中部・北部地区
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沖縄本島の中部地区は宜野湾市から宜野座村、
北部は名護市から国頭村に区分しました。
中部地区は米軍基地の町となっており、南寄りには
普天間基地、嘉手納基地が滑走路を有しています。
北寄りにはキャンプシュワブ、キャンプハンセンなど
が有り射爆演習が行われています。

今回は首里城を見学した後、読谷村の琉球村(南部で紹介)を
見て、辺野古へ回り、キャンプシュワブから今帰仁へ
向かい、今帰仁城址を見学後、古宇利大橋を渡り
古宇利島を一周し、名護市内で宿泊、翌日は
美らオーチャードGCでゴルフ、午後はブセナから
万座毛へ出た段階で大雨に遭い、残念ながら観光は
諦めてうるま市のホテルへ。辺野古からホテルまでは
運転を担当しました。

翌日は幾分天候も回復、仲間は恩納村の沖縄国際CC
でゴルフの連荘。この時間を利用し、中城城跡を見学、
那覇で50年前に我が実家で草木染を研修した人と
再会。彼女は現在沖縄県の紅型の無形文化財に指定
されています。

那覇から一旦ゴルフ場まで仲間を迎えに行き、そのまま
那覇空港へ出ました。沖縄の交通量はそれほど多くなく、
レンタカーでの運転も結構気楽でした。

今回の旅で、沖縄をほぼ一回りしましたが、まだまだ
見きれていないところも多く、次の機会も持ちたいと
思っています。
辺野古
辺野古は普天間米軍基地の移転のための海岸埋め立て問題でクローズアップされた地区です。
米軍のキャンプシュワブが有ります。この辺の海岸はとてもきれいな海です。
政治問題は別にしてこの海は残したいなぁと思わせる場所でした。
辺野古にあるキャンプシュワブ
です。
海沿いの綺麗な場所にあります。

左手に見える鉄柵から右には
入れません。

画面にポインターを置くと
鉄柵の様子もご覧いただけます。
キャンプの外側に
防波堤が続いています。
お宮さんもある島に
繋がっています。
道路沿いにキャンプの
しきりが有ります。

画面にポインターを置くと
入口から先の様子が
ご覧いただけます。
基地のそばから海岸を
眺めています。
手前は米軍施設です。

海の向こうに見えるのは
大浦湾と安部岬及び安部オール
です。
大浦湾の辺野古岬の反対側から
キャンプシュワブを眺めています。

この辺は綺麗な砂浜で
海水浴場にもなるのでしょう。

埋め立てられるのはどの辺かは
確認できませんでした。
対岸から眺める
キャンプシュワブの建物と
左端は辺野古岬です。
今帰仁城跡 なきじんじょうし
今帰仁城はその歴史が13世紀にまで遡るそうです。中国の史書にも琉球国山北王が
登場します。この頃沖縄本島は北山、中山、南山がそれぞれ支配しており、三山鼎立の
時代でした。北山王は北部を中心に支配し、中国とも貿易をしていましたが、1416年に
中部を支配していた中山の尚巴志(しょうはし)に滅ぼされました。城はその後も中山の
監守の居城として利用されていたのが、1609年薩摩軍の侵攻により炎上し、その後は
拝所となったようです。
 今帰仁城跡の大隅の外側です。尤も堅牢な城郭が作られています。右手の方は正門の平郎門へと続いています。
城跡へ入ったところに
全体を鳥瞰出来る模型が
展示してありました。
左手に見えるのが外郭の
一部です。外郭は2m程度の
高さの石垣が組まれて長く
続いています。

正面は大隅を囲む城壁です。

石垣の石はこの近辺で採石
可能な石灰石のようです。

数万~数十万年前のサンゴ礁から
出来た琉球石灰岩が主として
石垣に利用されていますが、中には
4億年前の岩も使われ、石によっては
アンモナイトの化石が含まれて
いるそうです。
史跡であり、世界遺産にも登録
されています。

ここから城内に入ります。
正門の平郎門の裏側です。

正面は入り口が一つで
両側の部屋は小さい窓が
作られており、敵襲に備えた
物だろうと思われます。

志慶真門郭です。ここは城主に
仕えていた人々が住んでいた
場所のようです。
発掘調査で4つの建物があったことが
判明しています。

城跡の詳細は下記のボタンから
お入り頂けます。

今帰仁城跡
古宇利島
古宇利島はほぼ円形の隆起サンゴ礁の島です。今帰仁村に属しています。周囲は約8km程の島で、
ここには琉球人発祥の神話が残されています。産業は農業と漁業でウニ漁が有名だそうです。
往きの航空機から見た
古宇利島です(右端)。

