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万松院(ばんしょういん)は対馬藩主宗家の菩提寺で、1615年初代藩主・宗義智(よしとも):宗家19代を弔うために 宗家20代目の義成が建立したものです。その後、何度かの火災で焼失し、現在の本堂は1879年(明治12)に建造された 物です。当初は松音寺と称し、臨済宗の寺院でしたが、1622年に義智の法号から万松院と改称、1635年に天台宗の寺院に 改宗されています。 本堂には朝鮮国王から贈られたとされる、三具足や徳川歴代将軍の位牌が置かれています。 本堂横の石段(百雁木と呼ばれています)を上がると、樹齢1200年の大杉や歴代藩主の墓所(御霊屋)があります。 日本三大墓所の一つと言われ、国指定の史跡になっています。 |
金石城櫓門の横を奥に進むと 万松院へ出ます。 |
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ここは金石城の搦手門跡です。 櫓門から城址を抜けて来ることも 出来ます。 |
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境内に入ると正面に 仁王門があります。 この安土桃山式の門と仁王像は 火災から免れた1615年創建時代の 対馬で最古の建物です。 |
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この石橋は御霊屋(おたまや)への 入口です。 普段は開けられていません。 奥に見えるのは百雁木(ひゃくがんぎ) と呼ばれる石段です。 132段あります。 |
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本堂への中門です。 表門は開かれないので、横から 入ります。 やはり石版積みの塀になっています。 |
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横門の傍に有る「諫鼓(かんこ)」です。 鼓の後ろが空洞になっています。 領主に対し諫言しようとする人が この鼓を打ち鳴らします。 「諫鼓苔生す」「諫鼓鳥」という言葉は 何れも諫鼓の必要がないという 意味から領主の善政を意味する 言葉だそうです。 |
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本堂です。 1879年(明治12)の建造です。 |
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本堂内部です。 ご本尊が半分切れていますが、 如意輪観音像です。 掲額は「萬枩精舎」で後水尾天皇 第三皇女の書です(後出)。 |
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本堂玄関からの山門の様子です。 | |
本堂に飾られている 朝鮮国王から贈られたという 「三具足」です。 三具足とは仏具の呼び名で 香炉(中央)、燭台(右)、花入れ(左) のことです。 日本遺産に認定されています。 |
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「萬松(枩)精舎」の掲額は 後水尾天皇の第三皇女鏡宮の書を 皇室から贈られたものです。 松が枩になっているのは長期繁栄を 意味するのだそうです。 後水尾天皇は1611〜1629年の 在位であり、その頃の宗家との 繋がりを示すものでしょう。 |
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徳川家の位牌です。 |
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百雁木を登ります。 正面奥の杉は樹齢800年と 言われています。 |
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百雁木の途中に「中御霊屋」が あります。 ここは藩主の側室や子供、兄弟が 祀られています。 藩主になる前の宗家10代目貞国も この上段に祀られています。 |
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百雁木を登りきると石垣と 白壁塀があります。 正面白壁の奥が上御霊屋東部に なり、初代藩主以下幕末までの 歴代の藩主が祀られています。 |
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御霊屋入口には樹齢1200年の 大杉があります。 この左手には樹齢1000年の大杉も 有ります。 |
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上御霊屋西部でここには 幕末以降の宗家代々の墓が 並んでいます。 現在35代まであるそうです。 36代目は現在東京に居られる ようですが、ここに墓を造るかどうかは 判らないそうです。 場所だけはあるようです。 |
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上御霊屋東部の墓地で 正面は第21代義真(よしざね)の 墓(右)で、その左は義真の正室 京極夫人の墓です。 対馬藩三代目藩主の義真の時代は 貿易が栄え、城下町を整備し、 中興の祖とも称されるだけに、その墓も 非常に立派で、御霊屋の中では 最も大きい墓になっています。 |
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右は初代藩主・宗家19代目義智の墓、 宝篋印塔スタイルです。 中は5代藩主・宗家23代目義方の墓で、 彼は対馬全島の猪を退治し、甘藷を移植 しています。 左は2代藩主・宗家20代目の義成の墓で 五輪塔スタイルです。 |
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