長崎県
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対馬・壱岐・五島の風景
2016年9月に3島を訪れました。
3泊4日での旅では回りきれない島々です。
対馬や壱岐は長崎県ではなく、福岡県だと思っている人が多いそうです。
位置的にそう思われるようです。

対馬は廃藩置県の際に伊万里県に属し、伊万里県はその後佐賀県になっています。
つまり元々は佐賀県の配下にあったようですが、1876年(明治9)に長崎県の管轄に
移されています。
対馬は福岡空港と、長崎空港からの航空便があります。他にはジェットフォイルが
博多港から航行しています。

壱岐は明治の廃藩置県で平戸県に所属することになり、その後長崎県の管轄と
なったようです。古くから半島や大陸と九州を結ぶ海上交通の中継点と
なっていました。

五島列島は140余りの島から形成されている群島です。この島には石器時代
からすでに人が住んでいたようです。
他の2島同様、隠れキリシタンの多い場所であったようで、現在も数多くの
教会と信者が存在しています。
また、遣唐使が最後の寄港地として利用した歴史もあり、対馬・壱岐を含め
この3島の歴史と遺跡は想像以上の豊かさで、短時間では見聞するには
難しい地域でした。
対馬 壱岐 五島列島(福江島)
対馬
対馬は古くから大陸との交流があり、朝鮮半島と倭・大和をむすぶ交通の要衝地でした。そのため、元寇を含め、
度々半島、大陸の勢力に侵された歴史を持っています。また、古代には古墳時代を形成し、大和勢力との関係を示しています。
この地は万葉集にも詠まれる防人が島を守っていました。
対馬は朝鮮半島から見ると馬が二頭並んでいるように見えたことから、対の馬、対馬と
呼ばれていたのを、そのまま流用したと云う説もあるそうです。「日本書紀」では対馬島の
3文字で「つしま」と呼んでいたようです。別に、対州とも呼ばれていたようです。

対馬は朝鮮半島の釜山まで49.5kmしかありません。日本本土(九州)からは132kmあります。
従い、朝鮮半島、中国大陸と日本を結ぶ交通の拠点としても重要な位置にありました。
対馬を支配した宗氏は元々惟宗氏の姓を朝鮮との交流を考えて、宗氏にしたのだそうです。
宗氏は対馬の支配者「阿比留氏」を滅ぼし、その後35代にわたり対馬を支配しています。

その間には元寇の襲来などもあり多数の戦死者を出し、また、秀吉による朝鮮征伐軍の派遣などで、
関係悪化した朝鮮との関係修復に、国書の改竄をしてまで努めたのだそうです。
その甲斐あって、1607年には朝鮮通信使が初めて来日し、その後200年に12回の来日があり、
宗氏がその段取り全てを担うこととなりました。

対馬はその面積の90%近くが山林で、周囲は高さ100mにも及ぶ断崖絶壁で殆ど平地がなく、
朝鮮半島との船での往来で、人・物・文化の交流が行われてきたようです。
人口は多い時で6万人くらいいたそうですが、現在は3.2万人になっています。

一方で、中国、朝鮮からの侵攻を防ぐために、防人が置かれ、朝鮮式の山城である金田城も
築かれています。現在も城山山頂を取り囲むように2.9kmの石塁が残されています。

今回2016年9月に福岡空港から対馬空港へ飛び、翌日厳原港からジェットフォイルで
壱岐へ向かいました。
たった1日では立ち寄った程度で、歴史の長い島全体を見聞するにはあまりにも時間不足でした。
北から南まで見るには少なくとも2・3泊は必要でしょう。
羽田から福岡に飛び、福岡で対馬行きの
フライトに乗継です。

乗継便が機材の関係で少し遅れています。
当初予定の15時40分が15分遅れです。

夏場なら大したことのない時間ですが、
秋となると、日没の速さが気になります。

対馬へ到着後にすぐ観光があり、時間的に
15分は大きいです。
離島便のフライトで、てっきり機材は
ターボプロップ程度と思っていたら、
737-500型機で、この辺りから
ちょっと対馬を侮っていたかなとの印象。
搭乗機から壱岐の島が見えました。
翌日、ジェットフォイールで行く予定の島
です。
中央左手が印通寺港です。
唐津行きのフェリー発着港です。

左下よりの滑走路は壱岐空港です。

比較的平地の多い島です。
対馬やまねこ空港です。

対馬~福岡は1日4便、対馬~長崎は
1日4~5便あります。
長崎便はターボプロップ機のようです。
1日に10便以下の空港にしてはまずまずの
感じです。
空港の表にはこのような「ヒオウギ貝」の
モニュメントが立っていました。
ヒオウギ貝は対馬の特産でホタテより
甘味とコクがあるそうです。

また、国境の島「対馬」として、九州最北端に
位置しています。島の広さは708㎢です。

対馬空港の表玄関です。
空港から早速に島内巡りに出かけました。

ここは「万関橋」と名付けられている橋で、
下の流れは人工的に山を崩して、島の東西に
通じる水道が作られています。

これは、昔はこの区間を船を担いで峠越を
していたそうで、大船越と言われる場所で、
旧日本海軍が1901年(明治34)に
この水道を掘ったもの。
万関橋は上下対馬をつなぐ橋です。

