与論城跡
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15世紀頃に築かれた琉球王朝時代の城跡で、完成前に王朝が滅びたため、石垣のみが残っています。
与論島で最も高い標高94メートルの高台には、「与論十五夜踊り」の舞台となる地主神社・琴平神社もあり、
島の祖国復帰運動の拠点も城址に残されています。
与論城跡への入口です。

珊瑚礁の石垣が続いています。
見ただけでは何の変哲もない石垣です。

この部分は龍の尻尾の部分にあたるそうです。
石垣から眺める与論島の南方向の
眺めです。一見、田圃に見えるのは
サトウキビ畑で、茶色っぽい部分は刈入が
終っています。
本土復帰記念塔です。
与論島では本土復帰のための集会が
行われ、特に、沖縄の本土復帰のための
海の集会が与論島に近い27度線で
行われていました。
この折に、目印として燃やされた焚火跡が
記念として、そのまま残されています。

朽ち果てるまでそのままで残すのだ
そうです。
城の頂上付近に墓所が有りました。

「奥津城 上間家」の表記が有ります。
奥津城とは神道の墓を表わしている
ようです。

与論島にはお寺はなく、全て神道で
葬儀は行われるようですが、それも、
民間風習に基くものだそうです。

この墓は城に関わりのある人の墓のようです。
小高い丘の上にこのような石垣が
続いています。
サンゴ礁の石をここまで人力で持ち上げ、
人力で積んで行ったようです。
石垣の先端にある「龍頭」です。

海に向かって龍が威嚇する形に
作られているそうです。

この部分は建設された当時のままに
遺されているそうです。

画面にポインターを置くと石碑を
ご覧いただけます。
城址の中に1993年(平成5)造られた
「サザンクロスセンター」です。

奄美群島内の歴史、芸能・物産等の
総合紹介施設として作られ、概観は
伏龍をイメージしており、南十字星が
観測できる国内最北端の地がここ
与論島であることから
「サザンクロスセンター」と名づけられた
そうです。

時間の関係で内部には入れませんでした。

高台にあるので、島内のあちこちから
見られます。
城址頂上部にある抜け道です。

ここから丘の麓まで抜けられる道が
付いています。
城の抜け道として利用するために
作られたもののようです。

最初は急な坂だが、進むとなだらかな
道になっているそうです。
頂上近辺には神社が二つ並んでいます。

左手は「地主(とこぬし)神社」

右手は「琴平神社」です。

鳥居の掲額は「地主神社」となって
いますので、両方合わせて「地主神社」と
言うのかもしれません。
「地主(とこぬし)神社」の社殿です。

小さいお社だけです。
琴平神社の社殿です。
大国主之命、市杵島姫之命、菅原道真公を
合祀、三柱の神が祀られています。
現在の社殿はコンクリート製になっています。

画面にポインターを置くと社殿の内部を
ご覧いただけます。
時期的に、お雛さんの飾りつけが有りました。
神社、城址、サザンクロスセンターへの
入り口部分です。
左手がサザンクロスセンター入り口です。

緋寒桜が咲いていました。
奄美諸島では桜は全て緋寒桜です。
緋寒桜が満開でした。

奄美諸島の人達は上を向いて咲く
桜を見たことがないそうです。
緋寒桜は全て下を向いて咲いています。
さらに、花びらが散り頻ると言う事もなく、
花の絨毯や、花筏などは見られないそうです。
左手に見えるのは「琴平神社」ですが、

この広場は「地主神社」の広場で
年3回ここで豊年祭が行われます。
龍神に雨乞いをし、五穀豊穣、嶋中安穏、
人畜の繁栄を祈願します。

この祭りで奉納される与論十五夜踊りには、
大和風(1番組)琉球風(2番組)の踊りで
構成されています。

与論十五夜踊りは国指定重要無形民俗
文化財で与論島世之主が1561年から
始めたと言われています。
奥の建物は踊りの練習をする場所で
左手瓦葺の2棟は琉球風踊りを
練習する人たちが利用し、
右手黒瓦葺の棟は大和風踊りの
練習場だそうです。
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