千葉県松戸市
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松戸市は千葉県の北西部、江戸川に沿った県境に
位置する都市です。
東京都と埼玉県に接しています。
人口は約48万人で千葉県内では千葉市、船橋市に次ぐ、
第三の都市となっています。都内への通勤圏でもあり、市内
在住者の4割近くは都内での勤務となっています。

交通の便は下図でもわかるように、都内への足の便や
県内での移動には大変便利になっています。
JR常磐線は地下鉄千代田線が乗り入れており、
箱根まで一本で行ける便も出来ています。
市内を通る鉄道はJR常磐線(地下鉄千代田線乗り入れ)、
JR武蔵野線、北総線(京成本線、地下鉄浅草線乗り入れ)、
新京成線、流山線、東武野田線の6路線があり、都市規模から
見れば路線の多さは日本でも有数でしょう。

市内を国道6号線(旧水戸街道)が通っており、水戸徳川家の
水戸藩11代目藩主徳川昭武(徳川慶喜の弟)がこの松戸の戸定に
別邸を造り、現在この建物は国の重要文化財に指定されています。
また、この別邸の庭園は国の名勝となっています。

2016年5月に町内の高齢者の集まりで、バスで松戸を
訪れました。時間の関係で「戸定(とじょう)歴史公園
(徳川昭武別邸)」のみ見学しました。

東京の柴又と矢切を結ぶ「矢切の渡し」も松戸市になります。
伊藤左千夫の「野菊の墓」の政夫と民子の悲恋の場所でも
あります。渡しの近くには「野菊の墓文学碑」も立っています。
2017年1月に矢切神社共々訪れました。

他にも色々見るべきところもあるので、今後時間を見て訪れたいと
思っています。


矢 切
矢切は正式には「やきり」ですが、歌などで「やぎり」と読まれて以降、濁ることが多いようです。
北条氏と里見氏の合戦の戦場となった場所で、合戦で荒れた村の人達が二度と争いが無いように矢を切る
と言う事から「矢切」になったと言う事です。
松戸市の上、中、下矢切の三地区を
総称する地名である「矢切」の
中心にある「矢切神社」です。

最寄駅は北総線矢切駅になります。

神社の本殿です。

1704年(宝永元)に起こった
この地域の水害で住民が江戸川沿いの
高台に移り、そこへ京都の稲荷を
勧請し、創建された神社です。
当初は稲荷神社と呼ばれていたそうです。

正月で巫女さんが参拝人にお祓いを
してくれました。
矢切神社の門前にある
矢喰村庚申塚です。

北条と里見の争いはこの地帯が
主戦場となり、合戦による戦没者は
1万人を超え、村人は塗炭の苦しみを
受けました。こうした事が二度と無いよう
江戸中期にこの地に庚申塚仏や地蔵尊
が祀られたのだそうです。

この合戦が二度と起こらぬようにとの
村人の願いから「矢切り」「矢切れ」
「矢喰い」などの名前が生まれ、
この庚申塚などに矢喰いの名前が
彫り込まれたのだそうです。


画面にポインターを置くと
矢喰村庚申塚の由来の石碑を
ご覧いただけます。
矢切神社の西寄りの丘に
「野菊の墓文学碑」が
建てられています。

野菊の墓は伊藤左千夫の作品で
明治時代の矢切近辺を舞台にした
悲恋物語です。

碑は西蓮寺の境内に置かれています。
碑には「野菊の墓」の一節が
刻まれています。

碑文は左千夫の門下生の土屋文明の
筆です。
西蓮寺の建物です。
本堂はこの東寄りにあります。

壁には国府台合戦の歴史が
記載されています。
江戸川堤防からの眺望です。
右手の方に「矢切の渡し」があります。
渡しの手前の堤防にある
「矢切の一里塚」です。

左手白い石碑が一里塚です。
「川の一里塚」と刻まれています。
一里塚の碑の傍に立つ
少年の碑です。
謂れは判りません。

江戸川傍に有る松戸側の
「矢切の渡し」です。

ここが乗船待合場所に
なっています。

松戸側の乗船場から眺める
柴又側の渡し乗り場と渡し船です。

正月でも行列が出来ています。

お正月で船首には可愛い鏡飾が
置かれていました。
柴又側の渡し乗り場です。
片道乗船料は200円です。
船頭さんに支払います。
だから、往復乗船券などはありません。

殆どの人が往復乗船していました。
松戸側の渡し乗り場と渡し船です。
船頭により、乗船客数は変わりますが、
概ね、25名前後を載せています。

船は手漕ぎではなく、エンジンが
付いています。上流へ向かって
大きく乗り出し、流れに沿ってだんだん
船着き場へ近づきます。

荒天の場合は運航休止、土日祝のみの
運航となっています。


戸定邸
明治時代の徳川家の住まいがほぼ完全に残る唯一の建物で、1884年4月に完成し、座敷開きが行われました。
増築を経て、現在は9棟が廊下で結ばれ、部屋数は23に及びます。旧大名家の生活空間を伝えるものとして
歴史的価値が、高く評価されています。国指定の重要文化財です。戸定(とじょう)とはこの地域の中世以来の昔の地名です。
JR松戸駅の南寄りに有る
「戸定みその坂」です。
この坂の突き当りに「戸定邸」が
あります。
みその坂の手前にある
記念碑です。

