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神奈川県の県庁所在地である横浜市は政令指定都市として、日本の市町村の中で 最多の人口を有する都市です。 横浜市の前身横浜村は室町時代中期の文献にも出てくる地名で、日本の歴史を変える ペリー来訪時の日米の交渉場所ともなりました。この交渉結果で対米開港拠点が横浜となり、 港が作られることになったことで、それ以降の横浜の発展に大きな影響を与えることとなりました。 1859年(安政6)に横浜港は開港されました。以降、海外との往来が活発となり、外国人居住区も 増えて行きました。華僑の人達の拠点として中華街が形成され、西の神戸とともに市の発展に 寄与するところ大と言えます。 市の人口は2015年で371万人と前述の如く日本の市町村で最多となっています。 東京湾に面する地域では埋め立てによる京浜工業地区があり、電力、製鉄、化学、自動車などの 工場が数多く設置されています。 |
横浜八景島 | キリンビール | 横浜三溪園 |
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横浜市の沿岸部は古くから埋め立てと開発が行われ、昭和30年代には中区から金沢区にかけて 湾岸部の大規模な開発が行われた結果、市民がレジャーに用いる水際線がほぼすべて失われました。 このため横浜市では金沢区に「海の公園計画」を策定し、人工島として埋め立てた八景島を作りました。 島内にはいろいろなレジャー施設が設けられています。 |
八景島は人工の埋め立てた島です。住所が横浜市金沢区八景島となっています。 島全体がシーパラダイスと言うレジャーランドです。 施設を何も利用せず、ただ歩き回るだけなら無料で島に入れます。 西寄りの海岸べりから富士を眺める夕日は素敵です。 子供たちは水族館や各種イベント、乗り物と一日中あきることなく遊べます。 この場合はすべて有料となります。 左図は上から鳥瞰した八景島の全体図です。 2014年4月初めに孫と一緒に島の南端にあるホテルに宿泊し、 1泊2日でうろつきました。 水族館は葛西の水族館より小振りながら見ものでした。 |
2014年10月に、参加しているある会のバス見学会でキリンビールの 横浜工場を見学してきました。8月に下見にも行ったので、2回の訪問と なりました。最近の工場は環境維持のため綺麗なところが多いです。 |
日本で初めてのビール工場は、1870年(明治3) 横浜・山手の外国人居留地に作られました。 ノルウェー生まれのアメリカ人醸造技師 ウィリアム・コープランドが設立した 「スプリング・バレー・ブルワリー」です。 その後、スプリングバレーは経営困難になり、 1885年(明治18)に「ジャパン・ブルワリー・ カンパニー」が設立されます。 本格的なドイツ風ビールを作っていた「ジャパン・ ブルワリー・カンパニー」は、1888年(明治21)に、 東洋の霊獣「麒麟」をラベルにしたビールを 発売します。「キリンビール」の誕生です。 1907年(明治40)になると「ジャパン・ブルワリー・ カンパニー」を引き継ぐかたちで、三菱財閥の 出資による「麒麟麦酒株式会社」が誕生します。 関東大震災のあと、1926年(大正15)工場は 生麦に移転し、現在の横浜工場に繋がってきました。 |
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1926年に操業をはじめた生麦では現在も ビール造りが続いています。 |
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工場内の設備の一部です、 大きいもので直径12mもある仕込み釜で、 糖化した麦芽(モルト)にホップを加え煮沸、 ビールのもととなる麦汁を作っています。 |
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濾過器です。 工場内ではほとんど人影が有りません。 滅菌状態での操業になっています。 |
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工場を一歩外へ出ると、工場と言う 雰囲気がなくなり、まるで公園内のような 感じになります。 |
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「スプリング・バレー・ブルワリー」が作る横浜の 湧水を用いたビールは、居留地の外国人たちの 評判が高く、新橋〜横浜間に鉄道が敷設されると、 日本各地にも出荷されました。また、ここで修業を 積んだ日本人醸造者たちは、のちにビールの 国産化において重要な役割を担うことになります。 その「スプリング・バレー・ブルワリー」を模した レストラン「スプリング・バレー・ブルワリー」は ミニブルワリー(醸造所)を備えており、 ここだけのビールも飲めるレストランです。 ここのビーフシチューは絶品です。 |
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工場内の散策路です。 公園そのものです。 |
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「Misawa」の銘が入った「キリン石」です。 詳細確認しませんでしたが、多分、彫刻家 三沢厚彦の制作した「キリン」ではないかと 思います。 説明文など有ったのかどうか記憶に 有りません。2回も訪れたのに…・ |
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ビオトープです。この近辺中心のガイド付 案内もあります。 |
