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2016年9月に3島を訪れました。 3泊4日での旅では回りきれない島々です。 |
対馬や壱岐は長崎県ではなく、福岡県だと思っている人が多いそうです。 位置的にそう思われるようです。 対馬は廃藩置県の際に伊万里県に属し、伊万里県はその後佐賀県になっています。 つまり元々は佐賀県の配下にあったようですが、1876年(明治9)に長崎県の管轄に 移されています。 対馬は福岡空港と、長崎空港からの航空便があります。他にはジェットフォイルが 博多港から航行しています。 壱岐は明治の廃藩置県で平戸県に所属することになり、その後長崎県の管轄と なったようです。古くから半島や大陸と九州を結ぶ海上交通の中継点と なっていました。 五島列島は140余りの島から形成されている群島です。この島には石器時代 からすでに人が住んでいたようです。 他の2島同様、隠れキリシタンの多い場所であったようで、現在も数多くの 教会と信者が存在しています。 また、遣唐使が最後の寄港地として利用した歴史もあり、対馬・壱岐を含め この3島の歴史と遺跡は想像以上の豊かさで、短時間では見聞するには 難しい地域でした。 |
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対馬は古くから大陸との交流があり、朝鮮半島と倭・大和をむすぶ交通の要衝地でした。そのため、元寇を含め、 度々半島、大陸の勢力に侵された歴史を持っています。また、古代には古墳時代を形成し、大和勢力との関係を示しています。 この地は万葉集にも詠まれる防人が島を守っていました。 |
対馬は朝鮮半島から見ると馬が二頭並んでいるように見えたことから、対の馬、対馬と 呼ばれていたのを、そのまま流用したと云う説もあるそうです。「日本書紀」では対馬島の 3文字で「つしま」と呼んでいたようです。別に、対州とも呼ばれていたようです。 対馬は朝鮮半島の釜山まで49.5kmしかありません。日本本土(九州)からは132kmあります。 従い、朝鮮半島、中国大陸と日本を結ぶ交通の拠点としても重要な位置にありました。 対馬を支配した宗氏は元々惟宗氏の姓を朝鮮との交流を考えて、宗氏にしたのだそうです。 宗氏は対馬の支配者「阿比留氏」を滅ぼし、その後35代にわたり対馬を支配しています。 その間には元寇の襲来などもあり多数の戦死者を出し、また、秀吉による朝鮮征伐軍の派遣などで、 関係悪化した朝鮮との関係修復に、国書の改竄をしてまで努めたのだそうです。 その甲斐あって、1607年には朝鮮通信使が初めて来日し、その後200年に12回の来日があり、 宗氏がその段取り全てを担うこととなりました。 対馬はその面積の90%近くが山林で、周囲は高さ100mにも及ぶ断崖絶壁で殆ど平地がなく、 朝鮮半島との船での往来で、人・物・文化の交流が行われてきたようです。 人口は多い時で6万人くらいいたそうですが、現在は3.2万人になっています。 一方で、中国、朝鮮からの侵攻を防ぐために、防人が置かれ、朝鮮式の山城である金田城も 築かれています。現在も城山山頂を取り囲むように2.9kmの石塁が残されています。 今回2016年9月に福岡空港から対馬空港へ飛び、翌日厳原港からジェットフォイルで 壱岐へ向かいました。 たった1日では立ち寄った程度で、歴史の長い島全体を見聞するにはあまりにも時間不足でした。 北から南まで見るには少なくとも2・3泊は必要でしょう。 |
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「魏志倭人伝」に「対馬国より千里余り、瀚海(かんかい)と呼ばれる海を渡ると一支国に至る。広さ三百里四方あまり、 竹やぶや林が多し、三千戸程度の家があり、田畑の耕作は行われており、南北との交易あり」と記された島です。 |
壱岐市は郷ノ浦町、芦辺町、勝本町の3町からなる1島1市です。 魏志倭人伝にも記載されるように、古代より大陸と日本をつなぐ交通の要所と なっていました。遣唐使も当初は壱岐・対馬を経由して大陸へ渡っていました。 そのため、壱岐には古墳群や集落跡など多くの遺跡が存在しています。 一方、朝鮮半島や大陸からの侵攻も受け、文永の役では高麗軍に、弘安の役では 蒙古軍により大きな被害をこうむっています。 また、リアス式の海岸線を持つ島として、その景観も多様です。 平坦地が多いため、田畑も多く、海山の幸に恵まれ、自給自足の可能な島です。 人口は現在1.16万人となっています。 周辺には島も多く、有人島が4つと無人島が19あります。 博多から郷ノ浦までは67km、唐津から印通寺港まで26kmで、いずれも フェリーやジェットフォイルが運行されています。 空港もあり、オリエンタルエアブリッジ(ORC)が1日2便長崎空港まで運航しています。 |
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五島列島は五島市と新上五島町の二つの地区から成り立つ群島です。五島市は11の有人島と52の無人島から 形成され、新上五島町は7の有人島と60の無人島から形成されています。隠れキリシタンの時代からの教会の 多い島でもあります。今回は五島市の福江島のみの訪問となりました。 |
