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松山城は市の中心部にある勝山(城山ともいう)山頂に本丸、 南西の麓に二の丸、三の丸を構えている平山城です。 1602年(慶長7)に伊予の国の大名加藤嘉明が築城に着手し、 加藤嘉明は城の完成を待たずに会津に転封となり、1635年(寛永 12)松平定行が15万石の藩主として松山城を居城にしています。 1784年(天明4)に落雷で焼失し、1854年(安政元)に12代目 藩主の勝善により大天守を含む本丸本檀が再建されました。 明治の廃城令で大蔵、内務省の管轄となり、本丸は1923年(大正 12)に旧藩主の久松家に払い下げられ、そのまま松山市に寄贈され、 二の丸、三の丸は終戦まで陸軍省の管轄となっていました。 その後、何度か焼失に遭い、更に1933年の放火、1945年の空襲で 多くの建物を焼失しています。 1950年(昭和25)に大天守以下21棟の建造物が国の重要文化財 に指定され、1952年には二の丸、三の丸を含む松山城山公園が 国の史跡に指定されました。 本丸への登城路は北に1本、南から3本ありますが、南東側から ロープウェイとリフトが設置され、殆どの観光客はこれを利用しています。 |
市内から眺める松山城です。 大天守閣と小天守閣が見えます。 日本でも数少ない連立式天守群を 有する平山城で、天守は現在 にほんで12か所しか残っていない、 「現存12天守」の一つです。 こうしてみると結構高い山の上に あるのが判ります。 |
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松山城の概念図です。 山の頂上に本丸、中腹に二の丸、 麓に三の丸(堀之内)が配されて います。 登城路はオレンジ色の道です。 我々は秋山兄弟誕生地を訪れた後、 ロープウェイ東雲口からリフトに乗って 長者ヶ平に上がりました。ここから 本丸まで更に結構登ります。 下りは大手門跡から黒門方面へ 徒歩で下りました。なかなか厳しい 下りでしたが、何とか降りられました。 二之丸史跡庭園を見学して、県庁から 坂の上の雲ミュージアムへと向かい ました。 本丸本檀の建造物は以下の写真で ご覧いただけます。 |
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ロープウェイは10〜15分おきの 運行のため、時間節約ですぐ乗れる リフトで登りました。料金は同じです。 |
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長者ヶ平から本丸へ向かう途中に 出会う石垣です。 揚木戸門跡から戸無門へ向かう 途中に有ります。 見えている櫓は隠門続櫓です。 |
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戸無門(重文)です。 門の奥に太鼓櫓が見えるはず でしたが、修理中でテント張りに なっていました。 |
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筒井門と西続櫓です。 1949年(昭和24)に不審火で 右手の続櫓共々焼失しています。 焼失前は国宝に指定されていました。 この門は守りの要の門となっており、 松山城最大の門です。 |
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左が筒井門東続櫓です。 その右手が隠門と続櫓です。 こちらは重要文化財に指定 されています。 この櫓が揚木戸門跡から見える 櫓です。 |
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筒井門(隠門)をでた所の 太鼓門の続櫓です。 突き当りを左に折れると太鼓門に なります。 |
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太鼓門に連なる巽櫓です。 |
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太鼓門と続櫓です。 この門は本丸への第二の防衛線と なっています。 |
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太鼓門を抜けると本丸の広場へ でます。 本丸の井戸です。 この井戸は築城時谷だった場所を 埋め立てて、泉を掘り下げ石を積み 上げて作られたと言われています。 深さ44.2m、水深は9mあります。 井戸の上屋は戦災で焼失し、 1952年に最初に再建された 建造物です。 |
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本丸広場から眺める大天守閣と 小天守閣です。 左手の建物は馬具櫓です。 桜の開花時期にはより美しい景観が 見られることだろうと思われます。 |
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小天守閣と左手紫竹門(半分見えてる) と東塀です。 東塀は重要文化財に指定されて います。 小天守の奥に見える櫓は多聞櫓です。 |
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本檀の紫竹門前の広場から眺める 大天守閣です。 その手前は筋鉄門東塀です。 天守二層目の屋根は唐破風に なっています。 右手に一の門が有ります。 |
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一の門です。国の重要文化財に指定されて います。 |
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二の門です。やはり国の重文です。 石段が急なので、補助階段が作られて います。 |
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三の門(重文)を入った所です。 筋鉄門への経路です。 |
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三の門を抜けると筋鉄門があります。 左は筋鉄門東塀で重文です。 左の櫓は小天守閣です。 門の柱に鉄帯が貼られているので、 この名前が有ります。 櫓は大天守閣と小天守閣の通路に なり、三の門を守る構えとなっています。 写真後方が三の門です。 二度焼失しており、現在の門は 1968年(昭和43)に復元されて います。 |
