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臨済宗天龍寺派大本山は正式には 「霊亀山天龍資聖禅寺」と称します。 1339年(暦応2)に吉野で亡くなった 後醍醐天皇の菩提を弔うため、足利尊氏が 夢窓疎石を開山として創建した寺院です。 夢窓疎石は南北両朝の帝から七つの国師の 号を賜り、七朝帝師と称えられたとの事です。 この地は、檀林皇后(嵯峨天皇の后)が 開創した檀林寺の有った場所で、のちに、 後嵯峨上皇の仙洞御所・亀山殿が営まれ ました。後醍醐天皇は幼少期をここで過ごした そうです。 夢窓国師は堂塔建設資金の調達の為、 「天龍寺船」による中国・元との貿易を進言し、 1343年(康永2)に、ほぼ七堂伽藍が整い ました。ただ、創建以来8回の大火に見舞われ、 現在の堂宇の殆どは明治期の再建です。 庫裏までの参道は二本あり、南側の参道は 南側に北側の参道は北側に別院塔堂が夫々 四社ずつ並んでいます。 北側の西端は八幡宮です。 |
天龍寺は庭園だけの入場と建物内への入場の 2種類の拝観券があります。 建物内は庫裏から入って、大方丈から書院を抜け、 多宝堂まで廊下で続いています。 庭園は曹源池庭園を回遊し、北門の方まで 行くことが出来ます。 書院の北側に後嵯峨天皇嵯峨南陵と亀山陵が ありますが、今回は案内書にもなかったので、 行きそびれてしまいました。 |
天龍寺の車両用の入口です。 概観図にある如く、境内には 大きな駐車場が3ヶ所あります。 車輛の出入りはここから行われます。 |
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境内に入ってすぐにある「勅使門」です。 天皇からの使者(勅使)を迎えた時だけ 開かれた門で、桃山時代の様式を伝える この門は寛永年間(1624〜1644)の ものとされ、天龍寺で残っている建物の 中では最古のものです。 駐車場の中にあるので、 見逃す可能性もあります。 |
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放生池です。 東側には勅使門が見えます。 蓮の時期には綺麗でしょう。 左手石橋の向こう側にも池が 続いています。 |
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南側の参道には4つの別院塔堂が 並んでいます。 後ろには嵐山が見えています。 |
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南側の参道の突き当りにある 「法堂(はっとう)」です。 1900年(明治33)に再建された 寄棟造り単層の建物です。 元は選仏場(座禅をする僧堂)で、 現在は法堂(はっとう:僧侶が仏教を 講義する堂)として使われています。 掲額は現在も「選佛場」になっています。 法堂には天井に八方睨みの龍が 描かれており、元は明治時代に 鈴木松年により描かれた龍でしたが、 年を経て消滅し、1997年(平成9)に 加山又造により雲龍図が描かれて います。 堂内へは土日及び限定日の公開日 のみ入場可能です。堂内は撮影が 禁止されています。 画面にポインターを置くと、案内書に 掲載の雲龍図をご覧いただけます。 |
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庫裏へ向かう途中の右手に 八幡宮(霊庇廟)があります。 天龍寺の総鎮守社です。 夢窓国師が後醍醐天皇の霊廟を 寺内に作ったものとされています。 |
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庫裏です。1899年(明治32)の建立で、 七堂伽藍の一つです。 建物内の見学入口になっています。 |
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庫裏の入口です。 正面に達磨大師の絵があります。 元管長である平田精耕老師の筆に よるものです。 玄関を左へ向かうと方丈に出ます。 |
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大方丈の建物です。東側の様子です。 こちらが正面になります。 1899年(明治32)に建てられています。 本尊は釈迦如来坐像で平安後期の作と されています。 |
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方丈の前にある、禅堂との境の 門と塀です。 その前は白砂の前庭になっています。 |
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西側から眺める大方丈と曹源池です。 こちらは方丈の裏側になります。 庭園は夢窓国師の作で、王朝文化の 優美さと武家文化の荒々しさを巧みに 融合した庭とされています。 下図は曹源池と曹源池庭園の 全体の眺めです。 方丈の中からの眺めです。 借景の嵐山がちょっと欠けました。 池の対岸中央にある枯山水は 竜門の滝を表わしており、 右手の石橋は日本最古の橋石組です。 |
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方丈の外、北よりから眺める曹源池です。 | |
方丈の外、南寄りから眺める 曹源池庭園です。 |
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方丈の内部の様子です。 画面にポインターを置くと 正面の祭壇がご覧いただけます。 |
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方丈の西側室内の様子です。 画面にポインターを置くと 右手手前に掛けられている、仏画を ご覧いただけます。 |
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正面の建物は書院(小方丈)です。 1924年(大正13)に建てられています。 |
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書院の室内の様子です。 床の間の達磨師の絵は庫裏玄関と 同じく、元管長である平田精耕老師の 筆によるものです。 |
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書院から多宝殿へ向かう途中にある 中庭の様子です。 中央を流れる清流を「大堰川」と 名付けています。 |
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後醍醐天皇聖廟多宝殿です。 鎌倉時代の寝殿造りを採用しています。 1339年(延元4)に後醍醐天皇が 吉野で崩御された後、光厳上皇は院宣を 下して、ご菩提の為に離宮を革めて 禅刹天龍寺とされました。 1934年(昭和9)に復建されました。 堂内には後醍醐天皇の木造が安置 されています。 |
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堂内左手では写経が行われていました。 | |
正面の祭壇で、中央に後醍醐天皇の 木像が祀られています。 |
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堂内右手方向です。 | |
境内西部の園庭には紫陽花が 満開でした。 「一滴の碑」と紫陽花です。 |
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境内北西端の「望京の丘」から眺める 京都市街の遠望です。もう少し高く登れば 良く見えるのかもしれません。 |
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境内にある大枝垂れ桜です。 開花時期には見事だろうと思わせる 樹形です。 |
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「硯石」です。 1889年(明治32)に第三代管長 峨山和尚が選佛場を法堂として再建 された際に、その天井に龍の絵を描く 事を、鈴木松年画伯に依頼されました。 この硯で修行僧60余名が摺った墨で、 画伯は大筆で一気に龍の絵を 描いたそうです。 峨山和尚、鈴木画伯の二老の遺徳を 偲ぶよすがとして、この硯石が今に 残されているのだそうです。 この硯石を拝すると書画が上達すると 伝え広まって、全国から訪れる人が 絶えないそうです。 |
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境内園庭にも嵯峨野のシンボル 竹林があります。 |
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「愛の泉」です。 地下80メートルから沸き上がる霊泉は、 飲む事も出来るそうです。 池にはカエルが三匹(池の奥)置かれ、 この蛙の前にはお皿があって、 そこめがけてお金を投げ、見事入ると、 幸せになれるとのことです。 奥に立つ観音様は中国から伝来の もので、夢窓国師が南北朝の和平に 尽くしたことから、この観音像が 平和観音と称されるようになったそうです。 |
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別院塔堂の一つ「慈済院」に入って みました。 本殿に安置の大弁財尊天は 天龍寺開基の夢窓国師が一刀彫し、 慈済院開山佛慈禅師に授与したと 言われています。 |
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本堂です。弁財尊天は見えませんでしたが、 天井に龍の絵が描かれているのが 見られました。 画面にポインターを置くと 龍の絵がご覧いただけます。 |
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