五島列島の中では最も大きい島である福江島は五島市の市役所や 主な機関が所在する島です。 日本の島の中では11番目(国後、択捉、沖縄本島を含めます)の大きさです。 人口は3万8千人強です。 最高峰は西寄りにある父ヶ岳(ててヶだけ:461m)です。 鬼岳(おんだけ:315m)は芝生に包まれた火山で、西海国立公園の五島の シンボルとなっています。近辺には福江空港、ゴルフ場や鬼岳天文台などもあります。 今回は何れも登る機会がありませんでした。 火山性のリアス式海岸を持つ福江島は海岸美に優れ、特に、大瀬崎展望台 から眺める玉之浦は素晴らしい眺望です。 また、遣唐使派遣の後半には福江島が最終寄港地となり、 当時の遣唐使にまつわる風習、遺跡などが数多く島内に残されています。 |
福江港は旧福江藩の時代からの港で、城下町の玄関の役割を 持っていました。昭和に入って近代化が進められ、現在の五島の 代表港となっています。 福江港の近辺には城下町の名残が色濃く残されており、石田城跡や 武家屋敷街があります。 また、明人堂や六角井戸など大陸の影響を受けた遺跡も残されています。 五島列島を1日ではほとんど回れるところはなく、福江島のごく一部を 周っただけで、五島列島に足を踏み入れたという実績のみでした。 出来ればあちこちの島に泊まり歩くと、色々な歴史や伝説に出会えるだろうと 感じました。 |
長崎港でおじいちゃん、おばあちゃんを 見送る子供、孫たちです。 |
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見送る人有れば、迎える人有で、 福江港に迎えに来ている人たちです。 迎えの人は年配者が多いです。 左端の案内板を持っている人は 我々を迎えに来てくれたバスガイド さんです。 |
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福江港のターミナルビルです。 五島では椿が有名で、 ビルの絵も椿です。 |
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港から直接「堂崎天主堂」へ 向かいました。 福江島も入組んだ入り江に 取り囲まれています。 潮が引くと大きな砂浜になるようです。 |
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堂崎の海岸です。 綺麗に丸くなった岩が二つ 並んでいました。 画面にポインターを置くと この石の拡大画面が ご覧いただけます。 何か意味のある石かどうか 聞き漏らしました。 |
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長崎県指定有形文化財の 「堂崎天主堂」です。 |
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天主堂の正面です。 1879年(明治12)パリ外国宣教会 マルマン師によって、堂崎に仮聖堂が 建立され、ここを弾圧後の五島における 宣教活動の拠点としました。 禁教令廃止後の最初の教会です。 後任のペルー師によって建て替え工事が 行われ、1908年(明治41)に現在の 赤レンガ、ゴシック様式の天主堂が完成し、 日本二十六聖人に捧げられました。 内部には歴史資料が展示 されていますが、写真撮影は 禁止されています。 画面にポインターを置くと 右手奥から見た天主堂を ご覧いただけます。 |
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教会庭園に並ぶ4つの像です。 左はアルメイダの宣教碑「出会いの日」 です。 島の人々とキリスト教の「出会い」を 記念する碑です。 右は園内に置かれているマリア像です。 |
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左は聖ヨハネ五島殉教像「受難の時」 です。 ヨハネ五島は1597年(慶長2)大阪で 捕えられ33日間の道程で長崎まで 連れてこられ、他の信者、神父25名と 共に十字架にかけられた、五島生まれの 19歳の青年で、26聖人の一人です。 右は「復活の夜明け」の像で、マルマン 神父とペルー神父及び子供が並び、 神父たちの教会建設と福祉事業の 創始を記念した像です。 |
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堂崎天主堂をシュパツする際には 激しい雨に見舞われましたが、 ホテルに到着すると雨は上がり、 東の空に虹が現れました。 画面にポインターを置くと 海岸沿いに二重に架かった虹を ご覧いただけます。 |
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食事の場所「椿茶屋」へ向かう際、 香珠子海岸からみる夕焼けです。 |
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椿茶屋です。 福江島の南部、香珠子海水浴場に 近い所にあるレストランで、囲炉裏で 食材を焼きながら食べるのが 特徴です。 画面にポインターを置くと 玄関横の緋扇貝の並んだ 通路をご覧いただけます。 |
