仙厳園(磯庭園) 尚古集成館
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仙厳園は鹿児島市街の北より吉野地区にある島津家19代光久によって
1658年(万治1)に築かれた別邸です。別名「磯公園」とも称されます。
錦江湾や桜島を庭園の景観にとりいれた、雄大な景色が仙巌園の
最大の魅力です。幕末の名君、28代島津斉彬がこよなく愛し、
徳川将軍家に嫁いだ篤姫も足を運びました。
庭園は自然を取り込んだ広い敷地が有り、全体を見るにはハイキングレベルの
歩きが必要になります。

幕末、薩摩藩主島津斉彬は、西欧諸国のアジア進出に対応し、
軍事のみならず産業の育成を進め、富国強兵を真っ先に実践しました。
それら事業の中心となったのが、磯に建てられた工場群「集成館」です。
その地に1865年(慶応1)に竣工した機械工場は、国の重要文化財と
なっており、内部は現在島津家の歴史・文化と集成館事業を語り継ぐ
博物館「尚古集成館」になっています。
仙巌園の概念図です。
結構広い敷地になっています。
国指定の名勝で文化財にも指定されて
います。

御殿はガイド付で案内してもらえますが
御殿内は写真撮影が禁止されています。

但し、邸内から外部風景の撮影は可能
です。

駐車場は尚古集成館の傍に有ります。
有料になります。

出入口の受付で入場券とガイド希望を
伝えると、時間の指定をしてくれます。

尚古集成館は仙巌園の入場券で
そのまま入れます。
今回は仙厳園到着が夕刻遅めになった
ため、集成館は時間切れで5分ほどしか
見ることができませんでした。
また、別館には入れませんでした。

仙巌園の受付を入ると
島津義弘公所用の鎧(写)が
飾ってあります。
更に進むと鉄製150ポンド砲が
置かれています。

鹿児島沿岸に配備されていた最大級の
要塞砲を復元したものです。
その後ろには反射炉跡があります。
大砲を鋳造するために鉄を溶かした
西洋式の施設跡です。

反射炉の模型が飾ってあります。
当時の設備を模しています。
受付から正門、御殿方向へ向かう
途中にあるお土産屋さんの通りです。

石垣と植栽が立派です。

画面にポインターを置くと
反対側からの眺めをご覧いただけます。
こちらからの眺めとはまた違った
スケールの眺めです。
正門の近くにある
島津家水天淵発電所記念碑です。

水天渕発電所は1907年(明治40)に、
島津家が経営していた山ヶ野金山
(横川町・薩摩町)に電力を供給するため、
姶良郡隼人町に建てられた発電所です。

ヨーロッパ風石造りの建物は1983年
(昭和58)まで利用されていましたが、
記念碑として一部がここに移されました。

「正門」です。

1871年(明治4)に廃藩置県が行われ、
翌年、薩摩藩最後の藩主29代島津忠義
夫人達は、鶴丸城から磯に居住を移しました。

1888年(明治21)には、忠義本人も
鹿児島に移り、その後、1895年(明治28)
に鹿児島の大工、大重伊三治に命じて
建てさせたのがこの正門です。

写真では見難いですが、屋根瓦の先には
丸十紋と五七の桐が彫り込まれています。
御殿への入り口にある「錫門」です。

薩摩では良質な錫が採掘され、その
象徴ともいえる錫板葺の門になって
います。
元は正門として造営され、27代斉興の
庭地拡張時に中門となりました。

かっては、当主と嫡男のみが通れた
門だそうです。
御殿の縁側から眺める庭園と
錦江湾です。
上の写真の右端に少し写っている
燈籠です。
燈籠の上に載っているのは獅子です。
「獅子乗大石灯籠」と称しています。
1884年(明治17)に作られたものです。
仙巌園で最大の燈籠です。

立派な石灯籠です。
御殿の東側から眺める大池のある
庭園と桜島です。

天気が悪くて桜島が薄れていますが、
晴れていれば、桜島を借景に大きな
風景になるのでしょう。

2010年に屋久島の帰りに仙巌園の
前を通り抜けた際に眺めた桜島の
姿を画面にポインターを置くとご覧
頂けます。その折は快晴でした。
御殿の中庭です。
池の中に八角形の池が有ります。
風水の関係かと思われますが、
詳細は不明だそうです。

