由布島
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パンフレットによれば、「かっての由布島は、竹富島や黒島から移り住んだ人々で栄えて
いました。その頃、農業用として活躍したのが「水牛」で、1932年(昭和7)ころ、台湾の
開拓民と共に島へ渡ってきました。1955年(昭和30)頃には各家庭に1頭の水牛が
飼われるまでに島が栄えました。ところが、1969年(昭和44)のエルシ―台風で大きな
被害を受け、島民のほとんどが西表島の美原地区へ移って行きました。
そんな中、故西表正和おじい夫妻が島に残り、「島をパラダイスガーデンへ」のロマンを
描きながら、1頭の水牛で土やたい肥を運び、ヤシや花を植え続け、手造りの楽園を
作り上げました」と書かれています。

水牛車の御者のおじいの話では、台風で島が一旦水没したそうです。その後、夫妻が2頭の
水牛で島の回復と観光客の受け入れを始め、コツコツと今の状態まで持って来て、現在
年間30万人以上の観光客が来訪するようになったとの事です。

美原の水牛車乗り場から水牛車でのんびりと島へ渡り(所要15分ほど)、島内を徒歩で
ゆっくり回っても1時間もあれば、ほぼすべてを見て回れるほどの大きさです。
水牛車は美原から9時〜16時15分まで30分おきにあります。島からも10時〜17時まで
30分毎にあります。我々は最終の17時の水牛車で戻りました。
水牛は美原と島の両方に飼育小屋があり、現在40頭ほどいるようです。

干潮時には島まで歩いて渡れる程度の水深で、島の従業員は歩いて往復していました。
西表島の美原からこの様な水牛車で
由布島へ渡ります。

この日はあいにくの激しい雨で、視界は
良くありません。
雨除けのフードで囲まれるので外が
見難い状態です。

牛にはそれぞれ名前が付いています。
雨の中を観光する他のグループも
いました。
干潮時の水深はこんなものです。
水牛車の中では御者のおじいが
三線で演奏してくれます。
天井には沖縄民謡の数々が貼られでおり、
それを見ながらの車中の大合唱と
なります。
島には水牛の碑が立っています。
「由布島を繁栄させし 大五郎 花子を
始祖とする 水牛一家に対し 感謝の碑を
建立する。 2001年10月」という碑文が
書かれています。

大五郎、花子の2頭からスタートした
油布島の水牛が40頭にまで増えて
いるわけです。
タコノキ科のアダンの実です。
食用にはなりません。
実を付けるのは雌の木で、雄の木が
花を付けるそうです。

画面にポインターを置くと
タコノキの謂れである根っこの部分が
ご覧いただけます。
ヤシの林とブーゲンビリア。
まさに南国の雰囲気一杯です。
昔は小中学校もありました。
ここはその学校の校門跡です。

ヤシの並木の中を登校する小学生の
姿が見えるようです。

画面にポインターを置くと
この学校の変遷を記した看板を
ご覧いただけます。
人口が多かったころに使われていた
井戸跡です。
貝の館があり、色々な貝殻が並んでいます。
貝の館の先にはマンタの浜が有ります。
この辺りはヨナラ水道と呼ばれ
マンタが出没する海だそうです。

海岸にマンタの像が有りました。

(対岸の小浜島細崎にもマンタの像が
ありましたよね)
マンタの浜です。

左手には小浜島が見えるのですが、
お天気が悪くて撮れませんでした。

画面にポインターを置くと
ヨナラ水道の先に薄らと小浜島の
大岳(うふだき)が見られます。
島内にあるハスノハギリです。
葉っぱがハスの葉に似ていることから
付けられた名前で、八重山諸島では
良く見かけられる木です。
工芸用に使われるようです。
常緑樹で樹高は20mほどになります。
ブーゲンビリア・ガーデンです。
ガーデンと名付けられているので
てっきり広々とした庭に咲き乱れて
いるのかと思ったら、温室内に
鉢植えが並んでいてちょっとがっかり。
島の入り口から一番奥にあるので
時間を気にして来た者にはゆっくり
楽しむ余裕もありませんでした。
島の中ほどにある古い建物の屋上が
展望台になっていました。

お天気の関係で見晴らしはよくありません。
島の南側にあるマングローブ繁殖地です。
木道があり、マングローブの様子を
見られます。
水牛車待合室の前で御者のおじいが
三線の練習をしていました。
おじいと言うにはちょっと若い御者でした。
夕暮れの中、由布島から美原へ戻る
水牛車と従業員の人達です。
この時間では膝までもない水深で
水牛車より歩く方が早いくらいの感じです。
 島内に咲いていた花の幾つかです。 左から縁の白いハイビスカス、中:ハナチョウジ(メキシコ原産)、右:サンダンカ(沖縄3名花の一つ)
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