黒木御所址と碧風館
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1331年(元弘元)に始まった鎌倉幕府討幕の戦いで、天皇方の敗戦で後醍醐天皇は1332年(元弘2)に隠岐配流決まり、
「隠州視聴合紀」によると、美保関から隠岐に向け出帆され、西ノ島別府の黒木御所に移られたと記されているそうです。
ところが、約一年後、隠岐脱出に成功し、京都へ還御され、「建武の中興」を行ったとされています。
なお、後醍醐天皇の行在所としては、島後の国分寺であったとの説が明治以降に出て、国がこの国分寺説を採ったことで、
隠岐内では2説が語られています。因みに、国分寺は国指定の史跡で、西ノ島の黒木御殿は県の史跡になっています。
黒木御所の敷地内に後醍醐天皇を祭神として黒木神社が設けられており、なぜか安産の神様とされています。
「黒木(くろぎ)神社」・「後醍醐天皇
行在所」の入口です。

後醍醐天皇行在所は「黒木御所」と
呼ばれています。

左手に見える建物は「碧風館」で
黒木行在所に関わる資料・写真を
展示している部屋です。
極小さな展示場です。

黒木(くろぎ)とは、暫くすると黒く
変色する樹皮のついたままの木材の
ことで、黒木御所とは黒木を使って
急いで建てられた(質素な)御所という
意味のようです。
参道の一番端は海の前に立つ鳥居です。
参道階段の横には
「黒木御所阯」の石碑と
「建武中興発祥の地」の石碑が
建てられています。

後醍醐天皇が京都に戻り行った
建武中興はここから後醍醐天皇が
戻られたことに因るの意味でしょう。

黒木神社への参道になります。
手水舎です。

石段の途中に設けられています。
黒木神社の拝殿です。
後醍醐天皇行在所阯(御殿跡)です。

手前は今上天皇の皇太子時代に
行啓され手植えされた記念樹です。

この石碑の文字は「比田井天来揮毫」と
なっていました。書道をする人にとって
神様みたいな人だそうです。
後醍醐天皇の歌碑が置かれています。

「こころざす かたをとはばや 波の上に
   うきてただよふ あまのつり舟」

とあります。

「こころざし(倒幕)のため(脱出して帰る)
方角はどちらか、波の上に見える
海士(漁師と地名両方の意味がある)の
舟に聞いてみたいなあ」
と解釈されるようです。
「紀念砲弾」です。

日露戦争時代に乃木大将の率いる
日本軍の猛攻に耐えきれず、逃げ出した
ロシア軍艦「セウストーポリ号」は
東郷軍の水雷艇隊により沈没させられ、
その艦艇と共に15年間沈没していた
この砲弾を引き上げ、記念として
置いているとの事です。
「碧風館」の展示品です。

左は黒木御所阯の石碑の拓本です。

右端には後醍醐天皇の肖像画があります。

「碧風館」は、後醍醐天皇の隠岐での
行在所がこの地であることを証する
文章は残されていませんが、口伝等での
伝承を纏め、この地の正当性を求める
展示場です。

いずれにせよ、後醍醐天皇が隠岐に
流刑となった事実は変わらないでしょう。
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