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正式には蓮華王院と言い、1164年(長寛2)に 鳥辺山麓(現在の阿弥陀ヶ峯)の後白河上皇・ 院政庁「法住寺殿」の一画に平清盛が 造進しました。約80年後に焼失しましたが、 すぐに復興に着手され、1266年(文永3)に 再建されました。 その後、室町、桃山、江戸そして昭和の時代に 4度の大修理が行われ、700余年にわたり 保存されてきました。 蓮華王院は天台宗妙法院の境外仏堂で 同院が所有・管理しています。 長いお堂は和様の入母屋・本瓦葺の 「総檜造り」で約120mあります。 正面の柱間が33有ることから「三十三間堂」と 通称されています。 堂内には1001体の観音像が祀られ、観音像のほか、 雷神像と風神像や二十八部衆像も安置されています。 何れも国宝です。 境内の南側には豊臣秀吉ゆかりの南大門と 太閤塀が桃山時代そのままに残されています。 |
東大門です。 通常は門は閉められています。 境内へは門の右手にある車輛出入口 から入ります。 |
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南大門です。 豊臣秀吉により建てられています。 蓮華王院の南から見ています。 南側は塩小路通に面しています。 左手方向へ直進すると京都駅に出ます。 画面にポインターを置くと 境内からの門の様子もご覧頂けます。 |
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本堂から西側へ出た所にある西門です。 表通りとは繋がっていません。 |
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上図の門の前を通り、左手に出た所に 通し矢射場(砂利部分)があります。 本堂の西側になります。 |
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西側の遊歩道沿いに立つ石碑です。 鞍馬山の閃緑岩で作られています。 碑文は後白河法皇の「梁塵秘抄」の 一節より引用されています。 「観音誓いの広ければ 普(あまね)き 門より出でたまひ 三十三身に現じてぞ 十九の品にぞ 法(のり)は説く」 |
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久勢稲荷大明神です。 三十三間堂の鎮守社になります。 |
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稲荷大明神から眺める三十三間堂です。 こちらは西側で、通し矢の射場になります。 全長は120mあります。 江戸時代には尾張・紀州両藩による、 通し矢の「天下一」争奪戦がここで行われ、 本堂の柱や軒には徳川家光が付加したと 言われる、矢から守る鉄板が貼られています。 |
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境内南端には豊臣秀吉が方広寺の 大仏殿を建立した際に築造したと 伝えられる太閤塀があります。 塀の高さは5.3m、長さは92mの築地塀 です。瓦には太閤桐が使われています。 画面にポインターを置くと 太閤塀の碑がご覧いただけます。 |
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南側から眺める本堂全景です。 |
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中央部分には石段が置かれています。 現在は利用できません。 この奥に中尊が祀られています。 堂内は撮影禁止ですが彫像の一部を 絵葉書等からの借用で下記ボタンから ご覧いただけます。 |
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境内にある鐘楼です。 朱塗りの鐘楼になっています。 |
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手水舎です。 ここの水はお堂創建の翌年1165年に 堂僧が夢のお告げにより発見したと言う、 霊泉で、いくら飲んでもお腹を痛めない 「極楽井」だそうです。 湧き出る泉の音が’すすり泣’に似ており、 「夜泣き泉(酉偏に泉)」と呼ばれる様になり、 何時からか、傍に地蔵尊が祀られ、 幼児の夜泣き封じに功徳があると されています。 |
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境内の南側の池泉です。 | |
北側の池泉です。 紫陽花が咲いていました。 |
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北門です。現在は使用されていません。 門の左手に「夜泣き地蔵」があります。 |
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「夜泣き地蔵」です。 本来は手水舎の傍に置かれる 地蔵尊でしょうが、信者からの奉納が 多く、こちらへ安置されるように なったのでしょう。 境内の東北隅に建てられています。 |
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境内の回廊です。 朱と緑の取り合わせが綺麗です。 突き当りは東大門になります。 |
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表から眺める回廊の外側の眺めです。 北から眺めていますので、中央に 東大門が見えています。 通の奥は南大門です。 |
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東大門の前に「法住寺」があります。 創建は平安時代中期の988年(永延2)で 1161年以降はこの辺り一帯は 後白河上皇の宮廷「法住寺殿」でした。 現在、寺の墓地には後白河天皇陵が あります。 現在の法住寺境内には不動明王が 祀られており、身代わり不動として有名です。 この不動明王像が義仲の放火の際に 上皇の身代わりになったと言う伝えに よるものだそうです。 |
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境内の不動明王堂です。 |
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法住寺の北側の細い道を東に向かうと 後白河天皇法住寺陵があります。 画面にポインターを置くと 御陵の案内板をご覧いただけます。 |
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