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1962年8月にリュックを担いで、東北地方を約20日間回りました。 この頃には学割東北周遊券と云うのが有って、出発日から18日間 東北地方域内の国鉄列車、バス、船の普通席に乗り放題でした。 有効期間最終日に東北地方をでれば、途中下車しない限り京都まで 帰りつけました。 郡山駅はこの頃は福島県内では24時間開いている駅で、駅構内で 2泊ほどしました。この間に吾妻山や会津若松、磐梯高原などを回りました。 この時の旅のルートは左図の点線に沿って回っています。 東北地方滞在中は、有料宿泊はユースホステルくらいで、学校の寮や 宿直室、公民館、一般のご家庭などに泊めてもらう旅でした。 下北半島の付け根にあるむつ市では佐々木さんと言うお魚屋さんに 泊めてもらい、朝に食べさせてもらったイカそうめんの美味しさはいまだに 忘れられません。小学校を探していたら、夏休みに学校へ何しに行くのか、 と尋ねられ、一泊したいと言ったら、じゃ、うちに泊ればいいと言う事で、 お世話になりました。町内の盆踊りにも参加しました。 遠野市では公民館に泊めてもらい、館内で行われていた地域の 野球大会の祝勝会に呼んでもらいました。 帰ってから母親が礼品と礼状を送るのが大変だとこぼしていました。 この頃は人情も厚く、見ず知らずの若者に親切でした。 この頃の写真は白黒で、手元に残っていたバラ写真はごく僅かでした ので、多分アルバムになってどこかに保存されていると思われます。 |
この時に利用した周遊券です。 学割用で、裏面に東北域内の 地図と左下に丸に学の印が 付いています。 |
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券面です。 左は東北地方に行く切符です。 右は現地で乗降用の切符です。 途中下車駅で判子を押して 呉れますが、すべての駅では ないのでちょっと残念。 郡山、平泉、大鰐、山寺、休屋の 印が読み取れます。休屋は 国鉄バスの駅です。 |
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有料宿泊は極力ユースホステル を利用しましたが、ない場所も 多いです。 ユースホステルの会員証です。 1961年に会員になり、 山陰、北陸、沖縄、小豆島、 東北、房総・関東の旅で 利用しています。 ユースホステルは基本的には 素泊まりですが、食事の手配を してくれる宿もあります。 外国人と同宿するケースもあり 結構面白かったです。 宿泊すると下記(裏面)に 各宿がスタンプを押してくれます。 旅の記録になります。 |
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左は宿泊スタンプです。 下は東北旅行で宿泊した場所です。 |
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郡山駅に入り、福島県を 回った後に、仙台駅に 着きました。宿泊は広瀬川の 傍に建つ、ユースホステル 「仙台赤門ホステル」でした。 帰りも同じホステルを利用 しました。 青葉城跡や広瀬川の写真が 沢山有った筈ですが、 見当たりません。 |
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仙台駅はちょうど旧暦での 七夕祭りで飾りが沢山 飾ってあります。 街中の商店街では もっと多くの飾りが有ります。 仙台からは松島経由 平泉へ出ました。 松島や瑞巌寺の写真など 有った筈ですが、見当たりません。 |
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仙台から塩釜に出て、 松島遊覧船に乗船し、 松島へ向かいました。 松島湾の「地蔵島」です。 灯台は1918年(大正7)に 建てられたものです。 |
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松島湾内の島です。 この後、松島で上陸し、 瑞巌寺に参拝後、松島駅から 一関へ向かいました。 |
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一関から厳美渓へ行きました。 厳美渓は栗駒山の噴火に よって堆積した凝灰岩が、 磐井川の水流によって浸蝕され、 形成されたもので、奇岩、瀑布、 深淵と様々な表情を見せています。 特に川底には甌穴の発達が 顕著に見られます。 |
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渓流にある甌穴の有る岩が あちこちに見られます。 |
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厳美渓から平泉までは バスで出ました。 裏に日付が有りますが、 37.8.の後が消えています。 8月4日に仙台で宿泊して いますので、多分、8月5日か 6日でしょう。 |
