熊野速玉大社の境内図です。

今回は駐車場から入りましたので、熊野神社の前を通り、
ご神木にまず訪れ、神門から社殿に入り、拝殿,奥の社殿を拝し、
新宮神社、恵比寿神社に参拝後、社殿外に出て、大禮殿の前から
鳥居へと向かい、熊野神宝館の弁慶像を見て、手力男神社と
八咫烏神社にお参りして駐車場へと戻りました。

駐車場の横には「佐藤春夫記念館」が設けられています。
ガイドさんの話では、和歌山県ではファンが多いとのことです。

何処の訪問地も時間が短く、なかなかゆっくりと拝観する時間が
ありません。速玉大社も僅か20分の参拝時間です。
20分が長いか短いかは個々の興味によっても違うでしょうが、
団体ツアーの宿命でしょう。
熊野速玉大社
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「熊野権現御垂迹縁起」(1164年長寛勘文)はじめ諸書によると、熊野の神々は、神代の頃、まず初めに神倉山のゴトビキ岩に
降臨され、その後、景行天皇58年、現在の社地に真新しい宮を造営してお遷りになり、「新宮」と号したことが記されています。
初めは、二つの神殿に熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子大神を祀り、平安時代の初めには現在のように
12の神殿が完成しました。
日本書紀には、神武天皇が神倉に登拝されたことが記されています。悠久の古より人々から畏れ崇められてきた神倉山には、
初め社殿はなく、自然を畏怖し崇める自然信仰、原始信仰の中心であったと思われます 
熊野速玉大神は、熊野速玉大社では伊邪那岐神とされ熊野本宮大社では同じ神名で日本書紀に登場する速玉之男
(はやたまのを)とされます。また、この速玉之男神の名から神社名がつけられたといわれています。

  

高さ20m、幹回り6m、樹齢1000年の
日本最大の梛の木で、平重盛のお手植えと
伝えられています。

梛の葉は葉脈がなく、なかなか千切れない
ことから縁結びのお守りともいわれています。

境内の屋台でここだけに売っている餅を
買ったら、梛木の葉っぱもくれました。

画面にポインターを置くと
木の全体をご覧頂けます。

後白河法皇の御撰になる梁塵秘抄
に所載されている歌謡の一節が
石碑に彫られています。

熊野へ参るには 紀路と伊勢路の
どれ近し どれ遠し 広大慈悲の道なれば 
紀路も伊勢路も遠からず
」と記されています。
「神門」と右手に「手水舎」です。
 
社殿です。

左端は拝殿とその奥に結宮と速玉宮、
右は三神殿です。
同じく社殿の右側部分です。

右から「八社殿」と「上三殿」です。

いずれも屋根だけしか見えません。
拝殿の内部です。

平成25年、27年の天皇皇后両陛下からの
幣鐉料下の立札(右端)が立っています。
 
社殿境内の右端にある
「新宮神社」です。
その隣にある「熊野恵比寿神社」です。
神門を出たところにある大禮殿です。
熊野神宝館の前にある
弁慶の像です。

神宝館は左手階段の奥にあります。
時間の関係で内部には入れませんでした。
神宝館の横に「扇立祭舞台」が
あります。
豊作や無病息災を願って14日に開かれる
「扇立祭」の舞台になるようです。

舞台の奥には慰霊塔が立っています。
南の入口を入ってすぐの所に
「手力男神社」と「八咫烏神社」が
並んでいます。
ここが速玉大社の入口になります。

一の鳥居です。両部鳥居で神仏習合の
名残でしょう。
佐藤春夫は、1892年(明治25)、
現在の新宮市に生まれました。
代表作「殉情詩集」「秋刀魚の歌」はじめ、あらゆるジャンルにわたる著作を遺して
います。熊野速玉大社境内にある記念館は、1927年(昭和2)に西村伊作の弟、大石七分
の設計で建てられた佐藤春夫の邸宅を
移築したものです。

画面にポインターを置くと記念館を
ご覧頂けます。
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