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横浜工場南側のウェルカムゲートです。 | |
南側から眺める横浜工場の全景です。 正面が見学後の出口になります。 |
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三渓園は国指定の名勝で、明治から大正にかけて製糸・生糸貿易で財を成した原富太郎(号は三渓)が、 東京湾に面した5万3千坪の谷あいの地に作り上げた日本庭園です。1906年(明治39)に一般公開された外苑と 原家の私邸である内苑の2つの庭園からなっています。日本のあちこちから集められた17棟の歴史的建造物と 庭園の四季折々の景観が見事にマッチした場所です。 |
三渓園は上述の如く、その面積は5万坪以上あり、広大な敷地に色々な 歴史的建造物を配し、原三渓の日本の古いものを残したいと言う思いが、 良く現れています。 中右寄りの「御門」から左手「海岸門」の上部地域が「内苑」となり、 主として原家の私邸となっていました。 海岸門より下部地域は「外苑」になっており、明治時代より一般に公開されている 地域です。一般公開の際の外苑への入場は自由として、市民が楽しめる場所に しようとの考えがわかります。 三渓は芸術家や文学者とも広く交流しており、その住居であった鶴翔閣では 芸術家がその作品を作る間滞在できる部屋を提供し、日本の文化向上にも 努めたようです。横山大観などもここに出入りしていたとの事です。 2015年5月に町内会の人達と三渓園を訪れ、ボランティアガイドの説明を受けて 園内をほぼ一巡しました。説明を聞く聞かないでは理解に大きな差が出ます。 チョットしたことが初めて聞く驚きとなりました。 |
正門入口です。 立派な柱が立っています。 右奥に見える建物は受付です。 正面奥に見える建物は鶴翔閣です。 |
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門を入ってすぐの所から眺める大池です。 右手の建物は鶴翔閣です。 |
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正面に三渓園のシンボルタワー旧燈明寺の 三重塔が見えます。 この三重塔は室町時代の1457年(康生3)に 建てられ、京都・木津川の燈明寺(廃寺)に有った もので、1914年(大正3)に三渓園に移築されて います。 関東では最古の木造建造物となっています。 国の重要文化財に指定されています。 |
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右手前蓮池と奥に鶴翔閣です。 この日は内部には入れませんでした。 有料の貸会場として一般開放されています。 |
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睡蓮池です。一部花を付け始めていましたが、 満開時には池一杯に花で埋まるそうです。 池の向こうに見える建物は三渓記念館です。 記念館にはギャラリーなどが設けられています。 季節ごとの展示会などが開かれています。 |
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大池の西寄りにある涵花亭と観心橋です。 | |
内苑への入り口にある「御門」です。 1708年(宝永5)頃の建造です。 元は京都東山の西方寺にあった薬医門です。 薬医門と言うのは梁の中心が前よりに寄せられ 門の重厚性を高めている門なのだそうです。 画面にポインターを置くと屋根裏部分が ご覧いただけます。中心が手前にずらされて いるのが判ります。 |
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御門を入った奥にあるのが臨春閣の 裏門になります。 この門の右手には1920年(大正9)に 建てられた「白雲邸」があり、 三渓が隠居所として夫人とともに暮らした 数寄屋風の建物です。 画面にポインターを置くと白雲邸の入り口が ご覧いただけます。ここも、内部は見ることが 出来ませんでした。 時々は一般開放されるそうです。 |
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「臨春閣」です。1649年(慶安2)に 紀州初代藩主徳川頼宣が和歌山の紀ノ川沿いに 建てた別荘でした。 京都の桂離宮とともに別荘建築の双璧と 言われています。 1917年(大正6)に三渓がこれを譲り受け、 ここに移築したものです。 紀州では各棟が一列に並んでいたそうで、 三渓はこれを出入りのある形状に変えて 建てています。 右端の建物が上の写真の玄関になります。 国の重要文化財に指定されています。 |
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上の写真の一番左手の建物の内部です。 襖絵は狩野派の絵師により描かれたもので、 本物は三渓記念館に保管されています。 |
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「旧天瑞寺寿塔覆堂」です。 1591年(天正19)に豊臣秀吉が 京都大徳寺に母の長寿祈願のために 建てさせた寿塔(生前墓)を覆うための 建物です。 1917年(大正6)に当地へ移築されています。 国の重要文化財に指定されています。 画面にポインターを置くと 後ろからの建物もご覧いただけます。 |
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「月華殿」です。 1603年(慶長8)に京都伏見城の来城した大名 の控室として徳川家康により建てられたものです。 その後、京都三室戸寺金蔵院に移され、 1918年(大正5)に三渓によりこの地に 移築されています。 国の重要文化財に指定されています。 画面にポインターを置くと 正面からの様子をご覧いただけます。 |