対馬は元々一つの島でしたが、この水道で
二つに分けられたものです。

画面にポインターを置くと
橋の様子をご覧いただけます。
万関橋から和多都美神社へ向かう
途中にあった豊玉町の「浅芽シーサイド
パーク」です。

奥の白い屋根の建物は豊玉総合運動公園
体育館です。
立派な施設が作られています。
シーサイドパークの近くにある鳥居です。
和多都美神社の大鳥居だと思われます。
和多都美神社です。
干潮期で海水はありませんが、
満潮時にはここまで海水が来るのだ
そうです。

入り江に建てられている鳥居です。

手前の鳥居も満潮時には海の中に
なります。
三角鳥居です。
鳥居の中心にあるのはうろこ状の
亀裂のある岩で、「磯良恵比須」と
名付けられ、和多都美神社の祭神
豊玉媛が出産の際蛇体となった
神話にちなんだ岩とされています。

神社の説明文では「この岩を磯良の
墓とした伝説もあるが、これは社殿が
営まれる以前の古い祭神における
霊座か、それともご神体石だったのでは
ないかと思われる」と記されています。

磯良とは海の神様とされています。

画面にポインターを置くと
岩の拡大した状態をご覧頂けます。
和多都美神社の鳥居と本殿です。
和多都美は「わだつみ(海神)」のことで、
祭神は「彦火火出見尊(ひこほほでみの
みこと)」と「豊玉姫命(とよたまひめのみこと)」
です。
この二人の出会いは釣り針で、海神伝説に
よくあるストーリーですが、この地に宮殿を
建てたのは豊玉姫の父、豊玉彦尊だそうで、
その地に上記2神を祀ったと言われています。

写真では砂利敷きになっていますが、
満潮時はこの辺りは海水でつかるそうです。
従い、神殿も高床式になっており、
満潮時には海に浮かぶ神殿となり、
厳島神社の原型と言われています。
本殿横にある松の木ですが、
根が龍のように土の上をうねって
います。これは、下が岩盤で根が
潜り込めない為で、対馬が岩盤の
上に出来た土地であることを
示しています。
本殿横にも三角鳥居があり、
この鳥居と磯良恵比須の鳥居が
同じ線上に造られています。

この鳥居の下の岩は亀の形を
しています。
本殿の奥に進むと、鳥居に続く道が
あります。
豊玉姫命の墓と言われる岩と
石碑です。

一般の観光客はここまで来るのは
少ないそうで、土地の人達が祭日には
必ずお参りに訪れ、お供えをしていく
のだそうです。
対馬での夕食は当地の名物である
海鮮石焼料理で、厳原町(いずはら)
にある「志まもと」と言う店でした。

元は対馬の美津島町根緒(ねお)の
漁師が浜辺で暖を取りながら食べた
豪快な漁師料理が原形と言われて
います。
熱せられた石が発する遠赤外線が
食材を内部からふっくらと焼き上げ、
季節の旬の魚介類や野菜などの素材の
味を100%楽しむことができるとのことです。
テーブルに焼けた大きな石英斑岩が
置かれ、この上で刺身でも食べられる
という魚貝類を焼き、2種類のたれで
食べます。
石は下からの熱で温度は下がりません。

下の写真は左から、サザエ、穴子、
ハマチ、ブリ、イカなどの魚貝類と
南瓜、サツマイモ、玉ねぎなどの
野菜類を盛り合わせたものです。
中はイカの白子です。
右は「ろくべえ」と呼ばれるサツマイモを発酵
させて粉にした澱粉から作った麺です。
この粉を固めて乾燥させると永久保存食と
なるので、戦時中も対馬では餓死者が
出なかったそうです。
旧暦の8月15日は厳原八幡宮神社の
大祭日となっています。
丁度、9月15日に訪れましたので、
夕食後お祭りを見てきました。
多くの屋台の出店や舞台でのショー
などが行われていました。

画面にポインターを置くと屋台への
人出の様子をご覧いただけます。
本殿へ向かう階段の前にある
鳥居です。
お祭りでライトアップされていました。
八幡宮神社拝殿です。

画面にポインターを置くと
拝殿の内部をご覧いただけます。
境内には左の写真のように階段状の
石組みの上に灯籠が沢山並んでいました。

また、参道には菊の紋を胴に付けた馬が
奉納されていました。詳細は判りません。
対馬での宿泊は「ホテル対馬」です。
厳原町の中心にあり、朝には散歩がてら
街中を見てきました。

古い城下町で、石塀の残る江戸小路なども
ありました。

厳原町の街の様子は下記ボタンから
お入り頂けます。

厳原町街区
厳原町にある朝鮮式山城「金石城」
への入口の櫓門です。

金石城は代々の宗家の居城で
1528年に築城されています。

この櫓門は1669年(寛文)に屋形を
拡張した際に建てられたもので、
1813年(文化10)に焼失し、
再建されたものの、1919年(大正8)に
解体されています。

