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公開されている武家屋敷庭園は 7か所あります。 左図の森氏庭園から徒歩で西郷氏庭園 まで順に見てほぼ1時間強かかります。 より詳しく見れば更に時間が必要です。 この間の道路の両側は全て石垣と生垣で 作られています。 知覧の小京都と呼ばれる所以です。 7か所の住宅は全て現在も人が 住んでいます。従い、住宅内部は 見ることができません。 知覧型二ツ家を途中で見ることが できます。 森氏住宅に近い二ツ家は高城家ですが、 ここはスキップしたので、写真が 有りません。 |
武家屋敷群の最も東寄りにある 森重堅氏庭園です。 門構えも他の門と少し変わって いますが、袖屋根に脇の塀にも 屋根があるのはここだけです。 |
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武家屋敷群の庭園で唯一の 築山泉水式の庭園です。 母屋が1741年(寛保1)に建てられ、 その後に庭が作られたようです。 奇岩を随所に配し、近景の山や半島を 表わしています。 これらの石は幾つかに分割して 運ばれ、作庭の際に元の形に 戻しているそうです。 ここの水は裏山から引かれており、 今までに枯れたことがないとの事です。 |
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屋敷の縁の下は、このように塞がれ 間者が忍び込むのを防いでいます。 |
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蔵の屋根は可動式で、外せるように なっています。 |
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武家屋敷群をつなぐ道路は 結構幅が広く、それぞれの家ごとに 垣根と石垣が積まれています。 石垣も夫々の家ごとに少しづつ異なった 形になっています。 これはその家の格によって使える 石があるようです。 |
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武家屋敷以外の家の門は この様な石の門になっています。 ほぼどの家でも門を入ると 石の屏風で内部が見えないように 作られています。 沖縄のピンプン(屏風)と同じような 造りです。琉球の影響を受けて いると言われています。 |
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武家屋敷の佐多直忠氏邸です。 本家筋に当たり、門構えも 石垣も他よりスケールが大きいです。 生垣の植え込みが波を打ったように 刈られていますが、これは庭園の 背景として利用する為です。 画面にポインターを置くと 門構えをご覧いただけます。 |
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佐多直治邸庭園です。 作庭は1741年〜1743年(寛保年間)で 森家とほぼ同じ時期です。 母ヶ岳を借景として、奥に築山を設け、 枯滝を石組みで作っています。 大刈込式蓮菜組枯山水と言うそうです。 生垣が背景として山並みを表わしています。 スケールの大きい枯山水になっています。 |
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左端の岩は男性器を表わしているのだ そうです。 知覧の庭園には陰陽を表わす造りが どこかにあるところが多いそうです。 |
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このお宅の入り口にはなぜか 河童の置物が有りました。 この家の奥さんの趣味だそうです。 |
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通りの突き当りには「石敢當」が 置かれているのも沖縄式です。 魔物は直進しかできないので、 この石で魔よけにするそうです。 |
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佐多民子邸です。 門構えと石組みはどちらかと言えば 分家の格下になっています。 |
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邸内には盆栽が数多く置かれています。 住宅は大正大火の後に建てられています。 元は茅葺屋根でしたが、瓦屋根に 変えられています。 住宅内部は立ち入れません。 現在もここで生活されています。 |
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武家屋敷群では豪華で立派な 庭になっています。 左手の手水鉢は原石をそのまま 運び出してきたもので、牛5頭、人足 20名で運び出したのだそうです。 立派過ぎて手水鉢の用には立たず、 観賞用で、実際の手水鉢は家の横に 別に設えてありました。 分家としての意地で本家より更に 立派な庭にしたいとの意識が出ている のだそうです。 表の造りは格による仕来りが有りますが、 庭はその家の自由で作れたのだ そうです。 |
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庭全体の眺めです。 巨岩奇岩を積み重ねた 深山幽谷の景を映し出しています。 やはり大刈込式蓮菜石組枯山水です。 作庭は1741〜63年(寛保〜宝暦年間) です。 |
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佐多美舟邸です。 門構えは袖屋根が有り、これは 本家を表わす造りです。 上の佐多民子邸はこの美舟邸の 分家になります。 |
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ここの蔵は屋根が固定されていました。 他の家ではほとんど蔵の屋根は 可動式のつり屋根になっています。 下は佐多美舟邸の庭園です。 武家屋敷群の中では最も広く、 豪華に作られています。 作庭は1751年(寛永4)です。 庭の奥は巨岩を配し、枯滝から流れる 水を表わし、その水が手前の大きな 湖に流れ込む様子を表わしています。 |
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ここの庭からは居室が見られます。 春はここで雛飾りが見られるそうです。 |
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武家屋敷群の中ほどに 知覧型二ツ家が残されています。 茅葺のままで、左オモテと右ナカエが 繋がり、知覧独特の作りとなっています。 オモテは居間、ナカエは炊事場などです。 元はこの二つの棟は別々の建物で 作られていたのを、知覧では二棟を 一つに纏めています。これを知覧型と 呼んでいます。 この家は元々ここに有ったものではなく、 別の場所から移設されたようです。 現在は休憩所として利用されています。 |
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オモテの様子です。 画面にポインターを置くと ナカエの部分がご覧いただけます。 ここは売店になっており、知覧提灯が 売られていました。 傘のように折畳む提灯です。 |
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武家屋敷群の西寄りにある 「稽古所跡」とその角に立つ 「石敢當」です。 稽古所とは郷士の子息が江戸時代後半、 教育を受けた場所です。 稚児(ちご)は数え7歳から、二才(にせ)は 15歳から25歳までの若者が学問や武術、 礼儀作法を学びました。 石敢當は既出の如く、道路の魔よけです。 この石は琉球からもたらされた物の ようです。 |
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平山亮一邸です。 建物は真四角になっているようで、 この辺りでは珍しい造りだそうです。 |
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表の庭には武家屋敷らしく 鎗を洗う石の洗い場があり、 この反対側には刀用の短めの 石の洗い場もあります。 |
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すべて刈込の庭になり、 石は盆栽を載せる為の石しか 有りません。 背景は垣根のイヌマキが山の峰の ように刈り込まれています。 前面にサツキが植えこまれ、綺麗に 刈り込まれています。これは築山を 表わしています。 作庭は1781年(天明1)です。 サツキの咲くころは一面が ピンクに染まるそうです。 |
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門の横には手洗いが有ります。 知覧の武家屋敷ではほとんどの家が 玄関横に手洗い所を持っている との事です。 ただ、そのほとんどが文化財に指定 されていて、利用できなくなっている そうです。 この手洗い所は、NHKの家族に 乾杯の撮影の折、鶴瓶が隠れた 事で有名になったそうです。 |
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平山克己邸です。 ここも両袖に屋根が有り、 本家筋だと判ります。 |
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母ヶ岳を借景にした庭園になって います。 イヌマキの刈込は母ヶ岳の稜線を 繋ぐように刈り込まれています。 |
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西郷恵一郎邸の庭園です。 作庭は1804年(文化1)です。 ここの庭園は鶴亀の庭園と 呼ばれています。詳細は下記を ご覧ください。 庭園はイヌマキを背景に大きく 刈り込んで連山を表わし、 奥には枯滝の石組みを高い峰に 見立てています。 中央部に将に飛ばんとする鶴、 下に、大亀をイメージしています。 |
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左は亀の頭を表わす岩とその後ろへ 身体を表現する植え込み。 右は尖った頭を上げて将に飛ばんとする 鶴を表わしているそうです。 |
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