父島・戦跡ツアー
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第二次世界大戦中小笠原はアメリカ軍との戦争の舞台となり、父島・母島は激しい攻撃を受けたそうです。
また、硫黄島では大激戦の上、多くの人が犠牲となっています。
島には当時の日本軍が築いた数多くの防空壕や大砲など、戦争の跡が残っています。
今回、乗船日の午前中のフリータイムを利用して、現地の竹ネイチャーアカデミーの戦跡ツアーに参加してきました。

戦跡ツアーで廻ったのは、咸臨丸墓地(通常は戦跡には入らないようですが、今回
お願いして加えてもらった)、海軍墓地、洲崎空港跡、洲崎の不発弾、コペペ砲台跡、
通称コーヒー山にある高角砲跡(正式には十年式12糎砲)の6ヶ所でした。

夜明山の戦蹟とか三日月山戦跡、大村第二砲台跡などなど、小笠原父島戦跡は
幾つもあるそうですが、出航前の2〜3時間で廻るには上記ルートが精一杯の
様でした。

ガイドさんの丁寧な説明で当時の様子が良く理解できました。
咸臨丸墓地です。

1861年(文久元)、江戸幕府は
外国奉行水野忠徳一行を幕府の軍艦
咸臨丸で派遣し、小笠原島を調査させ、
その咸臨丸で亡くなった乗組員を
葬った墓地 です。
「漂流者冥福碑」も建てられました。
この碑は、小笠原島が古くから日本の
領土である証拠の一つとなるように
との意味もあって建てられたもので、
小笠原村の文化財に指定されています。

左手前が墓碑です。

右の石碑は「漂流者冥福碑」です。
翌年の1862年(文久2)、八丈島の
移民を乗せた幕府軍艦朝陽丸で
「漂流者冥福碑」を運搬し、ここに建立
されました。

1993年(平成5年)、土砂に埋もれて
いたこの碑を掘り起こし、他の墓石等と
ともに周辺より一段高くして、土砂に
埋もれないよう整備してあります。

画面にポインターを置くと
漂流者冥福碑の拡大画像を
ご覧いただけます。
海軍墓地です。

太平洋戦争時、父島では米軍の
空爆で、約4400人が犠牲になったと
言われています。
うち一般人は40人との事です。。
「大東亜戦争海軍戦没者之碑 」です。

周辺には海軍兵士の埋葬墓碑が
建てられています。

戦没者の碑は殆ど傾きなしに
立っていますが、外の墓石は
傾いており、現在、底部に石を挟み、
建直しを図っているそうです。

画面にポインターを置くと
兵士の墓の様子をご覧頂けます。
海軍墓地から都道240号線で
扇浦海岸に出て、未舗装道路へ入り、
洲崎海岸まで出ます。

下図は海岸から眺める
湾の様子です。
岬は象鼻崎です。中央奥は
小港岬になります。
洲崎飛行場跡ですが、現在は、全く
その痕跡を見ることができません。
500メートルほどのごく短い滑走路を
持つ飛行場があった様です。その後、
何年か前まで、その切り開かれた平地を
利用して、内地からの出張での自動車
教習コースがあったそうです。
近年はそれも行われず、草叢の中に
半ば埋没していたとの事です。

現在ここを候補地として、小笠原空港の
開港運動が進められているようです。
現在の都知事も推進を約しています。
海岸口に有る「飯盛山」です。

山が削られ、空港の敷き砂利に
使われたそうです。崖の色と同じ
砂利が現在も見受けられます。

この浜辺は敵にとっても上陸用の
湾として利用価値が高いため、
この地に空港が造られたようです。
同じ海岸線の南寄りの浜に
「不発弾」が遺されています。

陸地に埋まっていたものを
ここへ運んだそうですが、まだ
信管が付いており(右端部)、
処理必要として、手を触れない様に
ネットで囲われています。
ガイドさんが不発弾処理の手伝いに
出た折に、処理後の部品を持ち帰る
ことが出来たそうです。
メインの部分は村役場の人が役場へ
持ち帰ったそうですが、一部を入手
出来たとの事です。

左は爆弾のカバー材で重量のある
金属です。
右は信管の部品で真鍮製です。

空港跡からコペペ砲台跡のある
コペペ海岸へと向かいます。

砲台跡までの道は昔は舗装され、
軍用車も走った道だそうですが、
現在はこのような山道になっています。

途中で固有種のオカヤドカリが
いました。
画面にポインターを置くと
ヤドカリをご覧いただけます。
砲台跡へ向かう道の途中で
左手後方に「コペペ海岸」が見えます。
旧砲台の洞窟の一つです。

ここは危険で入ることはできません。
こちらは洞窟の入口がしっかりと
鉄筋コンクリートで防御されています。
ただ、コンクリートに海砂を使用
したためなのか、もろく崩れています。

画面にポインターを置くと
内部から見た洞穴の様子を
ご覧いただけます。
最初に入った砲台跡には
砲の台座の残骸のみで砲筒は
残されていません。
錆切った大砲の台座が
残されています。
一番奥の砲台に行きます。

ここも入口は鉄筋コンクリートで
蔽われています。
海軍は輸送力があったため、
この様なものを作れたそうですが、
陸軍は洞窟のままで砲台として
使用していたそうです。

画面にポインターを置くと
内部から見た洞内の様子を
ご覧頂けます。
ここには砲筒が遺されています。
台座や部品が錆びて散在しています。

画面にポインターを置くと
海に突き出た砲口をご覧頂けます。
大砲の部品などが室内に散在しています。
砲台から眺める外洋です。
ここから侵入する米艦を狙った
ようです。

正面の山は「野羊山」でその手前は
「象鼻崎」です。黄色っぽく削れた
山は飯盛山です。
空港跡になります。

画面にポインターを置くと
左手方向の眺めをご覧頂けます。

コペペ海岸から吹き割り山の麓
小曲へ向かいます。

砲台跡へ向かう途中のペンションの
庭にはタコの木の実が成っています。
小曲珈琲山に残る高角砲です。

ほとんど原型をとどめた高角砲が、
小高い山の上に放置されています。
戦後すぐ米軍統治に入った父島では、
日本軍の残したこうした大砲の類が
処分されることなく、そのまま放置される
形で残っているのだそうです。

また、日本への復帰後も、戦跡の
保護事業はもちろん、特に急激な
土地開発が島中で進むということが
無かったため、そのまま国有地、
民有地に関わらず、保存するでもなく、
廃棄するでもなく、風雨の中で
放置されたままということのようです。

小屋掛けなどしても台風で飛ばされ
危険なため、今のところは朽ちるに
任せた状態のようです。
高角砲の部分です。

左は台座部分です。
中は砲身の砲口部です。
右は台座のギア部分です。
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