さくら市(喜連川)
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栃木県さくら市は平成17年(2005)3月28日に氏家町と喜連川町が
合併して出来た新しい市です。
市名の由来は両町共に桜の美しい場所があり、両町民に長年
親しまれてきた花であり、桜の花のように美しい街になってほしいという
町民の願いを込めた名前だそうです。
人口は平成26年6月で約4万5千人で、男女比は平成20年以降若干
男性が多くなってきています。

千葉県の佐倉市とは同音ですので、さくら市の議員さんが佐倉市長を訪れ、
友好都市の話もしたと、当の議員さんからお聞きしました。その際、栃木県に
佐倉藩の飛び地があったという話も聞けました。
佐倉の人もあまり知らないことだそうです。

市役所は氏家にあり、喜連川には支所が有ります。支所は旧足利氏館跡で
入口には再建された大手門が建っています。

支所の東寄りにおまる山公園への登り口が有りますが、東日本大震災時、
被害をこうむり、いまだに復興されず、通行禁止となっています。
震災の影響がこんな所にも出ています。

喜連川は江戸時代の奥州街道の宿場でもあり、参勤交代の大名たちが
喜連川本陣で泊まったようです。本陣跡も残っていますが、跡地に建てられた
警察署(大正15年建)が現在は街の駅として利用されていました。

喜連川 きつれがわ
江戸時代は「喜連川公方」 5000石の城下町であった喜連川町は、足利尊氏の次男で室町将軍代理家だった
鎌倉公方の足利基氏を祖とする足利氏後裔の居所でした。市内には足利氏歴代墓所も残っています。
江戸時代の喜連川宿は奥州街道十宿の内白沢宿、氏家宿に次ぐ第三の宿で城下町と合わせ大変賑わった
町であったとの事です。
喜連川には温泉があり、温泉宿も幾つかあります。ここは日本三大美肌湯として有名です。
奥州街道(古道)です。元は
氏家宿から喜連川宿を繋いで
いました。

1604(慶長9)年に奥州街道が
東山街道に代わり正街道と
なっています。
街道は奥州の諸大名の参勤交代や
奥州と江戸の間の文物交流の
重要な役割を果たしてきました。

奥州街道は日本橋から宇都宮までは
日光街道と同じ道で、宇都宮宿から
白河までとなります。

この古道は山崩れが有ったりして、
難所の一つだったので、1880(明治
13)年に迂回路が作られ、そのため
この古道は昔の状態のままで残されて
います。

画面にポインターを置くと
さくら市の説明板と古道入口が
ご覧いただけます。
喜連川にある足利公菩提寺の
龍光寺です。

元は東光寺と号し足利尊氏の
創建と伝えられています。

足利頼氏が秀吉に焼かれたこの寺を
再興し、父頼純の法号である龍光を
寺の名前にしました。

従い、このお寺は喜連川足利氏の
菩提寺となり、喜連川足利氏歴代の
墓所となっています。
龍光寺本堂です。
堂内に十一面観音菩薩像が
安置されており、開帳は春秋の
二度のようです。
境内にある喜連川藩主足利家
歴代墓所です。

画面にポインターを置くと
内部の石碑などがご覧頂けます。
喜連川の街中にある
「御用堀」です。
喜連川足利氏第10代煕氏の命で
1844(弘化1)年防火と農業用水確保を
目的に整備されました。
水源は栃木県北部の山系に発します。

御用掘りには現在錦鯉が泳いでいます。

画面にポインターを置くと
城下町の趣を残す家の前を
流れる御用掘をご覧頂けます。
喜連川神社です。
喜連川神社の本殿です。
1563(永禄6)年に領主源惟朝が
戦国時代の心のよりどころにしようと
尾張国津島の午頭天王の分霊を
勧請した社で、その後の塩谷氏、
喜連川氏に代々崇敬された神社だ
そうです。
「寒竹囲い」です。
これは喜連川公方6代目城主
茂氏公が藩士の家を囲うのに
板塀などでは製作保繕が大変なので、
笹の密植を利用してこれを生垣に
することを奨励したそうです。
この生垣を「鼈甲垣」とも言います。

