後鳥羽上皇行在所跡  元のページへ戻る
1221年(承久3)、後鳥羽天皇が隠岐に流されたとき、旧源福寺を行宮とされました。行在所跡には、
院の御製にある「勝田池」と「礎石」が当時を物語るように今に残っています。
源福寺跡は敷地のみで建物等は残されていません。看板には「我こそは 新島守よ おきの海の あらきなみ風
心して吹け」の御製が記されています。
後鳥羽天皇(上皇)の火葬塚、行在所
への参道です。
参道入り口には「宮内庁」の通知が
掲げられています。

一帯は宮内庁管轄地です。

後鳥羽天皇火葬塚、行在所への
参道入り口にある「網掛けの松」です。

説明板によれば、
「明治初期まではこの辺りまでが
海岸で、当時は松の巨木が
随所にあり、夫々に船を繋いで
いたもので、行在所があったことから
この松は後鳥羽天皇の船を舫った
松と思われます。」との事ですが、
松は枯れてしまっています。
代替わりの松が植えられています。
後鳥羽天皇御火葬塚から行在所へ
向かう石段です。
正面石組みの奥に行在所があります。
行在所前にある院の歌碑です。
ここで後鳥羽上皇は19年間
和歌の世界で幽居中の憂さを
晴らされていたようです。

行在所跡や隠岐神社境内には
数多くの歌碑が立てられています。


勝田池(刈田池とも)の傍に立つ
上皇の御製歌碑です。
上皇はこの池を好まれていたそうです。

歌碑は
 蛙鳴く 刈田の池の 夕だたみ
        聞かましものは 松風の音

歌碑の傍の勝田池(刈田池)です。
割りに小さい池です。
池の傍に大正天皇の皇太子時代に
お手植えされた松の木があります。
1907年(明治40)に訪れています。

残念ながら枯れています。
碑の後ろの根が手植えの松です。
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