左の三角の島は屋我地島です。
右上の島は伊江島です。ここには
空港もあります。

古宇利島と屋我地島の間に
架かる橋は古宇利大橋です。

屋我地島と本島を結ぶ橋は
南と西に一本づつあり、西の橋は
ワルミ大橋、南の橋は羽地奥武橋と
呼ばれています。

正面中央部は今帰仁村(なきじんそん)
です。

画面にポインターを置くと上記の
位置関係が判ります。
古宇利島と島に架かる
古宇利大橋です。約2kmあります。
2005年2月に完成しました。
橋のふもとは砂地の海水浴場に
なっていました。

渡橋と島の周遊は運転中の為
写真の記録はありません。
古宇利島の東端に
白亜のオーシャンタワーが
建っています。
入場料は800円と言うことで
外観のみの参観です。

島の周りを海沿いに一周して
戻ってきました。
屋我地島サイドにはこのような
四阿も設けられており、
移動販売車なども居ます。

古宇利島から眺めた
古宇利大橋です。

対岸は屋我地島です。
海の色はコバルトブルーです。
古宇利島から見た本島方面の
眺望です。
左手に少し見えるのはワルミ大橋
です。

右手は今帰仁村にある
リゾートホテルです。
海水浴場になっています。
名護市
名護市は人口6万人強で面積は210㎢で沖縄本島では最大の市です。沖縄サミットが開かれた場所です。
ここは徳田球一の生まれ故郷で市内には石碑も建てられています。因みに女子プロゴルファーの
諸見里しのぶも名護市の出身です。
ヒンプンガジュマルと呼ばれる
ガジュマルの巨木です。
樹齢は約300年で、高さ19m、
気根を含めた幹回り10m、
枝の広がり30mあります。
1997年に国の天然記念物に
指定されています。

ヒンプンとは沖縄の家の門と玄関の
間に置かれるヒンプンシー(屏風石)
から来ているそうです。

画面にポインターを置くと
反対方向からもご覧いただけます。
ガジュマルの下にある石碑も
ご覧いただけます。これが名前の
由来だそうです。
名護市を流れる幸地川です。
ヒンプンガジュマルはこの川に
架かる橋のそばにあります。
幸地川に架かる「あなだ橋」です。
この橋のそば(画面右側)に
ガジュマルが植わっています。
名護市ではこの橋とガジュマルへの
影響も調べたようで、問題なしと
判断されています。

ヒンプンガジュマルのそばにある
ガジュマル緑地のガジュマルです。
これも結構立派に茂っています。

ここには幾つかの碑があります。
そのうちの一つに徳田球一の
石碑が有りました。
彼が沖縄の出身と言うことを
初めて知りました。

この十字路の近くが出生地だ
そうです。
2000年7月の「九州・沖縄サミット」
の会場になった場所です。
ブセナリゾートの中にあります。

G8の首脳陣が集まった当時の
資料なども展示されています。

現在は有料の施設になって
いますが、利用者がなければ
無料で館内を見学できます。
サミットホールへの入り口です。
当時のサミットを誘致し、準備した
小渕恵三の銅像です。
2000年5月、サミット直前に
脳こうそくで逝去されました。
沖縄政策に力を入れたこともあり、
沖縄の人の手により銅像も
建てられました。
サミットホールです。
劇場スタイルなら500席の会合が
開けます。円卓では23卓(230名)の
設置が可能です。
万国津梁館で最大のホールです。
オーシャンホールです。
劇場スタイルなら340席、
円卓なら16卓(160名)の
設置が可能です。
ガラス張りの廊下からは
海が良く見えます。
左手が貴賓室です。
庭に面しており、少人数の
会合に利用可能です。
この日は若いお二人が結婚式の
写真撮影をしていました。

