沖縄県
  南部地区  中・北部地区  八重山諸島  九州の風景  日本の風景  トップページ

 2019年の沖縄

沖縄県は363の島からなる県で県庁所在地は那覇市です。
日本の西南部にあり、琉球諸島をメインとし、大東諸島や尖閣諸島を含みます。
太平洋戦争の後米国に占領され、1972年の返還まで27年間にわたり
米軍の施政下にありました。
その時の軍事基地はそのまま日米安全保障条約の下に残されています。
終戦間近の日米交戦に巻き込まれた沖縄一般の人達の思いが如何なるものか
遺跡を回ると何となく偲ばれはしますが、実際のところは我々の想像を超えるもの
だろうと思われます。
沖縄の文化には中国の色彩が強く残っているのが印象的です。
中国・台湾からの観光客が非常に多いですが、彼らは沖縄に来て何を感じて帰るの
でしょうか。

1963年に沖縄へ行きましたが、その際には総理府発行の身分証明書が必要であり、
現地使用通貨は米ドル(当時のレートは1ドル360円)でした。
その時は沖縄本島と宮古島にも足を運びました。

2014年6月に50年ぶりに沖縄を訪問し、その変貌ぶりに驚きましたが、以前の状態が
どの様であったかは記憶が薄れており、街中を歩いても50年前との比較は
できませんでした。

3泊4日のスケジュールで名護市より北部を除く地域を回ってきました。
50年前は国際通りの民宿に宿泊しました。この民宿にはTBSから橋田寿賀子さんも
来ており、観光には同じマイクロバスで自分の両親共々回ったものです。
当時の橋田さんは新鋭の脚本家として世に出られた頃だったと思います。
その後のご活躍ぶりを見るにつけ沖縄時代を思い出します。

2013年秋に八重山群島へ行く予定を直前でツアーキャンセルしましたが、
2014年秋に再度八重山諸島を2泊3日で訪問しました。
2019年1月にホエールウオッチングをメインに再び沖縄を訪れました。2019年の沖縄

沖縄南部地区
沖縄県を南部、中部、北部に分けると正式には判りませんが、浦添市より南が南部地区、
宜野湾市から宜野座村辺りまでが中部地区、名護市より北が北部となるでしょう。
南部は一日目と二日目半日で回りました。
太平洋戦争の沖縄戦では最も激しい戦闘が行われたのが南部地区です。
旧海軍司令部跡は防空壕の中にあり、往時の姿を再現しています。
太田司令官が本部へ発信した「沖縄県民斯く戦えり」と言う電信原稿が
残されており、県民の犠牲の上に沖縄戦が継続できたことを示しています。

男性は勿論、女学生が看護師として戦線に引っ張り出され、多くの犠牲者を
出しました。南部地区にはそうした犠牲者を祀る慰霊碑があちこちに建てられています。
その中でも有名なのは「ひめゆりの塔」です。

ひめゆりの塔の近くには平和祈念公園があり、平和祈念堂や平和祈念資料館なども
有ります。

今回は空港から旧海軍司令部跡〜ひめゆりの塔〜平和祈念公園〜奥武島〜
斎場御嶽(せいふぁーうたき)〜知念岬〜那覇(沖縄ホテル)と回り、夕食を国際通り
近くのお店で摂りました。

南部海岸沿いを一回りしたことになります。
機上から見た沖縄南部地方です。

左の先に見える陸地が少し凹んだ
部分にある島は奥武島、その先に
平和祈念公園があります。
右手の湾は中城湾です。
半島部分は城南市になります。
半島の左先端が知念岬です。

正面奥が那覇市になります。

那覇空港です。

一部は航空自衛隊との共用部分も
有ります。
到着後旧海軍司令部壕に
向かう途中でまずは腹ごしらえ。

沖縄そばを食べました。
そばと言うよりうどんですが、
なかなか美味でした。
これ大盛りで500円。
見た目以上に量が多く、完食
出来ませんでした。
旧海軍司令部壕のある地域は
海軍壕公園となっています。

これはその中にある海軍戦没者
慰霊塔です。
海軍壕公園のビジターセンターです。
この中に旧海軍司令部壕の
入口が有ります。

入口を入る前に展示室があり、
当時の状況を示す資料が
みられます。
司令部壕への入り口です。
壕内の案内板です。
オレンジの部分が見学可能です。

陸軍病院の壕に比べると
しっかりした造りになっています。

海軍司令部壕の出口です。
壕内の様子は下記ボタンから
お入り頂けます。

海軍司令部跡
糸満市にあるひめゆりの塔への
入口です。
ひめゆりの塔です。

奥の塔には犠牲になった
女子学生の名前が刻まれています。

手前の穴は陸軍病院の有った
壕です。
ひめゆりの塔に附設されている
資料館です。
内部は写真撮影が禁止になって
います。
当時の陸軍病院の壕の模型や、
看護師として徴集された女子学生の
生活状況や働き振りなども
写真やビデオなどで説明されて
います。
資料館のそばにある井伊文子の
歌碑です。
「うらみても なおうらみても
かぎりなし ひめゆりの塔は
うごきてぞ見ゆ」と刻まれています。