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「天授院」です。 1651年(慶安4)に建てられた、鎌倉・建長寺近く の心平寺跡に有った禅宗の地蔵堂です。 1922年(大正5)に移築されています。 これも国の重要文化財に指定されています。 |
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「聴秋閣」です。 1623年(元和9)に徳川家光の命により 建てられた建物で、京都・二条城内に有った と言われ、その後春日局に賜り、江戸稲葉候 邸内に移されたという家光・春日局ゆかりの 楼閣建築です。 屋根の形が3つの笠を合わせたような造りに なっていることから、別名「三笠閣」とも 呼ばれています。 国の重要文化財に指定されています。 |
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「春草廬」です。 月華殿の附属建物として建てられていました。 織田信長の弟、織田有楽斉(1547~1621)が 建てた茶室と言われています。 画面の右手は後年増築されたもので、 元の建物は左手の低い屋根の部分です。 三畳台目の茶室になっています。 茶室部分のみが重要文化財に指定されています。 茶室内には9つの窓が有り、別名「九窓亭」と 呼ばれています。 画面にポインターを置くと 茶室部分をご覧いただけます。 庭にある大きい石は東大寺伽藍石と伝え られています。 |
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「蓮華院」です。 三渓が自らの構想に基づき建てた茶室です。 |
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「海岸門」です。 御門と同じく京都東山の西方寺に有った門を、 大正時代に移築したものです。 |
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外苑内にある高浜虚子の句碑です。 「鴨の嘴(はし)より たらたらと 春の泥」 1933年(昭和8)3月に三渓園で詠んだものです。 |
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インドのノーベル賞文学者タゴールや 芥川龍之介がその存在を書き残している 「初音茶屋」です。 過ってはここで何時でも麦茶が供されて いたそうです。 |
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初音茶屋の前にある「臥龍梅」です。 梅林の梅の枝が横に伸び広がり 臥龍のような形になっています。 ここの梅の木は下村観山筆の 「弱法師」のモデルになっています。 奥に見えるのは初音茶屋です。 |
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外苑にある「横笛庵」です。 横笛が滝口入道からの恋文で造った 自らの像がここにあったそうですが、 戦争で被害を受け、無くなったそうです。 |
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「旧東慶寺仏殿」です。 1509年(永正6)に再建された 鎌倉・東慶寺の仏殿です。 鎌倉・東慶寺は1285年に北条時宗の妻 覚山尼が創建したお寺で駆け込み寺、あるいは 縁切り寺として有名でした。 この仏殿は東慶寺にお返ししようと言う話も 有ったそうですが、重文指定を受けたため 移動できなくなり、その話も立ち消えたそうです。 |
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「旧矢篦原家(やのはらけ)住宅」(合掌造り)です。 江戸時代後期に白川村で建てられた家です。 式台玄関や書院造の座敷もあり、 矢篦原家の豪勢ぶりを髣髴とさせる作りです。 現存する合掌造りでは最大級の民家です。 国の重要文化財に指定されています。 此処だけが常時内部を見ることが出来ます。 画面にポインターを置くと 家の正面からの合掌部分がご覧いただけます。 |
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「旧燈明寺本堂」です。 室町時代の1457年(康生3)に建てられた 京都燈明寺本堂です。 三重塔とともに1987年(昭和62)に移築 されています。 国の重要文化財に指定されています。 |
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園内では池のみならず、川の流れが 緑濃い風景のアクセントになっています。 |
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天気に恵まれて新婚さんが 写真の撮影に来ていました。 幸せのおすそ分けを貰ってきました。 |
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入口近くにある八つ橋です。 菖蒲やあやめにはまだ少し早かった ようです。 |
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三渓園の代表的景観を眺めながら お別れしてきました。 紅葉の季節がベストシーズンとの事でした。 |
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