昭武がフランスのパリ万国博に参加し
国際交流の先駆けとなったことを記念し、
松戸市が昭武の造った別邸の入口に
パリ万博の建築意匠をデザインした
モニュメントを建てたものだそうです。

みその坂を登りきると
茅葺門の前に出ます。
「戸定邸」の入口です。
入口から玄関に向かう通路です。

手前右に別邸の玄関があります。
生垣の右奥が庭園になっています。

左手の建物はお茶室の「松雲亭」です。
松雲亭は1978年(昭和53)に松戸市民
の芸術文化活動のために建てられ、
市民の利用が可能です。

通路の奥には梅園があり、無料で
入場できます。
戸定邸の表玄関です。

見学者の入口でもあります。
玄関を入って右手に受付があります。
邸内と歴史館の入場は有料ですが、
戸定歴史公園内は無料になっています。
徳川昭武別邸の邸内見取り図です。

台所とその二階の女中部屋は公開されていません。

見学は玄関から表座敷、中座敷、奥座敷、湯殿、離座敷を順にみて
再度、玄関に戻ります。

庭園は表座敷の客間、書斎からガラス戸越しに眺めるだけで、
庭園内には立ち入れません。ただし、毎月10,20,30日のみ園内に
出ることができるそうです。
従い、建物の全景はこの日しか撮ることができません。

戸定邸は昭武の子・武定が1951年(昭和26)に松戸市に寄贈しました。
寄贈された当初は松戸市の公民館として利用されていたようです。
1991年(平成3)に戸定が丘歴史公園として整備され一般公開されました。
2006年(平成18)に国の重要文化財に指定され、庭園も2015年(平成27)に
国の名勝に指定されています。
中庭です。

正面二階建ての建物が台所などの
ある建物です。この部分と内蔵が
二階建てになっています。
表座敷棟の手前・中の間、奥・書斎です。

書斎は昭武が居間として使っていた
そうですが、寝室にもなるように部屋の
四隅に蚊帳用の鐶が付いています。
手前の中の間も寝室に利用したようです。

画面にポインターを置くと
書斎の様子をご覧いただけます。
表座敷の客間(手前)と二の間(奥)です。

客間は慶喜が訪れた時の居室に
使われていたそうです。

電気の傘に葵の模様がありますが、
古い時代のものではないそうです。


表座敷から見る庭園です。
表座敷の書斎から眺める
庭園です。
大気の状態が良い時には
富士山も遠望できるそうです。
中座敷の衣裳部屋です。
この部分は増築された部屋の様です。

昭武には6人の子供がいたそうで、
子供が増えた折に増築されたと推測
されています。
当初は子供部屋だったのが、衣裳部屋、
化粧部屋として利用されたのでしょう。
化粧部屋です。

現在ビデオが置かれて
来訪者への説明部屋になっています。

なお、事前に依頼すると建物の見学に
ボランティアガイドが付いてくれます。
奥座敷の「八重の間」です。

元々は昭武の居間として造られた
ようですが、昭武は書斎を居間として
利用していたので、後妻の八重に
この部屋を与えたとの事で、八重の間
と呼ばれています。

造りは離座敷の秋庭の間に良く似て
います。
渡り廊下から見る湯殿の建物です。
右手は台所の勝手口のようです。
湯殿の内部です。
タイル張りの浴槽になっています。
離座敷の様子です。

左奥が客間(秋庭の間)です。

手前が次の間です。

右奥は公民館時代に茶室に改造
された部屋で、押し入れに流しや
水屋が作られています。

このお屋敷にはお茶室はなかった
ようです。

画面にポインターを置くと
秋庭の間をご覧いただけます。
離座敷の欄間に有る雀の透かし彫りです。

各部屋の欄間には夫々異なった彫り物が
ありました。
内蔵です。

土蔵造りの二階建です。

扉が石造りのように見えますが、
ガイドさんが確か石ではなく、
貼り合わせの扉と言ってたと思いますが、
確かではありません。
外側の土台は石積み、壁は石張りの
ように見えました。

画面にポインターを置くと
内部の長持ち(葵紋入り)が
ご覧いただけます。

玄関横からの庭園の眺めです。

毎月10,20,30日には中に
入れてもらえます。
今回は残念ながら中には入れません
でした。
敷地内に有る「戸定歴史館」です。

徳川家由来の品々や徳川慶喜の
遺品、また、昭武訪仏の折の記念品
などが展示されています。

展示品は撮影禁止になっています。
歴史館入口に展示されていた
昭武が1867年12月にロンドン訪問した折、
「The Illustrated London News」に
掲載された肖像入りの記事です。

「現在我国の賓客である徳川民部大輔は
昨年政権を継承した大君、即ち将軍の弟で
17世紀初めの現王朝の創立者たる徳川家康の
血縁にして子孫にあたる。云々」と紹介され、
「プリンス・トクガワ」と称されています。
戸定歴史公園の一部である梅林です。

5月は若葉で緑あふれる景観です。
梅林から戸定邸玄関へ向かう通路で
左手は戸定邸庭園、右手は茶室・松雲亭
になります。
歴史館の傍に、天皇皇后行幸啓記念碑が
立っていました。
現天皇は皇太子時代以来の、皇后は二回目の
訪問であると記されています。
入口の茅葺門の内側から見ています。

来た時とは違う思いで門をくぐります。
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