玉石垣(陣屋跡)
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1528年(享禄元)に、北条早雲の家来、中村又次郎が代官として来島し、此処に陣屋を設けました。
江戸時代になると、幕府は此処を島役所とし、1900年(明治33)には、東京府八丈島庁となり、島の政治の中心地でした。
しかし、1908年(明治41)には、島庁が他地区へ移転したため、今では、八丈島の政治文化の発祥の地も玉石垣を
残すのみとなりました。
また、2018年1月にこの地にあった八丈島の典型的建物を残す「ふるさと村」が火災で焼失しました。
玉石垣の独特の積み方を今に伝える技術者は現在も数名残っておられるそうです。
大賀郷の大里には数多くの玉石垣が
続いています。
海岸からバケツリレー方式でここまで
玉石を運んだそうです。

右手の石垣は内側に反っていますが、
このつみ方は先にも述べたように
築城積みと言い、位の高い屋敷の垣に
使われます。右手が陣屋跡です。

左手の垂直の石垣は土手積と言い、
一般の住宅に使われます。

此れだけ並ぶと壮観です。
このお宅の石垣の先端には
この様な木が生えています。

この木は龍血樹と言う木です。
幹を切ると赤い樹液が流れるそうです。
玉石垣の続く道路です。
垣の高低や石垣に育つ植物の違いなど
見て歩いても飽きません。
バショウやヤシの種類も色々あります。

ここでは水仙も咲いていました。

石垣は陣屋跡の玉石垣です。

石垣の向こうに見えるポストは
丸型のポストです。

一度、四角いポストに変ったそうですが、
住民の要望で再び丸ポストに戻した
そうです。
やっぱり、この方がポストらしい?…
玉石積みはこのように少し細長い
玉石が積まれています。
正面から見ると真ん丸に見えます。
積み段はまちまちですが、10〜12段が
多いようです。
石積みは一つの石に周囲6個づつ
取り巻くように積まれています。
夫々の石の周りには六個の石が
有るのが判ります。
同じような大きさの石をよくぞ揃えた
ものです。

大通りに面したこの石垣は
何に使われていたのかは判りませんが、
島型に積み上げられていて、珍しいです。

大通りに面している石垣は道路の拡張で
殆どが積み直されているそうですので、
これも新しく積みなおされた石垣と
思われます。

石垣の上にはヤシの木が植えられて
います。
焼失した「ふるさと村」の跡です。

正面から右奥にかけて建物が
全焼していました。
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