圓徳院
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圓徳院は臨済宗建仁寺派・高台寺の塔頭の一つで、高台寺は豊臣秀吉の正室寧々が「高台院」の号を勅賜されたのを機に、
建立を発願しました。寧々は1605年(慶長10)に秀吉と過ごした伏見桃山城の化粧御殿と前庭をその高台寺山内に移築して、
移り住みました。それが、圓徳院の起こりとなっています。ここに19年間住んでいました。終焉の地と言われる所以です。
寧々の死後、秀吉の兄木下家定の息子利房の手により、1624年(寛永元)に高台寺の三江和尚を開基として木下家の菩提寺として
開かれたのが圓徳院です。圓徳院は木下利房の院号から採られています。
院内の写真撮影は禁止されていますが、方丈の32枚の長谷川等伯が描く襖絵(複製品)は見事です。(実物は京都国立博物館蔵)
また、赤松燎画伯の描く室中襖絵の「白龍」もまた見事な襖絵です。何れもウェブサイトから拝借して掲載しています。
圓徳院の概念図です。
方丈から北書院の拝観が有料となります。

三面大黒天、歌仙堂は自由に入れます。

建物内は全て撮影禁止で、庭も下りられません。

方丈には長谷川等伯画伯の襖絵が、同じく
赤松燎画伯の白龍が描かれています。

方丈からは南庭が、北書院からは北庭が
夫々眺められます。

北書院から出ると三面大黒天があり、そのそばに
歌仙堂があります。



拝観入口から見る方丈と南庭です。
方丈から渡り廊下の方向に有る
展示室です。
渡り廊下の突き当りにある
「無尽蔵」です。展示品が並んでいます。
北書院への入口です。
方丈の東側の襖絵の一部です。
1589年(天正17)頃の作品で
長谷川等伯が無断で描いた絵として
有名です。重要文化財に指定されています。
襖絵は金箔の家紋を押した唐紙の上に
水墨で描かれており、さぞ画き難かっただろうと
想像されます。

現在方丈に有る襖絵は複製品で本物は
京都国立博物館に保管されています。
方丈の北側正面を飾る襖絵です。
赤松燎画伯が1995年(平成7)に方丈の改修の
折に制作した「白龍」です。
赤松は翌年に逝去したため、画き遺した分は
弟子たちが赤松の意志を継いで描いています。
それが松竹梅図襖(上:木下育応作)と
雪月花図襖(下:志村正作)になっています。

北庭の一部です。

伏見桃山城から移された岩が枯滝と枯池を
形成し、石橋で繋ぐという桃山時代の
典型的な枯山水となっているようです。
伏見城内では池泉回遊式庭園だったものを、
面積が小さくなったため、枯池泉座視式庭園に
変えられたようです。

国の名勝に指定されています。
出口側から見た左手北書院と北庭の眺めです。
北書院を出たところに有る
三面大黒天です。
三面大黒天は、大黒天、毘沙門天、弁財天の
三つの顔を持った仏様です。
この三面大黒天にも秀吉の合理性が表れて
いるところがあります。三面なので一回拝めば
三つの効き目があるのですから、実に合理的で
秀吉らしい信仰です。
大名になる前、秀吉はずーっと三面大黒天を
信仰していたそうです。
大黒天の傍に有る「歌仙堂」です。
祭られているのは北政所ねねのおい、
木下勝俊です。
勝俊はねねの兄、木下家定の長男です。
豊臣秀吉縁者の武将として二十六歳で
若狭小浜城主に。一方、名人の細川幽斎に
歌を学び、高い素養を持つ文化人として知られて
いました。

現在も歌人の参拝が絶えないそうです。
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