お住みになっている方のお話を
伺えましたが、この辺りの道路が
少し低くなっており、下水道の
なかったころは雨が降るとすぐに冠水
したそうで、その際に、この生垣は
笹の密植で水を通しにくく、住居への
浸水を防いでいたのだそうです。

画面にポインターを置くと
数軒の寒竹囲いをご覧頂けます。
町中のお宅です。
大谷石を使った塀、門柱、蔵が
見られます。
城下町の藩士の家の名残でしょう。
この様な家が並んでいます。
鄙には稀なと言うと叱られそうですが、
そんな感じを持たせる街並みです。
この日の宿は「かんぽの宿喜連川」
にしました。
大きな浴場があり、「美肌の湯」を
満喫できます。

喜連川温泉は日本三大美肌の湯
と称されています。
外は島根県の斐乃上温泉、佐賀県
嬉野温泉なのだそうです。


宿から「おまるやま公園」の
タワーが望めます。
登りたかったのですが、
東日本大震災の影響で公園は
立ち入り禁止となっており、
まだ当分は難しいようです。


画面にポインターを置くと公園入口
の様子をご覧頂けます。
宿の所有のグランドゴルフ場です。
最初は「え、なにこれ」と言った感じ
でしたが、実際にプレーすると
なかなか自然の趣も良く、それなりに
楽しめました。すべて無料と言うのも
嬉しいことです。
喜連川宿は本陣、脇本陣、旅籠、茶屋
が軒を連ねていたそうで、此処は
元の本陣跡地です。

その後明治時代には本陣跡に
警察署、郵便局、銀行が開設され
この建物は元警察署です。
大正15年に建てられたもので、
大正年間に建てられた警察署で
現存するものはごく僅かしかなく、
貴重な建物だそうです。

現在は「街の駅」として利用され、
レストランやコミュニティルームなどが
設けられています。
街の駅本陣の前に自噴井戸が
あります。
自噴井戸は岩盤と水圧で自噴する
井戸のことで、喜連川には数か所
あります。
そのうちの一つがこの井戸です。

絶え間なく水を噴き上げています。
この水は水質検査を受け飲料水に
使用可能と判定されています。
喜連川城は源義経に従って壇ノ浦や
屋島の戦いで活躍した塩谷五郎惟広
が源頼朝からこの地を与えられ、
蔵ヶ崎城を築いたのが始まりで、その後
塩谷氏は17代続きました。

安土桃山時代になって、古河公方の
子孫足利国朝が秀吉によってこの地に
配され、江戸時代には5千石の藩と
なっています。足利家の名跡により、
格式は10万石として遇され、その後
実石は1万石となっています。

足利国朝の弟、2代目頼氏が
この場所に館を建てました。
館は明治9年に焼失し、平成3年に
当時の大手門が再現されています。

現在さくら市役所喜連川支所の
入り口として使われています。
この建物は大正2年に喜連川興業銀行
の本店として建てられたものです。

現在は「和い話い広場」として
街の情報館になっています。
内部ではプチ・カフェや特産品販売の
コーナーなどが設けられています。

元銀行の金庫がギャラリーとして
利用されています。
喜連川から少し離れた
鷲宿にある松岩寺です。

慶長3年に開基の曹洞宗の
お寺ですが、その前は応永年間に
この地に塩谷朝宗が築城した
鷲宿城がありました。一部土塁など
城跡はあるようですが、目立った
物は残っていません。

松岩寺の本堂には喜連川出身で
仏像画家荒井寛方の弟子笹沼寛祐の
描いた天女の壁画が有ります。
鮮やかな色合いで描かれています。

訪れた時には本堂は閉まっており、
お寺の奥様にお願いして拝見しました。
松岩寺の本堂です。
正面両壁面に仏画、欄間の上の
壁面左右と後ろに5人の天女が
描かれています。
左は左壁面の天女です。
右は右壁面の天女です。

約60年ほど前に笹沼寛祐の希望で
この寺の壁面に描いたのだそうです。

天井画は笹沼寛祐ではなく、やはり
地元の画家の作品だそうです。
左は本堂後方の壁の絵です。

右は本堂右手にある部屋でここの
壁画も笹沼寛祐の作品です。
「道の駅きつれがわ」です。

正面の円筒形の建物内には
温泉とクアハウスがあり、
入浴が可能です。

元町長の親戚の寄付で出来た
道の駅だそうです。
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