現在の櫓門は1990年(平成2)に再建
されたものです。

右手の清水山に山城が築かれていました。
この山城は1591年(天正19)の秀吉の
朝鮮出征の折に築かれた城です。
国指定の史跡です。

画面にポインターを置くと山城の石組みの
一部をご覧いただけます。

厳原町と美津島町の境にある
壱岐対馬国定公園の上見坂園地です。
標高385mの展望台があり、浅芽湾の
入組んだ海岸を眺められます。
この溺れ谷は日本でも代表的な湾と
なっています。

天候に恵まれると韓国も遠望できる
そうです。

下図は展望台からの眺望です。
池や湖に見える水面は全て入組んだ
入江です。
対馬は想像以上に山深い島で、
殆ど平地が見当たりません。
島の89%が山林と言うのも
うなずけます。
展望台から遠望できる
白獄(しらたけ:519m)です。

古くから信仰の対象となっている
山で、周辺の原始林は国の
天然記念物となっています。
上見坂園地内にある明治後期に
作られた「砲座跡」です。

火砲四門が据え付けられていたそうですが、
太平洋戦争含め、訓練以外では
一度も発砲されなかったとの事です。
ここまで敵艦が攻めてこなかったためだ
そうです。

浅茅湾周辺の山には明治中ごろに
日本艦隊の前進基地として砲台が
幾つも造られたそうです。
日清戦争、日露戦争、太平洋戦争と
砲台が増え、総数では31か所も
有るとの事です。
何れも実戦では使われることなく、
抑止力としての効果だったようです。
同じく「兵舎跡」です。
明治後期に兵舎として建てられ、
砲4門の格納庫にもなったようです。
発砲要員、炊事雑役兵含め百人程度の
仮眠所として利用されたようです。


画面にポインターを置くと
兵舎の内部をご覧いただけます。
大きな空間となっています。
島内では狭い平地を利用して稲作も
行われています。

小茂田濱神社です。
対馬の西海岸沿いにあります。

1274年(文永11)元寇の襲来の折に
戦死した人たちの霊を祀る神社です。

祭神は宗助国で元寇3万の軍勢と
僅か80騎で戦いに挑み、勇敢に戦い
落命しました。
宗助国は首、胴、手足と切さいなまれ、
夫々が首塚、胴塚、手足塚として
祀られています。

元寇の上陸した場所はここから東に
700m位の場所で、埋め立てにより、
神社がこの地に移されています。


参道に掲げられている、元寇奮戦図です。

神社拝殿と右奥に本殿です。

画面にポインターを置くと
拝殿の内部をご覧いただけます。
左は元寇650年、元寇700年記念の
平和の碑です。

右は明治時代の砲弾です。
小茂田浜海浜公園です。

昔はここから更に東に入江が
入り込んでいたようです。

右手に小茂田浜神社があります。

元寇との合戦の場となった場所に
建つ金田(かんだ)小学校です。

昔はこの辺りが海岸線で、蒙古軍の
上陸地点となったようです。

金田はこの近くに銀山が有ったので
この様な地名になったそうです。
また、金田(かんだ、かむだ、こむだ)
がなまって小茂田(こもだ)になったのだ
そうです。
小茂田の少し南寄りに椎根(しいね)
という場所があり、ここには屋根が石で
出来た倉庫群が並んでいます。

橋の名前も「石屋根橋」になっています。
川は潮が満ちると流れになり、干潮の
時は枯川となります。

石屋根を積んだ倉庫です。
穀物や日常品を入れています。
一般家屋には鍵を掛けないのに、
この倉庫には鍵が掛けられています。

石屋根は強い西風に対応するもので
対馬でしか見られない建物です。

手前は石屋根のままですが、
奥の方は瓦屋根に建て直されています。
石屋根を新しくするには相当の費用が
掛かるため、改装した倉庫は全て
瓦屋根に変っています。

この様に倉庫だけが並ぶのは
母屋と一緒にすると、火災の際に
延焼の恐れがあるため、わざわざ
離れた所に建てています。
これらの倉庫は川沿いに建っていて、
海から満潮時に船で荷物を運びこんだ
名残のようです。
樫根(かしね)地区にある
銀山跡です。
日本最古の銀山と言われています。

現在まだ建物などが遺されています。

画面にポインターを置くと
建物の様子をご覧いただけます。
1908年(明治41)に創設された
対馬私立女学校が1923年(大正12)
「長崎県立対馬高等女学校」となり、
当時の門柱がそのまま残されています。

現在は対馬市立厳原中学校と
なっています。
厳原港の近くにある
「お船江跡」です。
橋の向こうは港につながっています。
こちらの奥で堀が終わります。
これらの石組は1663年(寛文3)に
築かれた対馬藩御用船の係留場です。

当時の原型をそのまま留めているのは
日本でも珍しく、近代史上貴重な遺構と
言われています。

また、ここは干潮時には干上がるため、
満潮時に船を入れ、干潮時に修理する
ドッグとしても利用されていたとの事です。

宗氏の菩提寺である「万松院
(ばんしょういん)」です。

右手の石段を上がると歴代の宗氏の
墓所があります。

万松院の詳細は下記のボタンから
お入り頂けます。

万松院
この日の昼食は「海鮮丼」です。

右下のお椀は「ろくべえ」です。
サツマイモを発酵させた澱粉で
作られた麺です。
糸こんにゃくのような食感です。
午後便のジェットフォイールで
壱岐へ向かうために厳原港へ
来ました。