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囲炉裏焼の様子です。 鯵、手羽先、サザエを焼いています。 |
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セットには刺身やひじき、香の物が 付いていました(左)。 牛ロースも囲炉裏で焼きます(右)。 |
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更に、豚ロースもありました(左)。 他に水イカがありましたが、写真を 撮り忘れました。 締めは「五島うどん」です。 細めの麺で、つるつるしていて、 なかなか美味です。ここでは 日本三大うどん(稲庭・讃岐)の一つと 称されています。 |
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店内の囲炉裏は大小幾つもあり、 少人数でも楽しめそうです。 |
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五島・福江での宿泊は 五島バスターミナルホテルです。 手前に見える茶色っぽい建物は 同系列のホテルで「カンパーナホテル」 です。天皇皇后も平成14年に宿泊 しています。 大浴場のみ無料で利用させて もらいました。 |
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朝の食事までの時間を利用して ホテルの近くにある石田城跡を 散策しました。 石田城は黒船対策として江戸末期に 築城された、日本で最後のお城です。 当時は三方を海に囲まれた「海城」 だったそうです。 この門は「蹴出門」で裏門に当たります。 現在は五島高校の通用門にも なっています。 石田城跡の詳細は下記ボタンから お入り頂けます。 |
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石田城の城下町として形成された 福江の街には現在も数多くの 武家屋敷が遺されていて、現在は 武家屋敷通りとなっています。 屋敷は殆どが私人の居宅として 利用されているため、邸内へは 入れません。 武家屋敷通りの様子は下記ボタンから お入り頂けます。 |
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福江の街から大瀬崎へ向かうために 島内を東から西まで走りました。 島内にはこのような稲田が沢山あります。 また、蛍が沢山見られるそうです。 それでも、田圃と畑の比率は30:70と 圧倒的に畑の方が多いそうです。 |
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ここは島内で最も長い直線道路です。 約2.2kmをまっすぐ走ります。 五島市岐宿街の二本楠にある道路で 長崎県でも一番長い直線道路です。 また、この辺りは福江島のほぼ中心 にもなっています。 車内からの望遠撮影で少しボケて いますが、どこまでも続く道が 見られます。 |
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通り道にミニ田圃アートがありました。 色の異なる稲を植えて画像にする 田圃アートは各地で行われている 様ですが、ここのはほんとにミニで、 猫の絵のようです。 |
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島の西南部にある玉之浦沿いの道を 走ります。 田圃と海と山の風景を楽しめます。 車窓から見ていると湖の傍を 走っているように感じます。 画面にポインターを置くと 入江の風景をご覧いただけます。 |
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玉之浦の布浦海岸風景です。 リアス式海岸がまるで湖のような 風景を作っています。 |
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通り道に有ったクリスチャン墓地です。 この近辺には木造の教会が 有ったそうですが、現在は看板のみで 教会はなく、墓地のみが遺されています。 |
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福江島と島山島をつなぐ 玉之浦大橋です。 1994年に完成した170mの 橋です。 五島市では唯一の本島と離島を 結ぶ橋です。 島山島には鹿が生息しており、 時にはこの大橋を鹿が渡ることも 有るのだそうです。 |
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大瀬埼の断崖とその上に立つ 大瀬埼灯台です。 灯台は初代が1879年(明治12)に 建造され、1971年(昭和46)に 改修されて現在の灯台になって います。 灯台の場所は元々断崖の上で 平坦にするために3年を費やした そうです。 大瀬埼灯台と周辺の景観は 下記ボタンからお入り頂けます。 |
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大瀬埼の麓にある井持浦教会です。 日本で最初のルルドが造られました。 井持浦教会の建っている玉之浦一帯は、 五島に迫害の嵐が吹き荒れた明治初期、 唯一迫害を逃れた地区です。 この教会の詳細は下記ボタンから お入り頂けます。 |