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本檀の中心で右手に天守閣があり、 正面は十間廊下と内門、左の入口は 玄関多聞、左の櫓は北隅櫓です。 画面にポインターを置くと 画面の左側をご覧いただけます。 右は南隅櫓と渡り廊下、左は小天守 です。 |
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北櫓の内部です。 展示場になっています。 飾れている花は仮屋崎省吾の 作品です。この時期にイベントとして 城内各所に假屋崎の生け花が 飾られていました。 それを目当ての地元の方も 大勢おられたようですが、 でも、お城には似合わない飾です。 お城の各部屋に花が有り、 城の鑑賞には邪魔なものでした。 |
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天守閣からの眺望です。 本丸広場を眺めています。 中央の櫓は馬具櫓です。 右手には二之丸庭園が見えており、 その更に右手に堀の内の県立 美術館も見えています。 |
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大天守閣の3階です。 三層で上に行くほど面積が 小さくなっています。 |
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天守閣から北西方向の眺めです。 瀬戸内海が見え、松山港や與居島の 小富士(282m)や中央には弁天山 (130m)が遠望できます。 手前左が南隅櫓、右は北隅櫓です。 渡り廊下の向こうは乾櫓です。 |
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天守から南方向を眺めています。 中央の堀は南堀で堀の向こうに 伊予銀行、その隣家庭裁判所、 堀の左手は松山市役所です。 右奥に観覧車が見えますが、 松山市駅の駅舎にある高島屋の 屋上です。 |
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天神櫓へ向かう仕切門(重文)です。 北側の防備を固める高麗門です。 左手の内塀も重要文化財に指定 されています。 |
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天神櫓です。 久松松平家の遠祖である 菅原道真公を祀ったことから この名が付いたそうです。 1979年(昭和59)に復元 されています。 |
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天神櫓の前から眺める天守閣です。 建設当初は五重天守でしたが、 1642年に三重天守に改修されて います。1784年に落雷で天守も 焼失し、現在の天守は1852年再建し 1854年(安政元)に落成しています。 天守としては三代目になります。 標高132mに有り、市内から良く見えます。 天守は高さ20m、各層に千鳥破風が 付いています |
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本丸広場にある馬具櫓です。 後ろは長い石垣となっています。 元は国宝でしたが、焼失の為 1958年(昭和33)復元されました。 |
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下りは黒門登城道を利用して、 二之丸庭園へ向かいました。 二之丸庭園手前にある槻門跡です。 槻門(けやきもん)は本丸大手門と 二之丸搦手門との分岐点に位置する 重要な門で、城内最大の櫓門が 有ったそうです。 |
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二之丸多聞出入り口です。 松山初代城主・加藤嘉明によって 松山城の築城が行われ、二之丸が 完成したのは二代目城主・蒲生忠知の 時代とされ、完成まで約四半世紀が 費やされたとの事です。 二之丸は「松山城二之丸史跡庭園」 となっています。 |
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多聞入口を入ってすぐ右手にある 続櫓跡です。 現在は展示室に使われており、 神輿などの展示が有ります。 画面にポインターを置くと 松平貞直公由来の神輿 (八角、千本、四角)が展示されて います。 |
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二之丸御殿の跡地が庭園に なっています。 夫々の部屋の間取りに合わせて 区画されており、池や花壇になって います。 この辺りは奥御殿の有った場所です。 奥の方が表御殿になります。 表御殿跡は各部屋が柑橘類の庭に なっています。(画面にポインターを 置くと、部屋の後をご覧いただけます) 二之丸から天守閣が遠望できます。 |
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奥御殿の傍にある「林泉庭」です。 | |
大井戸の跡です。 この辺りは表御殿になります。 |
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「俎石」と呼ばれる石で、 二代目藩主蒲生忠知は当初は 名君と言われていたのが、世継ぎの 出来ないことで苛立ち、傍若無人な 行動が始まったと言われています。 特に、妊婦を見つけると二之丸に 連れてこさせ、俎石と自ら名付けた 石に括り付け、腹を割いて胎児を 取りだしたと言われています。 これにより、「まないた石」とか 「鳴かない蛙」などの昔話が 遺されているそうです。 案内板には二つのストーリーが 書かれていますが、少し長いので ここでは省略しました。 |
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二之丸から本丸へ向かう門です。 左手が北門です。右は脇門でしょう。 |
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二之丸の南側です。 県庁方面に出られます。 |
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南側駐車場から見る 二之丸の城壁です。 左方向は三の丸(堀之内)に なりますが、今回はスキップしました。 |
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