はこの塔に逃げ込みましが、 鼠たちは川を渡って彼の体を生きたまま 貪ったと言われています。 この伝説から、ねずみの塔と呼ばれるように なったそうです。 |
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リューデスハイムはワインの産地として 知られています。 丘陵に広がるのは葡萄畑です。 これらの葡萄はワインの原料となります。 |
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葡萄畑の中に佇む「エーレンフェルス城」です。 マインツ大司教ジークフリート2世の 意を受けて、フィリップ・フォン・ボーランデンが 1208年から1220年の間に築城したと されています。フィリップが亡くなると、 未亡人となった妻ベアトリクスは、1222年 ないしは1224年にマインツ大司教に 城の譲り渡し強要されたそうです。 以降、エーレンフェルス城はネズミの塔と セットで大司教の徴税用の城となったそうです。 14世紀からは砦として利用されてきました。 名前の意味は「名誉の砦」だそうです。 画面にポインターを置くと 別角度からのお城をご覧いただけます。 |
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「ラインシュタイン城」です。 記録の上では、1323年、マインツ大司教 ペーター・フォン・アシュペルトの所有として 出て来るようです。 科学調査によって、築城が始まったのは 1316年ないし翌17年と推定され、 ペーターによる築城であるとされています。 1823年にプロセインのフリードリッヒ王子が 城を買い取り1823〜1829年にかけて 現在のネオ・ゴシックに復元しました。 ライン川沿いの古城の中で一番早く 再建されたといわれています。 画面にポインターを置くと別角度からの お城をご覧いただけます。 |
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「ライヒエンシュタイン城」です。 11世紀に基礎が造られたお城です。 盗賊の巣窟となった時代を経た悪名高い城 なのだそうです。 アーヘンの近くにあるコルネリミュンスター 修道院が11世紀に建てた、ライン川沿岸の 城の中でも最も古い城のひとつです。 13世紀の城代が盗賊騎士に堕落してしまい、 1213年に罷免されました。次の城代も 盗賊騎士として暗躍するようになったため、 1254年にライン都市同盟によって破壊されて います。 画面にポインターを置くと 正面からの城をご覧いただけます。 結構横幅の長い城です。 |
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ライン川沿いにある村落の一つ トレヒティングスハウゼンです。 建物の数は結構あり、船着き場もあります。 |
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「ゾーンエック城」です。 11世紀に建設されたようです。 1241年に城代となったフィリップ・フォン・ ホーエンフェルスは“盗賊騎士”となって しまいました。 1344にマインツ大司教が単独所有者となり、 1346年にヴァルトエックの主馬頭たる 騎士ヨハンに封土としてゾーンエック城は 与えられました。 難攻不落の城と言われました。 1825年、後にプロイセン王フリードリッヒ・ ヴェルヘルム4世となった当時の皇太子が 買い受け、1834年に狩猟城として再び 改築しています。 画面にポインターを置くと 別角度からの画像をご覧いただけます。 |
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滔々たる流れのライン川です。 前方が川下でボン、ケルン方向です。 左岸には村落が点在し、右岸は葡萄畑が 続きます。 ゆったりとした時が流れて行きます。 |
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ニーダーハイムバッハ集落の中にある 「ハイムブルク城」です。 1305年に完成しています。 他の城に比べ、街に溶け込んだ城です。 1920年にはフーゴー・シュティンネスが 所有者となり、城をネオ・ゴシック様式に 改築しています。 現在は個人所有となっており、公開は されていないそうです。 |
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「フュルステンベルク城」です。 1219年にケルン大司教がバッハラッハ 周辺の領地の防衛のために築城したものです。 後に、通行税の取立所になっています。 1243年にプファルツ伯の世襲領土に 組み込まれています。 円形の塔が特徴の古城です。 |
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「シュルターエック城」です。 1100年ごろに、バッハラハ周辺を領地と していたケルン大司教によって築かれたと 考えられているお城です。 1925〜1927年にユースホステルに 改装されました。 1931年に本丸、1965〜1967年に 天守が改修され、現在はドイツで最も美しい ユースホステルとなっているようです。 |
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中世の佇まいを残す「バッハラッハ」です。 この街が歴史文書の中に初めて登場 したのは11世紀と言われています。 街の名前バッハラッハは、ローマ神話に 登場するワインの神「バッカス」が由来に なっているとのことです。 古くからこの地一帯のワイン集積所として 栄えてきた、ワインの街なのだそうです。 観光船もここに立ち寄り、乗客の乗降が あります。 |
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クルーズ船の船首部分です。 夕陽射しの強い中、欧米人はその陽射しを 楽しんでいるようです。 ライン川の傍を走る鉄路を時折列車が 通過します。 画面では貨物列車が通過しています。 |
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「ブファルツ城」です。 1326年に通行税を徴収する関所として、 ライン川の中州に建てられた古城です。 現在は、資料館となり見学も出来る そうです。 軍艦を模して作られているようです。 |
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「グーテンフェルス城」です。 1200年ごろに築城された、ライン渓谷の 軍事上の拠点として活躍したお城です。 神聖ローマ帝国の意向により参事官により 建てられ、当時はカウプ城と呼ばれていました。 現在は手前の塀に「HOTE」と書かれて いるように、ホテルになっているそうです。 |
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上の二つの城はこのような位置関係に あります。 やはり葡萄畑が多いです。 |
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「シェーンブルク城」です。 10世紀にザクセン家の皇帝によって 築かれたといわれるお城です。 この頃から「シェーンブルク=美しい城」 という名前を持っていたそうです。 レ・ミゼラブルの作者ビクトル・ユーゴが 「最も美しい廃墟」と絶賛したことでも 有名なのだそうです。 現在はホテル&レストランとなっています。 画面にポインターを置くと 別角度からの画像をご覧いただけます。 |
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「オーバーウェーゼル」の街です。 | |
オーバーウェーゼルの街から眺める 「シェーンブルク」城です。 |
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「ローレライ」です。 水面から130mほど突き出た岩山のことで、 ライン川航行の難所として、多くの船が 此の辺りで沈没したそうです。 このため、昔ライン川を航行していた 船員たちが、このローレライの近くを 通りかかると、岩の上から歌声が聴こえてきて、 そのあまりの美しさに舵を取るのも忘れて、 水没してしまう、という伝説になりました。 ドイツ詩人ハイネはこの伝説をとても ロマンチックなものにして詩をつくり、 作曲家ジルヒャーが曲をつけて歌い 継がれています。 クルーズ船内でもこの近くへ来ると 「ローレライ」の曲が船内放送で流れます。 画面にポインターを置くと「ローレライ」の 標示板をご覧いただけます。 |
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「ネコ城」です。 正式名は「ノイカッツエンエルンボーゲン城」 です。 ネコ城の由来は築城者の顔が猫に似ていた とか、正式名は「猫の肘」という意味がある からとか言われているようです。 今までの古城の殆どが川の通行税を 徴収するための関所だったのと同様、 この城も通行税徴収のために作られた 城です。 1989年以来日本人男性の所有で、 一般公開はされていないようです。 現在はプライベートな高級ホテルに なっています。 画面にポインターを置くと ライン川との位置関係が判る画像を ご覧いただけます。 画像の川沿いに延びる街は ザンクトゴアールズハウゼンです。 |
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下船場所の「サンクト・ゴアール」です。 ここで下船する人が多いですが、ここから 乗船する人もいます。 街は1324年に形成されています。 ここから陸路フランクフルトへ向かいます。 |
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