厳原町の風景
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厳原(いずはら)には7世紀から対馬国の国府が置かれ、行政文化の中心地として栄えました。府中とも呼ばれ、
1486年(文明18)に宗氏の館がこの地へ移転したことで、城下町としての歩みを始めました。
明治維新後に厳原と改称されました。
江戸時代、対馬の藩主・宗氏の格式は10万石で、その高さが菩提寺である万松院に偲ばれます。
外交・文化使節団「朝鮮通信使」は府中を経て、対馬藩の船頭・護衛のもと江戸に向かいました。
対馬は大陸との文化、貿易の窓口として栄え、また韓国釜山には対馬藩士など約600人が滞在する倭館が置かれるなど、
独自の外交・貿易機能を発揮していました。
こうした歴史を持つ厳原町の街中には、現在も多くの城下町特有の石垣や建物などが遺されています。
いまなお対馬島で最大の町で、新設合併された対馬市の役場もここにあります。
今回は朝の食事後の出発までの僅かな時間を利用して街歩きをしましたので、ごく限られた地域しか歩けませんでした。
それでも、「国分」・「今屋敷」地区の散策で昔を偲ばせるに十分な街並みを眺めることが出来ました。
厳原の中心街です。
右手櫓門から西に向かうと「万松院」があります。

ホテル対馬から横町通りを抜け、屋敷跡の石塀や火切り石
などを眺めて国分にある市役所の横から西山寺へ向かう
道を歩きました。
その後、今屋敷にある江戸時代を偲ぶ路地裏通りも散策し、
十王小路から川端通へぬけて、ホテルへ戻りました。

1時間あれば随分いろいろと城下町を散策できたのですが、
食後の30分程度ではまさに散歩でした。

八幡神社の北側にある「中村」地区が武家屋敷跡の多い地区で
大きなお屋敷跡が並んでいたようですが、ここまでは足を
運べませんでした。
厳原の街中を流れる厳原本川に
沿って、商店などが並びます。

掘割風の川は風情があり、
柳もなかなかです。


川沿いにこんなお店もありました。

骨董屋さんでもないし、
リサイクルショップでもないお店です。
横町通りに入るとこのような石組みの
塀を持つ家が散在しています。
武家屋敷跡でしょうか。
なかなかしっかりした石垣に
囲まれた家です。
今屋敷公園はお屋敷跡を利用した
公園になっており、周りは石垣で
囲まれています。

入口は昔の門の有った場所のようです。

横町通りから下馬場筋通りへ
抜けるところに神社があります。

浜殿神社です。
豊玉彦命を祀る海の神様です。

小さい神社ですが、石積の垣に
囲まれています。
金石城の一部でしょうか。
立派な石垣があります。
真中の道を登ると
長崎県立対馬歴史民俗資料館が
あります。

左手の櫓は金石城の櫓門です。

資料館へ向かう途中に
「朝鮮国通信使之碑」が
建っています。

資料館は昼食の後の20分ほどの
自由時間を利用して訪れました。

下図は県立対馬歴史民俗資料館です。
こじんまりした資料館で、内部の
写真撮影は禁止されています。
1階のみの展示でした。
2階は資料の収蔵庫になっている
ようです。
入場は無料でした。


市役所の向かいにある
石垣塀のある家です。
石組みが見事です。
対馬市役所です。
厳原町役場もこの中にあります。
対馬市は2004年に対馬島内の
6つの町が合併し1島1市の形で
発足しています。

市役所の並びにある
武家屋敷跡です。

大きな石垣と白塀に
囲まれたお屋敷ですが、
見た所では空き家になって
いるようです。
さらに奥へ行くと、このような
石垣に出会います。
手前の右には神社があります。
神社名は不明です。

画面にポインターを置くと
神社をご覧いただけます。
さらに奥へ進むと「西山寺」にでます。
ここは宿坊にもなっています。

857年(天安元)の変により島分寺が
炎上し、翌年、国府嶽の麓に大日堂を
建て、大日寺と号するようになったのが
起源といわれています。

1511年(長正9)宗貞国夫人の菩提寺
となったことから、その法号に因んで
西山寺と改め、真言宗から臨済宗に
変わりました。

1732年(享保17)日吉にあった以酊庵
(いていあん)が焼失し、西山寺に移転
したため、西山寺は中村の瑞泉院に
移りました。

そして、明治元年に以酊庵が廃寺となり、
西山寺は故山に還りました。

以酊庵とは対馬藩の外交機関として
創建された寺院で、一時京都五山の
僧が輪番制で赴任していました。
幕府の任命による外交僧の輪番制であり、
幕府の崩壊により、明治元年には
以酊庵は廃寺とされました。

画面にポインターを置くと西山寺の
標石がご覧いただけます。

西山寺の先に出ると、厳原港方面の
眺めに出会います。

港は見えませんが、港の傍の山頂に
建つ「対馬いずはら病院」が遠望
出来ます。

また、左手に見えるのは「亀立岩」と
呼ばれる一枚岩です。
亀が立っているように見えることから
亀立岩と名付けられたのでしょう。
街中に戻り、今屋敷の辺りを
歩いてみました。
江戸小路の一部です。

細い道が入り組んでおり、迷路状に
なっていますが、石組みのしっかりした
建物が多くあります。

小路の角々にはお地蔵さまが
祀られており、小さいお堂が
作られているケースが多いです。

これは十王通りの出入り口にある
地蔵堂です。
後ろの川は厳原本川です。
江戸小路のお店ですが、
文具屋さんにもハングルの表示が
有ります。

対馬を訪れる観光客の70%が
韓国人と言う事が良く判ります。

対馬では韓国人観光客が万引きしたり、
食べ物をお店に持ち込んだりして
市民の評判は良くないそうですが、
お金を落としていってくれるので、
それなりの対応が必要なようです。

街中でも多くの韓国人に出会います。
昔懐かしい床屋さんがありました。
ホテルの近くにある神社で
「池神社」です。

1526年(大永)に宗家14代
宗将盛がこの地に池の屋形を
建てましたが、1528年に
焼失し、金石城に移りました。

屋敷跡に建てられたのが
池神社でこの付近の地名も
今屋敷として残されています。

画面にポインターを置くと
神社の正面をご覧頂けます。
夜の眺めとは異なる
厳原八幡宮神社です。
祭の後の風情です。

藩校・日新館の門です。
元は宗家の中屋敷門だったようです。
車窓からで、正面から撮れませんでした。
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