このターミナルからは壱岐、福岡、
釜山行のジェットフォイル、フェリー、
貨客船が運行されています。

釜山行は国際線となります。
今回乗船したジェットフォイルの
「ヴィーナス号」です。

時速80km以上で航行します。
フォーバークラフトや水中翼船などに
比べると速度の割には揺れは少なく、
殆どバス並みの乗り心地です。

画面にポインターを置くと
航海中の船をご覧いただけますが、
前1本、後ろに弓型のそりを持ち
ジェットで浮き上がるため、水上スキー
のような感じとなります。

対馬・厳原港から壱岐・郷ノ浦港まで
約1時間強の航程です。

船上から眺める壱岐は対馬に比べ
平坦な島に見えます。
標高212.8mの岳の辻が最高峰です。

「魏志倭人伝」に「対馬国より千里余り、瀚海(かんかい)と呼ばれる海を渡ると一支国に至る。広さ三百里四方あまり、
竹やぶや林が多し、三千戸程度の家があり、田畑の耕作は行われており、南北との交易あり」と記された島です。
壱岐市は郷ノ浦町、芦辺町、勝本町の3町からなる1島1市です。
魏志倭人伝にも記載されるように、古代より大陸と日本をつなぐ交通の要所と
なっていました。遣唐使も当初は壱岐・対馬を経由して大陸へ渡っていました。
そのため、壱岐には古墳群や集落跡など多くの遺跡が存在しています。
一方、朝鮮半島や大陸からの侵攻も受け、文永の役では高麗軍に、弘安の役では
蒙古軍により大きな被害をこうむっています。

また、リアス式の海岸線を持つ島として、その景観も多様です。
平坦地が多いため、田畑も多く、海山の幸に恵まれ、自給自足の可能な島です。
人口は現在1.16万人となっています。

周辺には島も多く、有人島が4つと無人島が19あります。

博多から郷ノ浦までは67km、唐津から印通寺港まで26kmで、いずれも
フェリーやジェットフォイルが運行されています。
空港もあり、オリエンタルエアブリッジ(ORC)が1日2便長崎空港まで運航しています。
壱岐郷ノ浦港にある
フェリー乗り場です。
乗り場の傍に古墳の模型が
作られています。
それだけ、壱岐には古墳群が
多いと言う事でしょう。
今回残念ながら古墳見学は
出来ませんでした。
港から黒崎砲台跡と猿岩へ向かいます。
左の写真2葉は砲台への入口の
柱です。中の柱は迷彩が施され、
右の民家の入口には迷彩を施した
倉庫があります。
何れも軍の設置したものですが、倉庫は
終戦後民家の倉庫としてそのまま利用
されているようです。
黒崎砲台の入口です。

黒崎砲台は1928年(昭和3)から
3年の年月をかけて完成しています。
口径41cmのカノン砲二門の砲台で
砲身の長さ18.83m、弾丸の重さ1t、
最大射程距離約35kmです。
同じ規模の砲台が韓国釜山と対馬に
ありました。
ここでも一発も実弾を発射する
ことがなかったようです。

以前はここから砲台下に入れた
ようですが、トンネル内のひび割れで
現在は出入り禁止になっているそうです。
砲台を上から見ています。
一番下の右寄りが上記写真の
入口になっています。

穴だけでは判り難いですが、
下図の様子から砲台の大きさが
想像できます。

この砲台の解体は三菱重工長崎
造船所が請け負ったそうです。
写真手前左の欠けた部分は発破の
時のキズで、砲台の周辺に縦に
並んだキズは解体時のドリル跡です。

黒崎砲台の登り口の海岸に
「猿岩」があります。

この角度から見るとまさに「猿」
そのものです。

自然の造った芸術作品でしょう。
猿岩から北の方向を眺めています。
火山性のリアス式海岸が見られます。
猿岩の後方へ回ると、こんな感じで
猿と言うより、モンクの叫びのような
岩になります。

台地には草が生えて広場になって
いますが、周囲は切り立った崖に
なっています。

画面にポインターを置くと
崖の様子をご覧いただけます。
壱岐の島の西寄りから東側へ
移動する途中にある「鬼の窟」です。

円形古墳の入口です。
石版で囲まれており、昔から
扉は有りません。
従い、盗掘のし放題だったそうで、
遺品は残されていないようです。

画面にポインターを置くと
入口の様子をご覧いただけます。
車窓からの見学で中には
入れませんでした。
島の中心にある「へそ石」です。

説明板には「この石は、壱岐名勝
図誌によると國分石とあり、石は
大小一個づつ有って、往来の時、
ここが壱岐の中心になると言う事で
目標として通行していた」とあります。

