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御嶽とは、南西諸島に広く分布している「聖地」の総称で斎場御嶽は 琉球開闢伝説にもあらわれる、琉球王国最高の聖地です。 御嶽は、神々が天降りする社として、祝女(ノロ:祭祀を司る神女)によって 神拝行事が行われてきたため、以前は、神女しか入れず、男子禁制の場と されていました。 御嶽の中には、六つのイビ(神域)がありますが、中でも大庫理・寄満・ 三庫理は、いずれも首里城内にある建物や部屋と同じ名前をもっています。 当時の首里城と斎場御嶽との深い関わりを示すものでしょう。 はるかなる琉球王国時代、国家的な祭事には聖なる白砂を 「神の島」といわれる久高島からわざわざ運び入れ、それを御嶽全体に 敷きつめたそうです。その中でも、最も大きな行事が、聞得大君(きこえおおきみ) の就任式である「お新下り(おあらおり)」と言うものだそうです。 今回事前調査なしで訪れたため、ウローカーの入り口が通行禁止で 入れなくなっていました。しかし、国道311号線からは入れたようです。従い、 残念ながら我々はウローカーは見ずじまいでした。 その代わりに、知念岬まで足を延ばしました。 左図の数字は以下の写真の番号です。 |
@ 国道311号線にある案内板です。 御嶽内にある駐車場は利用不可で 国道沿いにある〈かんじゅう駅〉=道の 駅のようなもの=に車を停めて 徒歩で御嶽に向かいました。 |
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A 国道から入ったところにある 案内石です。 知念村商工会建設部会の寄贈です。 |
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B 受付のある緑の館へ向かう途中に 立派な公衆便所がありました。 |
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C 御嶽への入り口に緑の館(左手)が あります。 ここで入場券を購入します。 大人200円でした。 |
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D 御岳への入り口に建っていた 石碑です。 1972年に国の史跡に指定され、 2000年に世界遺産に登録されて います。 |
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E 御門口へ向かう途中に ウローカーへの支道がありました。 道路崩壊で通行禁止となって いました。 従い、ウローカーへは行かなかった のですが、国道から入れる道が 有ったようです。 先達はあらま欲しきものなり、です。 |
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F 御門口です。 やはり豪雨の影響か石畳は 土嚢とシートで覆われていました。 申し訳程度に石畳みが見えて いました。 |
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G 大庫理(ウフグーイ)です。 ここは大広間や一番座という意味を 持った場所で、前面には、磚(せん) の敷かれた祈りの場(ウナー)が あります。 |
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H 大庫理から寄満に向かう途中に このような池があります。 この池は1945年の沖縄戦において 「鉄の暴風」と形容されるほどの 砲撃が行われ砲弾跡が池になった ものです。 終戦後沖縄各地にこのような艦砲穴と 呼ばれる砲弾跡が沢山あったそうですが、殆どは埋められています。 往時の記録としてこの艦砲穴が 池として残されているそうです。 |
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I 石灰岩で出来た岩が通路の 両側に並んでいます。 |
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J 寄満(ユインチ)です。 寄満とは、首里城にある建物と 同じ名前で、王府用語で「台所」を 意味しますが、貿易の盛んであった 当時の琉球では、世界中から交易品の 集まる「豊穣の満ち満ちた所」 と解釈されています。 岩は石灰石で鍾乳石が垂れています。 何となく聖なる場所を感じさせます。 |
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K 三庫理(サングーイ)です。 二本の岩で造られた三角形の 空間の突き当たり部分は拝所と なっています。 この部分が三庫理です。 この洞門は約1万5千年前に起った 地震の断層のズレから出来たと 言われているそうです。 また、東側には海の彼方に 久高島を望むことができます。 |
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ここの岩からは現在も水滴が 落ちており、聖なる水と称され 手で触れることは禁じられています。 下にある壺にぽたぽたと水滴が 落ちています。 画面にポインターを置くと 壺の状態をご覧いただけます。 |
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岩と岩の隙間がトンネルに なっています。 この奥が拝所になっています。 |
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久高島遥拝所です。 ここから聖なる島久高島に向かって 拝礼が行われていました、 |
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沖に見えるのが久高島です。 | |
L がんじゅう駅・南城です。 ここに駐車してセイファーウタキへ 行きました。 道の駅のようなものですが、 体験イベントなどもあるようです。 |
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