沖縄風の結婚衣装です。
万座毛の方向を眺めています。
曇っていて海の色が少し
鈍色でしたが、晴れた日にはおそらく
素晴らしい眺望が得られるのでしょう。
美ら・オーチャードゴルフ倶楽部
沖縄中部の恩納村にあるゴルフ場で
かっては大京オープンの舞台にも
なりました。
南の国らしいエントランスです。
玄関です。
スタートホールのそばにある
9番ホールのグリーンです。
殆どが砲台グリーンでかつ固く
殆どボールが止まりませんでした。
海へ向かって打つのは
気持ちのいいものです。
飛んでくれればの話ですが…
距離はそれ程ありませんが、
フェアウェイが凸凹で
結構トリッキーです。

トータルスコアはともかく、
完走出来たからいいとしましょう。
脊柱管狭窄症を抱えてのゴルフは
やはり厳しいものがあります。
ゴルフの後津梁館へ行き、
万座毛へと向ったら大雨で、
車から降りることも叶わず、
そのままホテルへ直行。

うるま市の街中にある
ホテルハーバーへ。

このホテルは玄関で靴を脱ぎ、
スリッパで部屋へ行くスタイル。

いや懐かしい限り。

前夜の深酒に懲りてかこの日の
酒量はボトル1本で終わりました。
中城城跡
城の創始は明らかになっていませんが、14世紀後半ころまでに主要部分が築き上げられたと思われます。
1458年に当時の城主護佐丸が自害して城も滅びました。沖縄のグスクの中でも遺構が良く残っていることで
知られています。今回は雨の後の早朝でガスが濃く、写真写りはよくありませんでした。
中城城跡へ向かう途中に
中村家旧居が有りました。

沖縄の豪農、中村家が一般公開
されていますが、時間が早くて
内部は見られませんでした。
外観だけ覗いてきました。

住宅は江戸時から明治時代にかけ
建てられたもので、国の重文に
指定されています。

写真は玄関とヒンプン(屏風)です。
玄関に門がなく、ヒンプンで屋敷内が
見通せないようにされています。
ヒンプン越しに眺めるウフヤ(母屋)
です。
屋根にはシーサーが鎮座しており、
屋根は赤い瓦で葺かれて漆喰で
とめられています。

左に見えるのは高倉です。
画面にポインターを置くと
高倉がご覧いただけます。
(拝借画面です)

右の写真は玄関の右寄りの眺めで、
入り口の門とその奥に離れ(アシャギ)
が見えています。

左の写真は玄関の左寄りの眺めで、
手前に高倉、奥に家畜小屋、
その間に井戸(カー)が見えます。
中城城跡へ入ったところにある
案内板です。2000年12月に
世界遺産に登録されています。

画面の左が入り口です。

城の正門は右端になります。

右から一の郭、二の郭、三の郭
と並んでいます。
今帰仁城の配列とは異なります。
広場にある世界遺産登録の石柱です。

霧が深くて全容を眺めるのが
難しい状態でした。

正面の高い石組みは三の郭の
外壁となります。
城郭の裏門です。
三の郭の石組みです。
二の郭と一の郭を隔てる石組みで
手前が二の郭になります。
城郭の正門です。
ここに中城城跡の石碑が
建っています。
城郭から眺めた中城湾です。

中城城跡の詳細は下記ボタンから
お入り頂けます。

中城城跡
紅型
紅型とは沖縄を代表する伝統的染色技法です。独特の色合いと模様が描かれます。
50年ほど前に実家の草木染研究所に沖縄首里高校の工芸科を卒業した女性数人が研修の為数年留学しました。
そのうちの一人が伝統工芸を継承し、沖縄県の無形文化財に指定されました。
今回訪問の機会に50年ぶりにお会いしてきました。
びん型技術者 西平幸子さんと
工房(看板の右手)及び展示場です。

西平さんは東日本大震災の救援
ボランティアの一環として、作品の
提供をされているそうです。
この行為は現在も継続されています。
展示場に並ぶ西平さんの作品の
一部です。
着尺は草木染の技法も
活かされているように感じました。
この日はたまたまご自身の蒐集された
沖縄陶器の展示会でした。

幼いころから陶器に興味があり、
良いものはいつまで見ていても
飽きなかったそうです。

壁の作品は西平さんのものです。
人間国宝金城次郎氏(1912~2004)
の作品で魚の紋様に特徴があります。

下に敷かれているのは西平さんの
作品です。
島常賀氏(1903~94)作の
壺焼きシーサーです。
島さんは沖縄でのシーサー作りの
第一人者です。

この下に敷かれている紅型も
西平さんの作品です。
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