また、「地域の人はこの石を、<壱岐で
真中、國分が真中、へそ石真中〉と
呼び、へそ石として親しまれている」
とも記されています。
国片主神社です。

811年(弘仁2)の創建です。

この神社は、古来、国分天神と呼ばれ、
唐土から石舟に乗ってやって来た、
唐田天神を祀っていましたが、天満宮
との混同により、国分天満宮となったもの
だそうです。

壱岐七社の一つです。

車窓からの見学で中には入れません
でした。
盆地が多く、広々とした農地が
広がっています。

奥のハウスではアスパラガスが
栽培されています。
壱岐のアスパラガスが日本農業大賞を
受賞し日本一のアスパラガスと
言われています。
安国寺です。

元寇の役が終わってから、
1338年(暦応元)足利尊氏、
足利直義の兄弟が臨済宗の
夢想礎石の勧めで北海道、沖縄を除く、
全国66か国と壱岐・対馬の2島に
利正塔と安国寺建立を命じました。

安国寺はその時に創建されています。
ただ、壱岐では新しい寺院の
建立には財政不足で、従来あった
安国海印寺を改装しています。

壱岐では最も古い寺院です。

左手に見えるのは「師子窟」の
掲額が掛かる仏殿です。

車窓からの一瞬の眺めです。

一支国(いきこく)博物館です。

一支国とは壱岐のことで
魏志倭人伝に一支国(いきこく)と
記載されています。
魏志倭人伝の編纂の際、壱岐が
一支と間違って記載されたのでは
ないかとの説もあるようです。

この博物館の建物は黒川紀章氏の
デザインになるものです。

左手の屋根に少し見えますが、
ここの屋根には芝が貼られています。

中央の塔は展望台です。
ここから国指定の特別史跡
「原の辻遺跡」を眺める事が出来ます。

展示室には域で発掘された遺跡類が
展示されています。室内の写真撮影は
禁止されています。

画面にポインターを置くと
上から眺めた博物館の全景が
ご覧いただけます(資料からの
拝借です)。
展望台から眺める内海です。

湾内にある左の島は青島です(後出)。
その右に赤島が見えています。
展望台から眺める
国指定特別史跡の「原の辻
(はるのつじ)遺跡群」です。
まだ、1割程度の発掘でまだまだ
いろんな物が今後発掘される
可能性があります。
これまでの出土品は国の
重要文化財に指定されています。

発掘は農閑期に行われるので、
進行はゆっくりなのだそうです。

規模的には他に特別史跡に指定
されている佐賀県の吉野ヶ里遺跡や
静岡県の登呂遺跡に勝るとも劣らぬ
物だそうですが、周知されていないのが
残念だとガイドさんが嘆いていました。
展望台から眺める青島です。
ここには中央の高い塔が見られるように
発電所が設けられています。
この島の発電所は無排ガス稼働です。

青島公園が島内に設けられています。

左の橋は「青島大橋」です。

電力王「松永安左エ門」は壱岐の
生まれで、離島としては初めての
電力会社を作り、送電を開始しています。

その歴史を持つ「新壱岐発電所」です。
発祥の発電所はこれより北にある
芦辺発電所で、現在も稼働しています。
現在は九州電力の管轄です。
内海の岬にある「左京鼻」です。
火山性の岩石で形成された
岩山と岩礁の岬です。

岩礁は観音柱と呼ばれる
玄武岩の柱状節理です。
元は一番上の飛び出している岩が
2本あり、夫婦岩と呼ばれていた
そうですが、1本が折れて、現在は
1本だけになっています。

また、壱岐誕生の折の八本柱の
一つであるとの説もあります。

鹿児島県では岬を鼻と呼ぶことが
多く、ここでも岬は全て鼻に
なっています。

左京鼻の意味は陰陽師の後藤左京
和尚の名前から来ています。

陰陽師と寺の住職がこの八幡半島で
雨乞いをし、7日7夜の祈祷でも
雨が降らず、陰陽師がこの崖から
飛び降りて責任を取ろうとしたときに
雨が降ったという伝説があります。
その伝説の左京の名前が付いています。

画面にポインターを置くと
観音柱の拡大写真をご覧頂けます。
左京鼻の絶壁です。
突き出した岬の先に神社が
祀られています。

画面にポインターを置くと
神社の様子をご覧いただけます。
この神社は「左京鼻龍神」です。

屏風岩の風景です。
溶岩台地を感じさせます。
壱岐牛です。最近は放牧するのが
少なくなったそうで、こうした風景も
見られなくなりつつあるとの事です。
左京鼻の近くにある
「はらほげ地蔵」です。
お地蔵さんの胸に穴があり、
お参りする人の胸の支障を
取り除いて下さるとの事です。

元々は別の場所にあったのですが、
区画整理で海から離れた場所に
移したところ、街に色々と不都合な
事が起こり、これはお地蔵さんの
祟りだとして、海の中に移したところ
不都合は全く起こらなくなったとの
ことです。

肩から掛けている袋はお供えを
ここに入れて、海に流されないように
するためだそうです。

画面にポインターを置くと
胸の穴(ほげ)がご覧頂けます。
満潮になるとお地蔵さんは
この様な状態になるようです。
資料から拝借しています。
はらほげ地蔵から夕食場所の
芦辺港へ向かう途中にある
「清石浜(くよしはま)」です。