ひめゆりの塔の東寄りにある
平和祈念公園です。

駐車場前のガジュマルが
大変立派でした。
この奥が公園になっています。
公園の中心部、式典広場の
南側にある平和の丘です。
上の画面の反対側(北側)にある
エントランス広場と時計塔です。
その奥に沖縄平和祈念堂が建っています。
式典広場の奥、海沿いに作られた
平和の礎(いしじ)です。
軍人、民間人、国別を問わず、
沖縄戦などでなくなった方すべての
名前を刻み、世界の恒久平和を
祈念して作られています。
1995年6月の建立です。
沖縄県平和祈念資料館です。
資料館は、戦争の犠牲になった多くの
霊を弔い、沖縄戦の歴史的教訓を
正しく次代に伝え、全世界の人びとに
沖縄のこころを訴え、もって恒久平和の
樹立に寄与するため、沖縄県民個々の
戦争体験を結集して、1974年に設立
されました。

当初の資料館は2000年3月に一旦閉館し、
現在の資料館は2000年4月に新館
として再開されました。

画面にポインターを置くと資料館の
屋根の並びをご覧いただけます。

平和祈念堂からの眺めです。
左手が平和の礎で、その奥の丘は
摩文仁の丘で沖縄戦で最も激戦と
なった地域です。ここには国立戦没者墓地
が作られ、全国各県の塔が建っています。


平和祈念公園の詳細は下記のボタンから
お入り頂けます。

平和祈念公園
南部沖縄には天ぷら屋さんが
けっこう沢山あります。

海産物の普通の天ぷらです。

ここは奥武島(おうじま)の
中本鮮魚店の営む天ぷら屋さんで
連日行列ができるそうです。
我々も天ぷらを買って食べました。


ポインターを画面に置くと
お店の全景がご覧いただけます。
奥武島の北側です。
右手は本島になります。
砂浜が遊泳場になっています。
砂が細かく、水が綺麗でした。
南城市知念にある
がんじゅう駅・南城にいたシーサーです。
石造りですが愛嬌のある顔を
しています。

ここに車を置いて斎場御嶽まで
歩いてゆきました。
駐車場から徒歩8分位の場所に
斎場御嶽(セーファウタキ)が
有ります。

世界遺産に登録されています。

15世紀-16世紀の琉球王国・尚真王
時代の御嶽であるとされています。
「せーふぁ」は「最高位」を意味し、
「斎場御嶽」は「最高の御嶽」との意味
となります。
御嶽とは、南西諸島に広く分布している
「聖地」の総称で斎場御嶽は琉球開闢
伝説にもあらわれる、琉球王国最高の
聖地だそうです。
御嶽の周辺部は沖縄戦でも
戦火を逃れ、自然の植物相が
残っている地域だそうです。

石灰石の岩が並んでおり、
何となく神聖さを感じさせます。
鍾乳石(寄満:ユインチ)と
もう一つの岩で三角の隙間が
作られています。

この三角の奥が三庫理(サングーイ)
と呼ばれ、三つの拝所が
有ります。
岩の間はご覧のように結構
広くなっています。
鍾乳石からは今も水が滴り落ちて
下にある壺に溜まっています。
この水は聖水とされ左の壺は
「シキョダユルアマガヌピー」と称し、
右の壺は「アマダユルアシカヌピー」と
呼ぶそうです。詳しい意味は不詳です。

御嶽(ウタキ)から眺めた
海岸です。
奥に見える島はクマカ島です。

斎場御嶽の詳細は下記ボタンから
お入り頂けます。

斎場御嶽
南東端にある知念岬公園です。
石灰系の岩石が多いためか
海岸にある岩の下は波で
削られていました。

海岸線はサンゴ礁の様相を
しています。
公園内にある四阿とモニュメントです。

モニュメントには「宇宙軸より無限の
記憶」と記されていました。


ポインターを画面に置くと
モニュメントの拡大図が
ご覧いただけます。
夕やみ迫る那覇市国際通りです。
沖縄随一の繁華街と言われます。

色々な店が並び、人通りも多いです。
ただ、車両の通行量は意外に少ない
ようです。土曜日の為でしょうか。
通りにはこんな大きなシーサーも
置かれています。
テラスではイベントが行われる
様で、準備中でした。
那覇市第一牧志公設市場です。
大きな公設市場で鮮魚、野菜、
果物、被服品、土産物などなど
いろいろ販売していました。

