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館山市布良にある小谷家は、江戸期より昭和期まで続いた漁家です。青木繁が滞在した時の当主は小谷喜録で、 富崎村村会議員などの要職を歴任し、先駆的な村政を牽引した人物です。 近代日本美術史上、著名な洋画家「青木繁」(1882〜1911)は1904年(明治37)夏に友人の坂本繁二郎、森田恒友、 恋人の福田たねと共に房州布良の小谷家に40日間滞在し、「海の幸」を描きました。 小谷家は2005年(平成17)からノーベル生理学賞を受賞した大村智と画家たちの保存運動により、浄財を集め、 2ヶ年の修復工事を経て、2016年(平成28)春に一般公開されました。過去に来た時にはまだ公開されておらず、立ち寄らなかったのでしょう。 |
小谷家は1889年(明治22)の 大火により焼失しています。 従い、現在の建物はそれ以降の再建と 考えられています。 漁業で栄えた布良の上層漁家の建物と して館山市の指定文化財に成っています。 木造平屋建て、延べ床面積92.7uです。 火災の後の建築で、防火面を考慮し、 近代間取りになっている点に特徴が あるようです。 通常は土日の開館で、平日は休み ですが、たまたまご主人がおられたので、 内部を見せてもらうとともに詳細な説明を して頂けました。 内村鑑三が水産伝習所の教師の頃、 布良に来て当時の村長との会話の中で 宗教家を目指すことになった経緯の 書簡なども当家に残されています。 |
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玄関を入った部屋です。 仏壇と神棚、布良神社の掛け軸が 掛かっています。 左手のショーケースの所は元の 奥にある物置への出入り口です。 |
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玄関を入って右に有る座敷です。 ここに青木繁などが滞在していました。 左手の絵は青木繁の「海の幸」です。 ここで描きました。この絵は複製で、 原画はブリヂストン美術館にあります。 海の幸の絵の中の人物の顔を 恋人の福田たね、友人の坂本、森田 及び当家の主小谷喜録の肖像に しています。 この絵の裏話を色々と教えて頂きました。 「海の幸」の右側にまだ白布の掛かった 絵がありますが、青木繁絶筆の「朝日」 (原画は佐賀県立小城高校蔵)です。 除幕式前でしたが、特別に見せて 頂きました。 右手桟の上に肖像写真がありますが、 当時、一緒に滞在した人たちです。 画面にポインターを置くと 夫々の肖像をご覧いただけます。 右から、青木繁、福田たね、坂本繁二郎、 森田恒友です。 |
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座敷の隣の部屋です。 ここがアトリエ代わりに使用していた 部屋だそうです。 |
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アトリエに使っていた部屋に飾られている 作品群です。 左画面; 上は福田たねの自画像、その下は 左が福田たねの描いた「館山の茶屋」、 右は福田蘭堂の写真、その下は 石橋エイタローの写真。 福田たねの息子が福田蘭堂、その息子が 石橋エイタローで青木繁の孫になります。 右画面: 青木繁が布良の海に潜ったことから 着想が生まれ、3年がかりで完成 させた「わだつみのいろこの宮」です。 なお、小谷家に置かれている絵画は 全て複製品です。 |
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元の物置を展示室に改造した部屋に 飾られている絵画です。 青木繁の左「海景(布良の海)」と 右「海」(何れもブリヂストン美術館蔵) です。 もともとは別々の海の風景と考えられて いたようですが、この部屋で並べると まさに1枚の風景であったことが 判ります。 岩が繋がっているのが判ります。 |
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物置(奥右手)から居間方向へ出てきた 所です。 各種の展示品や当主の調べられた 各種の資料類が展示されています。 布良漁港のマグロの漁獲高推移まで あります。これによると夏場にはマグロが ほとんど上がらず、海の幸の魚が サメになった理由がここにあります。 もし、季節が異なれば、魚はマグロに なっていたのでしょう。 |
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玄関を入った部屋の西方向です。 左手は受付になります。 正面は食堂だそうです。 本棚の後ろに通路があり、別棟の 台所(現在はない)へと通じています。 大火の経験から火元を母屋から 離す様にしたのだそうです。 |
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白布に包まれていた絵画です。 光の加減で見難いですが、 絶筆となった「朝日」の複製画です。 2018年7月13日除幕式が行われました。 我々が訪れたのは7月11日でした。 |
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ノーベル賞受賞者の大村智の植樹した 樹です。 「美は人を養う 平成二十八年六月吉日 大村 智」と石版に彫られています。 画面にポインターを置くと 石版をご覧いただけます。 |
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