芦辺町では唯一の海水浴場です。
500mの砂浜が続く海浜です。
芦辺港です。

漁港ですが、フェリー乗り場もあります。
我々も対馬から壱岐に渡る際、
ジェットフォイルで芦辺港に入る
予定でしたが、工事中の為、
郷ノ浦港に入りました。

元寇襲来の折、この港からも上陸
され、多くの犠牲が出たそうです。

画面にポインターを置くと
別角度からの芦辺港をご覧
頂けます。
この日の夕食は壱岐牛の焼き肉で
「うめしま」と言うお店でした。

牧場直営のお店だと言う事でした。

下の写真は夕食の壱岐牛カルビの
焼き肉です。
大変美味しい肉でした。
醤油だれ、塩、胡麻焼き塩の
三種類の調味料で食べましたが、
壱岐塩が一番合いました。
宿泊施設へ向かうバス内でガイドさん
から案内の有った「塞神社(さいじんじゃ)」
へ散歩がてら訪れました。

鳥居をくぐると奥に下の写真の男根の
飾りがありました。祭神が猿田彦の妻で
ある猿女君が祀られており、夫婦和合の
神様なので、このような奉納品が
多いようです。

本殿内の壁には春画も多数
貼られていました。
画面にポインターを置くと本殿内を
ご覧いただけます。

塞神社の港よりにある昭和橋に置かれて
いる百合若大臣の鬼退治の像です。
この話は平安時代の出来事で
なが~い伝説があり、省略しますが、
昔壱岐には多数の鬼がおり、百合若は
首領の悪毒王と戦い、この鬼の首を
落としました。首は天に駆けあがり
薬を取って戻ってきて百合若の兜に
かみつきました。

この兜に噛みついた鬼は鬼凧(おんだこ)
として今に伝えられています。
下図は壱岐の鬼凧で、鬼が天から
下りてこないように揚げるのだそうです。
朝の郷ノ浦港の様子です。

イカ釣り船がずらりと停泊しています。
ウニ博物館に展示されている
壱岐の海女さんの衣装などです。

壱岐の海女さんは全てレオタードを
身に付けていて、ウェットスーツなどは
禁じられているそうです。
これは、あまり長く海中に潜りウニや貝を
採りつくさないようにとの配慮からだ
そうです。

画面にポインターを置くと
レオタード姿の海女さんがご覧
頂けます。
(たまたま、帰りの飛行機の中の
機内誌に有った写真です)


壱岐では海女さんの成り手がなく、
他府県からの移住に頼っている
との事で、最近は横浜から一人
女性が海女さんになるために
来ているそうです。
みやげ物屋さんでの自由時間に
近くにある「華光寺」を覗いて
きました。

1301年(正安3)に唐津城主の
妻・華渓が船中で亡くなり、
遺言によりその子の天佑貴公が
この地に華渓院を草創しました。
その後、1506年に華光寺と改めて
います。

階段よこの石碑は「不許葷酒入山門」
と記されています。両側には
仏石像が並んでいます。

ただ、どこにもお寺の名前がなく、
庭の手入れを入していた女性に
教えて頂きました。

壱岐の曹洞宗随一の寺院です。
山門もなかなか立派でした。

画面にポインターを置くと
本堂の眺めをご覧
頂けます。
壱岐郷ノ浦港からジェットホイルで
博多港へ向かいました。

博多経由で長崎まで行き、
長崎から再びジェットホイルで
五島列島の福江島へと向かいます。
ジェットホイルの船内はこのような
感じで、スピードも余り感じません。
一応、シートベルト着用ですが、
水中翼船などに比べると、段違いに
安定感があります。

壱岐・郷ノ浦港から博多港まで
約1時間強の航海です。

博多港の様子は別途福岡県に
掲載しています。
五島列島は五島市と新上五島町の二つの地区から成り立つ群島です。五島市は11の有人島と52の無人島から
形成され、新上五島町は7の有人島と60の無人島から形成されています。隠れキリシタンの時代からの教会の
多い島でもあります。今回は五島市の福江島のみの訪問となりました。
五島列島の中では最も大きい島である福江島は五島市の市役所や
主な機関が所在する島です。
日本の島の中では11番目(国後、択捉、沖縄本島を含めます)の大きさです。
人口は3万8千人強です。

最高峰は西寄りにある父ヶ岳(ててヶだけ:461m)です。
鬼岳(おんだけ:315m)は芝生に包まれた火山で、西海国立公園の五島の
シンボルとなっています。近辺には福江空港、ゴルフ場や鬼岳天文台などもあります。
今回は何れも登る機会がありませんでした。

火山性のリアス式海岸を持つ福江島は海岸美に優れ、特に、大瀬崎展望台
から眺める玉之浦は素晴らしい眺望です。

また、遣唐使派遣の後半には福江島が最終寄港地となり、
当時の遣唐使にまつわる風習、遺跡などが数多く島内に残されています。
福江港は旧福江藩の時代からの港で、城下町の玄関の役割を
持っていました。昭和に入って近代化が進められ、現在の五島の
代表港となっています。