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通りに面した墓地にこの様な 墓石がありました。 スタイルは仏教の墓ですが、 墓の刻字には十字架のマークが 付いています。 キリシタンのお墓ですが、隠れの 時代の影響を受けたものでしょうか。 |
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大瀬埼の半島と福江島本島の付け根に この石碑があります。 西高野山・大寶寺と記されています。 この奥に大宝寺があります。 創建は701年(大宝元)と伝えられ、 806年(大同元)遣唐使に随行し唐に 留学した空海が、その帰途、大宝寺に 立ち寄り、日本で最初の真言宗の 講釈を行ったと伝えれています。 画面にポインターを置くと 「遣唐使ふるさと館」に掲示されていた 大宝寺の写真がご覧いただけます。 今回時間なく、大宝寺を訪れることは 出来ませんでした。 |
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福江島の西海岸には荒川温泉が あります。 福江島が火山地帯であることを 感じさせます。 荒川には捕鯨の歴史があり、 ナガスクジラの下あごの骨が 街中に飾られていました。 捕鯨の最盛期の昭和30~35年に 荒川には大洋漁業の捕鯨基地が 有ったそうです。 |
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高浜海水浴場は西の海上に 嵯峨島を望み、緑に囲まれた白銀色の 砂浜と、澄みきった海で知られる 新観光百選・日本の渚百選・日本の 道百選・日本の水浴場88選の地です。 干潮時には大きな砂浜が出現 するそうです。 正面に見える島は嵯峨島で、昔は 流人の島だったそうです。 右手の丘には「魚籃観音」が祀られ その手前には金比羅神社もあります。 高浜海岸とその周辺部は下記の ボタンからお入り頂けます。 |
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高浜海水浴場の後背地として 砂丘があります。 海岸から吹き上げられた砂により 形成されたものです。 ちょっと見には砂丘とは思えません。 |
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三井楽町から眺める桐の木山と 南国を思わせる椰子の並木です。 自然豊かな島です。 |
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三井楽町の街中にある 道の駅遣唐使ふるさと館です。 三井楽の街づくりの仕上げとして 1999年に建てられたふるさと館は 2008年には長崎県の離島で初の 道の駅に認定されています。 館内にはレストランや即売場の他、 遣唐使由来の展示場や、三井楽の 詠まれている万葉歌などの説明が 展示されています。 左端にあるのは電気自動車用の 充電スタンドです。 道の駅の内部は下記ボタンから お入り頂けます。 |
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ふるさと館から福江港へ向かう 途中で岐宿町にある水之浦教会が 車窓から見られました。 1880年(明治13)に木造の 教会が建てられ、建替えにあたり 五島出身の鉄川与助の設計施工 により現在の教会となりました。 1938年(昭和13)に完成した 教会の内部はゴシック様式の 木造の天井を有し、鉄川与助 最後の木造設計となっています。 現在真っ白な教会ですが、 戦時中は真っ黒に塗られていた そうです。 |
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車窓から見えたこの墓地は キリスト教徒と仏教徒の墓が 共存しています。 |
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福江港ターミナルから ジェットホイルで長崎港へ 向かいます。 |
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福江港の港内です。 赤と白の灯台が見送ってくれます。 正面に見える島は屋根尾島です。 右手の島は栄螺島です。 更にその奥に見えるのは 五島列島です。 |
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ジェットホイールのスピード表示が 船内にあります。 表示は83km/hになっていますが、 最速時には85.5km/hを表示 していました。 |
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長崎港の外港です。 右手は伊王島です。 見えている橋は伊王島大橋です。 |
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伊王島にある 聖ミカエル天主堂です。 |
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