御殿の各部屋は昔通りに残されて
います。
忠義、忠重がそれぞれ使った部屋が
見学できます。

詰所から忠義の部屋を見ています。
御殿の表側です。
縁側から桜島が正面に見えます。

右の松は「やくたねごよう(屋久種子五葉)」
と呼ばれる松の木で、屋久島と種子島
でのみ自生する種類の松だそうです。
庭園から眺める桜島です。
天気の関係でうすぼんやりとしか
眺められませんが、晴天の時は
くっきりと見えます。

正面奥にある灯籠は鶴が羽を
広げたような形から鶴灯籠と呼ばれて
います。
画面にポインターを置くと拡大した
燈籠をご覧いただけます。
大池の傍から見る御殿です。

南国の庭園らしく、芭蕉が立派です。
琉球国王から贈られたと云う
「望獄楼」です。

床に敷かれた塼(せん)とよばれる
273枚の敷き瓦が、中国秦時代
(紀元前3世紀)の阿房宮のものを
写したといわれ、内部に掲げられた扁額は、
中国東晋時代(4世紀)の書家・王羲之の
書を模したものと伝えられています。
高枡です。

高枡は園内の湧水を石造りの水管で
ここに集め池などへの排水を司って
います。
水の分岐と水量を調節する水道施設
です。
園の東寄りにある「曲水の庭」です。
21代吉貴の時代に作られたようです。
1959年(昭和34)に発掘されました。

曲水の庭は曲水の宴を催すために
造られた庭です。曲水の宴とは上巳
(じょうし)の節句の日、上流から流された
酒杯が自分のもとにたどりつくまでに
和歌・漢詩を詠みあげるというもので
古代中国に源流を持ち、本来は心身の
汚れを祓いおとすという行事だったそうです。
御庭神社です。

もともとは鶴丸城内や仙巌園の内外に
あった13の神社を、1918年(大正7)に
社殿を新築して合祀したものです。
沢山の神様が合祀されているので
霊験あらたかかもしれません。
江南竹林と呼ばれる竹林です。

江南竹とはすなわち孟宗竹のことで、
日本在来種ではありません。
第21代吉貴が、1736年(元文1)に
琉球を通じて2株をとりよせてここに
植えたのが日本の孟宗竹のはじまりです。

日本の孟宗竹の原点です。
保津川と名付けられた流れです。

花倉川とも呼ばれますが、京都を
偲ぶ命名なのでしょうか。
保津川に架かる水道橋です。
石垣の上は江南竹林です。

NHKの大河ドラマ「篤姫」のロケに
利用された橋だそうです。
橋の傍には篤姫茶屋と言うロケに
使われた茶店(下)も残されています。



「筆塚」です。

筆塚の傍には「追ン太郎」と
名付けられた米打ち機があります。
しし脅しと同じように水がたまると
杵が落ちるシステムです。(下図)
今まさに杵が落ちんとしている景です。





「濾過池」です。
国登録の有形文化財です。

1907年(明治40)に、皇太子(大正天皇)
が磯御殿を訪問されるにあたり、皇太子に
きれいな水をお出しするため作られたもの
と言われています。

内部は石でできた2つの貯水槽からなり、
第1の水槽に石や砂利・砂をいれて水を
ろ過し、それを第2の水槽にためておいて、
下にある御殿に給水したようです。
御殿の前庭からの眺めです。

錫門と御庭への通用門が有ります。
左手が御殿の玄関になります。

ここからも桜島が見られます。
「猫神」です。

文禄・慶長の役の際、第17代島津義弘は
猫7匹を朝鮮に連れて行き、猫の眼の
瞳孔の開き具合で時間を計っていたと
伝えられています。そのうち生還した2匹が
後に、猫神として園内に祀られることに
なったとの事です。
尚古集成館と仙巌園の受付との
間に有る「鶴嶺(つるがね)神社」です。

島津家歴代の当主と家族を祀る神社で
16代儀久の娘、亀寿が祀られており、
美と優しを求める女性に人気がある
そうです。
尚古集成館と明治天皇行幸の碑です。

建物は1865年(慶応1)に竣工し、
現存する日本最古の機械工場です。
1923年(大正12)からは島津家の
歴史と近代化事業を紹介する
博物館として一般公開されています。

国の重要文化財です。
尚古集成館の正面です。

植え込みの向こうに正面玄関が
有ります。

館内には写真や図面・発掘などをもとに
再現された反射炉・琉球船の模型など、
及び、工場操業時の雰囲気を醸し出す
機械展示コーナーがあります。
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