福江港の近辺には城下町の名残が色濃く残されており、石田城跡や
武家屋敷街があります。

また、明人堂や六角井戸など大陸の影響を受けた遺跡も残されています。

五島列島を1日ではほとんど回れるところはなく、福江島のごく一部を
周っただけで、五島列島に足を踏み入れたという実績のみでした。

出来ればあちこちの島に泊まり歩くと、色々な歴史や伝説に出会えるだろうと
感じました。
長崎港でおじいちゃん、おばあちゃんを
見送る子供、孫たちです。

見送る人有れば、迎える人有で、
福江港に迎えに来ている人たちです。

迎えの人は年配者が多いです。

左端の案内板を持っている人は
我々を迎えに来てくれたバスガイド
さんです。
福江港のターミナルビルです。
五島では椿が有名で、
ビルの絵も椿です。
港から直接「堂崎天主堂」へ
向かいました。

福江島も入組んだ入り江に
取り囲まれています。

潮が引くと大きな砂浜になるようです。
堂崎の海岸です。
綺麗に丸くなった岩が二つ
並んでいました。

画面にポインターを置くと
この石の拡大画面が
ご覧いただけます。

何か意味のある石かどうか
聞き漏らしました。
長崎県指定有形文化財の
「堂崎天主堂」です。
天主堂の正面です。

1879年(明治12)パリ外国宣教会
マルマン師によって、堂崎に仮聖堂が
建立され、ここを弾圧後の五島における
宣教活動の拠点としました。
禁教令廃止後の最初の教会です。

後任のペルー師によって建て替え工事が
行われ、1908年(明治41)に現在の
赤レンガ、ゴシック様式の天主堂が完成し、
日本二十六聖人に捧げられました。

内部には歴史資料が展示
されていますが、写真撮影は
禁止されています。

画面にポインターを置くと
右手奥から見た天主堂を
ご覧いただけます。

教会庭園に並ぶ4つの像です。

左はアルメイダの宣教碑「出会いの日」
です。
島の人々とキリスト教の「出会い」を
記念する碑です。

右は園内に置かれているマリア像です。
左は聖ヨハネ五島殉教像「受難の時」
です。
ヨハネ五島は1597年(慶長2)大阪で
捕えられ33日間の道程で長崎まで
連れてこられ、他の信者、神父25名と
共に十字架にかけられた、五島生まれの
19歳の青年で、26聖人の一人です。

右は「復活の夜明け」の像で、マルマン
神父とペルー神父及び子供が並び、
神父たちの教会建設と福祉事業の
創始を記念した像です。
堂崎天主堂をシュパツする際には
激しい雨に見舞われましたが、
ホテルに到着すると雨は上がり、
東の空に虹が現れました。

画面にポインターを置くと
海岸沿いに二重に架かった虹を
ご覧いただけます。
食事の場所「椿茶屋」へ向かう際、
香珠子海岸からみる夕焼けです。
椿茶屋です。

福江島の南部、香珠子海水浴場に
近い所にあるレストランで、囲炉裏で
食材を焼きながら食べるのが
特徴です。

画面にポインターを置くと
玄関横の緋扇貝の並んだ
通路をご覧いただけます。
囲炉裏焼の様子です。

鯵、手羽先、サザエを焼いています。
セットには刺身やひじき、香の物が
付いていました(左)。

牛ロースも囲炉裏で焼きます(右)。
更に、豚ロースもありました(左)。

他に水イカがありましたが、写真を
撮り忘れました。

締めは「五島うどん」です。
細めの麺で、つるつるしていて、
なかなか美味です。ここでは
日本三大うどん(稲庭・讃岐)の一つと
称されています。
店内の囲炉裏は大小幾つもあり、
少人数でも楽しめそうです。
五島・福江での宿泊は
五島バスターミナルホテルです。

手前に見える茶色っぽい建物は
同系列のホテルで「カンパーナホテル」
です。天皇皇后も平成14年に宿泊
しています。
大浴場のみ無料で利用させて
もらいました。

朝の食事までの時間を利用して
ホテルの近くにある石田城跡を
散策しました。

石田城は黒船対策として江戸末期に
築城された、日本で最後のお城です。
当時は三方を海に囲まれた「海城」
だったそうです。

この門は「蹴出門」で裏門に当たります。
現在は五島高校の通用門にも
なっています。

石田城跡の詳細は下記ボタンから
お入り頂けます。

石田城跡とその周辺

石田城の城下町として形成された
福江の街には現在も数多くの
武家屋敷が遺されていて、現在は
武家屋敷通りとなっています。

屋敷は殆どが私人の居宅として
利用されているため、邸内へは
入れません。

武家屋敷通りの様子は下記ボタンから
お入り頂けます。

武家屋敷通り
福江の街から大瀬崎へ向かうために
島内を東から西まで走りました。

島内にはこのような稲田が沢山あります。
また、蛍が沢山見られるそうです。

それでも、田圃と畑の比率は30:70と
圧倒的に畑の方が多いそうです。
ここは島内で最も長い直線道路です。
約2.2kmをまっすぐ走ります。

五島市岐宿街の二本楠にある道路で
長崎県でも一番長い直線道路です。
また、この辺りは福江島のほぼ中心
にもなっています。

車内からの望遠撮影で少しボケて
いますが、どこまでも続く道が
見られます。
通り道にミニ田圃アートがありました。
色の異なる稲を植えて画像にする
田圃アートは各地で行われている
様ですが、ここのはほんとにミニで、
猫の絵のようです。
島の西南部にある玉之浦沿いの道を
走ります。

