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高田城は、1614年(慶長19)に、徳川家康の六男、松平忠輝の居城として加賀の前田氏、米沢へ移封された
上杉氏など13大名による国役普請として築城されました。忠輝の舅、伊達政宗が普請総代として指揮を執り、
大阪の陣を目前に、わずか4か月足らずで竣工させています。
忠輝は1610年(慶長15)に堀氏に代わって越後福島城に入り、その後、福島城を廃して高田城を築きました。
しかし、1616年(元和2)忠輝は改易となり、松平光長が高田城に入り、高田藩最大の賑わいを迎えます。
1665年(寛文5)の高田大地震の復興、直江津港の改修、用水路の開削などの繁栄政策は「越後騒動」を
招き、光長も改易されました。(註:越後騒動とは高田藩の首席家老と松平一族とのお家騒動で、綱吉により
厳しい裁きを受け、高田藩は改易となっています)
改易後は幕府直轄となっていましたが、1741年(寛保1)に榊原政永が姫路から入封し、榊原氏の統治は
その後6代130年間続きました。
明治に入り1970年(明治3)に本丸御殿と三重櫓を焼失し、1971年(明治4)に廃藩となり、1973年(明治6)に
廃城令により高田城は陸軍第13師団が管理することになりました。この時期に城の殆どが取り壊されました。
第13師団が入った時に、桜の木2千2百本が植えられ、その後も桜の木が増え、現在約4千本になっています。
これにより、日本三大夜桜の高田として知られるようになりました。
城址公園内には高田出身の画家、小林古径の旧家が移築され、記念美術館も併設されています。さらに、博物館、
図書館も園内にあり、市民の憩いの場となっています。
高田城三重櫓です。 前述のように高田城には天守閣や 石垣がなく、この三重櫓と本丸御殿が メインのお城でした。 本丸、三重櫓ともに焼失し、 三重櫓のみが再建されました。 土塁の上に櫓が立っており、厳めしさより 自然を感じるお城です。 |
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内陣へはこの堤と極楽橋のみがアクセス ルートとなります。 元の城の絵図面にはこの堤は表示されて いません。元々は極楽橋のみが内陣への 入口になっていたようです。 |
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再建された三重櫓の全景です。 1〜2層はコンクリート造りですが、 木造の雰囲気を出しています。 3層目は木組みで造られています。 |
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三重櫓の1〜2層は展示室になっています。 高田城のジオラマや関連資料が展示されて います。 |
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高田藩で使われていた武具や刀剣が 展示されています。 |
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展示物の中に高田城の構造を示す絵が あります。 川跡を外堀に利用したので、複雑な形状の 城になったようです。 説明には、 「高田城は、折衷式と言う分類に入る構造 でした。本丸を中心にその周りを二の丸が 囲み、三の丸を部分的に付け足す形です。 中略、 天主閣は作らず、南西隅の本丸土塁上の 櫓を「御三階」と称して城のシンボルにしました。 中略、 現在も見られる西側の通路は1908年(明治41) に土塁を切って道にしたもので、江戸時代は 連続した土塁でした。 外郭から本丸へは、大手橋を渡って大手門から 三の丸を通り、濁り堀を渡って二の丸へ出て、 更に内堀を渡って南門から入る複雑な構造 でした。」とあります。 |
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別の展示品には本丸の様子を描いた 図面が有りました。 これを見ても堀周りには石垣はなく、 土塁で囲われていたことが分ります。 |
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三層目は木組み造りの模様が 見られます。 ここは展望室になっており、 高田公園の全貌や鉢巻山や妙高山なども 見えます。 |
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南側の内堀の眺めです。 高田図書館なども見えています。 |
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西南方向の内堀の眺めです。 正面に青田難波山(949m)が聳えます。 その左は籠町南葉山(909m)でしょう。 |
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城の西方向、高田市街が遠望できます。 右端の白い建物は上越市博物館、小林 古径記念美術館です。 |
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内堀の西側から城の北方向を 眺めています。右手は本丸跡になります。 |
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極楽橋から眺める内堀と三重櫓の夜景です。 桜のライトアップと三重櫓のライトアップの色が 異なるので、写真以上に幻想的な風景に なっています。 |
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外堀の西堀に面した夜景です。 西堀橋の西側寄りから城側を眺めています。 屋台が数多く出ています。 |
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屋台には昔懐かしい遊びの店が 並んでいます。 |
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