この日はこの市場の中にある
食堂で夕食を摂りました。

市場の中にある「次郎坊」という
沖縄料理の店で色々な沖縄料理を
食べました。どれも美味でした。

沖縄料理の数々は下のボタンから
ご覧いただけます。

沖縄料理
翌朝はやや天候不良。

泊まったホテル「沖縄ホテル」の
入口ゲートです。
門の向こうが大通りです。

画面にポインターを置くと
門を入ってホテルの入り口までの
様子をご覧いただけます。
裏画面の左手が玄関です。
那覇と言えば首里城跡でしょう。

50年前に訪れた時はまだ琉球大学の
校内で、この守礼門だけが残って
いました。

その他の建物は殆どがその後
修復されたものです。
この石門は琉球王府の時代から
残っているもので、世界遺産に
登録されています。

守礼門から本殿へ向かう途中に
有ります。
本殿までには幾つかの門を
通り抜けてきますが、これが
最後から二つ目の門で
「漏刻門」と称します。
最後は広福門です。

石垣なども相当部分が修復
されたものです。
本殿への入り口「奉神」門です。
開門は8時30分からで、開門に
先立ち開門の儀式が行われます。

右手に見えるのは首里森御嶽
(すいむいうたき)です。
礼拝所の一つですが、琉球最古の
歌謡集にも数多く読まれています。
神話では「神が作られて聖地である」
と記されているそうです。
8時30分ちょうどにドラの音とともに
門が開かれます。
奉神門を入ったところは前庭に
なっています。
役人が整列するためでしょうか、
赤と白のラインが引かれたように
なっています。
門への通りはなぜか少し斜めに
なっています。直線ではありません。
本堂内の玉座です。

時間とともに人が増えてきます。
我々が見学を終えたころに中国人の
団体客が何グループも入ってきました。
この門は歓会門です。守礼門から
來るとこの門の前に出ます。

首里城の詳細は下記のボタンから
お入り頂けます。

首里城
首里城の後は「嘉数(かかず)高台
公園」を訪れ、高台から
普天間基地の状況を眺めました。
生憎の雨で普天間米軍滑走路は
殆ど見通すことができませんでした。
滑走路の周辺はこのように多くの
民間人の建物が並んでいます。

以前に事故の有ったのもこの辺りの
様です。

ポインターを画面に置くと
公園にあった普天間基地の
航空写真をご覧いただけます。
公園の周囲は立派なガジュマルで
取り囲まれていました。
米軍嘉手納基地のそばを通り
読谷村から恩納村へ入ったところに
琉球村というテーマパークが有ります。
昔の沖縄の生活や文化の紹介を
しています。

今回、沖縄を訪問して、50年前の
印象とはほとんど合致しない状態
でしたが、ここへきてやっと50年前の
沖縄を思い出すことが出来ました。

島袋家の旧居を移築したものです。
がっちりした瓦屋根を木造の柱と
板壁が支えています。
風の通りはよく、台風などでも
倒壊しないように作られています。

奥に見えるのは高倉でコメなどの
貯蔵用です。
これと同じ倉を実家の工場の庭に
沖縄、奄美の人達が作ってくれました。
残念ながら吹替え用の藁がなく、
現在はありません。

琉球村の詳細は
下記ボタンからお入り頂けます。

琉球村

琉球村から辺野古方面へ向かう途中
恩納村にあった「水車屋」と言う店で
沖縄そばを食べました。これは野菜そば
です。そーきと野菜、卵が一杯で
ボリューム満点でした。


お店はなんか面白いところで、
正面奥の両側に座敷が有り、
左手幕の奥はテーブル席で、
右手の奥にはテラス風?席も
あります。

看板に「おんなのサカイ・・・?」と
有りますが、何のことかと問うと
「恩納と山田の境目に店があるから
おんなのサカイ」なんだそうです。

亭主と雇のおばさん二人で
料理と配膳とショーをやってるので
少しこんだときはそばが出るまで
時間がかかります。
水車屋の亭主です。
自分でバンジーブランコなるものを
作って、食事をした希望者に乗せて
いるようです。
乗らない客には自分が乗って三線の
弾歌を披露してくれます。

このブランコをロープで10m位
引き上げて、ロープを解くと
一気にブランコが揺れると言う訳です。

チョット乗る気にはなれませんでした。
下図はブランコが揺れた状態です。

辺野古の米軍基地です。

この辺の海は誠にきれいな海で
実際にここに立つと、この海を
埋め立てるんかと言う気になります。
政治とは別次元での気分です。
米軍基地の横から辺野古湾を
眺めています。
前の建物は全て米軍の物です。
基地の対岸から眺める辺野古湾です。
綺麗な砂浜が続いていました。
       ページトップ(南部)  中・北部地区  2019年の沖縄  九州の風景    日本の風景   トップページ