田圃と海と山の風景を楽しめます。
車窓から見ていると湖の傍を
走っているように感じます。

画面にポインターを置くと
入江の風景をご覧いただけます。
玉之浦の布浦海岸風景です。
リアス式海岸がまるで湖のような
風景を作っています。
通り道に有ったクリスチャン墓地です。
この近辺には木造の教会が
有ったそうですが、現在は看板のみで
教会はなく、墓地のみが遺されています。
福江島と島山島をつなぐ
玉之浦大橋です。
1994年に完成した170mの
橋です。
五島市では唯一の本島と離島を
結ぶ橋です。

島山島には鹿が生息しており、
時にはこの大橋を鹿が渡ることも
有るのだそうです。

大瀬埼の断崖とその上に立つ
大瀬埼灯台です。
灯台は初代が1879年(明治12)に
建造され、1971年(昭和46)に
改修されて現在の灯台になって
います。

灯台の場所は元々断崖の上で
平坦にするために3年を費やした
そうです。

大瀬埼灯台と周辺の景観は
下記ボタンからお入り頂けます。

大瀬崎と展望台

大瀬埼の麓にある井持浦教会です。
日本で最初のルルドが造られました。

井持浦教会の建っている玉之浦一帯は、
五島に迫害の嵐が吹き荒れた明治初期、
唯一迫害を逃れた地区です。

この教会の詳細は下記ボタンから
お入り頂けます。

井持浦教会
通りに面した墓地にこの様な
墓石がありました。

スタイルは仏教の墓ですが、
墓の刻字には十字架のマークが
付いています。
キリシタンのお墓ですが、隠れの
時代の影響を受けたものでしょうか。
大瀬埼の半島と福江島本島の付け根に
この石碑があります。

西高野山・大寶寺と記されています。

この奥に大宝寺があります。
創建は701年(大宝元)と伝えられ、
806年(大同元)遣唐使に随行し唐に
留学した空海が、その帰途、大宝寺に
立ち寄り、日本で最初の真言宗の
講釈を行ったと伝えれています。

画面にポインターを置くと
「遣唐使ふるさと館」に掲示されていた
大宝寺の写真がご覧いただけます。
今回時間なく、大宝寺を訪れることは
出来ませんでした。
福江島の西海岸には荒川温泉が
あります。
福江島が火山地帯であることを
感じさせます。

荒川には捕鯨の歴史があり、
ナガスクジラの下あごの骨が
街中に飾られていました。

捕鯨の最盛期の昭和30~35年に
荒川には大洋漁業の捕鯨基地が
有ったそうです。

高浜海水浴場は西の海上に
嵯峨島を望み、緑に囲まれた白銀色の
砂浜と、澄みきった海で知られる
新観光百選・日本の渚百選・日本の
道百選・日本の水浴場88選の地です。

干潮時には大きな砂浜が出現
するそうです。

正面に見える島は嵯峨島で、昔は
流人の島だったそうです。
右手の丘には「魚籃観音」が祀られ
その手前には金比羅神社もあります。

高浜海岸とその周辺部は下記の
ボタンからお入り頂けます。

高浜海水浴場
高浜海水浴場の後背地として
砂丘があります。
海岸から吹き上げられた砂により
形成されたものです。
ちょっと見には砂丘とは思えません。
三井楽町から眺める桐の木山と
南国を思わせる椰子の並木です。

自然豊かな島です。

三井楽町の街中にある
道の駅遣唐使ふるさと館です。

三井楽の街づくりの仕上げとして
1999年に建てられたふるさと館は
2008年には長崎県の離島で初の
道の駅に認定されています。

館内にはレストランや即売場の他、
遣唐使由来の展示場や、三井楽の
詠まれている万葉歌などの説明が
展示されています。

左端にあるのは電気自動車用の
充電スタンドです。

道の駅の内部は下記ボタンから
お入り頂けます。

遣唐使ふるさと館
ふるさと館から福江港へ向かう
途中で岐宿町にある水之浦教会が
車窓から見られました。

1880年(明治13)に木造の
教会が建てられ、建替えにあたり
五島出身の鉄川与助の設計施工
により現在の教会となりました。

1938年(昭和13)に完成した
教会の内部はゴシック様式の
木造の天井を有し、鉄川与助
最後の木造設計となっています。

現在真っ白な教会ですが、
戦時中は真っ黒に塗られていた
そうです。

車窓から見えたこの墓地は
キリスト教徒と仏教徒の墓が
共存しています。

福江港ターミナルから
ジェットホイルで長崎港へ
向かいます。
福江港の港内です。
赤と白の灯台が見送ってくれます。

正面に見える島は屋根尾島です。
右手の島は栄螺島です。

更にその奥に見えるのは
五島列島です。
ジェットホイールのスピード表示が
船内にあります。

表示は83km/hになっていますが、
最速時には85.5km/hを表示
していました。
長崎港の外港です。
右手は伊王島です。
見えている橋は伊王島大橋です。

伊王島にある
聖ミカエル天主堂です。

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