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毛越寺(もうつうじ)は、平泉町 にある天台宗の寺院です。 開山は円仁(慈覚大師)と伝え られています。 往時には堂塔40僧坊500を数え、 中尊寺をしのぐほどの規模と 華麗さであったといわれています。 写真が有りませんが、この寺院の 浄土庭園が素晴らしく、国指定の 「特別史跡」と「特別名勝」の 二つを併せ持っています。 毛越寺の宿坊で泊まらせて 貰った記憶が有ります。 |
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毛越寺境内には芭蕉翁句碑が 立っています。 1689年(元禄2)5月13日、 この地を訪れた芭蕉は、悲運の 義経主従をしのび、次の句を よんでいます。 「夏草や 兵ものどもが 夢の跡」 書は芭蕉直筆と言われています。 |
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中尊寺は850年(嘉祥3)に 慈覚大師円仁によって開かれ、 その後、藤原氏が12世紀初め より、大規模な造営にあたり、 平安仏教美術の宝庫と なっています。 特に、金色堂は中尊寺創建の 時代のままに現在まで保たれて います。 |
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左は金色堂遠景です。 1965年には覆堂が作られ 金色堂を全体に覆って いるようです。 この頃はまだ塗り直しもされず 金色に輝くお堂では 有りませんでした。 右は金色堂を前に記念撮影。 こんな恰好での旅です。 |
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平泉から遠野へ向かう途中で 花巻に寄りました。 此処には宮沢賢治の碑としては 最も古い「雨ニモマケズ」の碑が あります。 宮沢賢治は1926年3月に 花巻農学校を退職し、4月には 宮沢家の別宅のあったこの場所に 移り、独居自炊で農耕生活を はじめ、「羅須地人協会」を 開設して農民に化学・土壌等の 講義をしています。 1936年11月に「雨ニモマケズ」 の後半部が刻まれた詩碑が協会 跡地に立てられました。 この詩碑は高村光太郎の書に よるものだそうです。 此処で東京から自転車で 一人旅している学生と知り合い、 宿泊できる場所など情報交換 しました。彼の情報で 青森では短大の寮に泊れました。 |
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花巻から遠野経由、釜石に出て 国鉄山田線で宮古に出ました。 宮古から浄土ヶ浜に向かい、 陸中海岸を船で見学しました。 遠野では公民館に泊めてもらい 野球の祝勝会に出たのは前述 通りです。 |
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陸中海岸の浄土ヶ浜です。 鋭くとがった白い流紋岩が 林立し、一つ一つ違った表情を 見せています。 松の緑と岩肌の白、海の群青 とのコントラストはまさに一見の 価値ありです。 |
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右寄りに立つ岩は 天然記念物の「ローソク岩」 です。 流紋岩が多いです。 |
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流紋岩で形成された 海岸線は変化が有ります。 潮吹きの穴の辺りと 思いますが、潮は吹いて いないようです。 浄土ヶ浜から宮古へ戻り、 宮古から岩泉町へ出て 龍泉洞へ向かいました。 |
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宮古の北西に岩泉町が あります。 此処には龍泉洞と言う 鍾乳洞が有ります。 龍泉洞は、日本三大鍾乳洞に 数えられ、国の天然記念物に 指定されています。 |
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鍾乳洞内の鍾乳石の様子です。 岩泉から盛岡に出て、岩手大の 同袍寮で泊まらせてもらいました。 |
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盛岡にある岩手大学の 学生寮「同袍寮」に 宿泊させてもらいました。 たまたま、岩泉で一緒になった 一人旅の東京の学生さんと共に 泊りました。 盛岡から八幡平に登り、 鹿角(かづの)へ出て 十和田南から十和田湖へ 向いました。 |
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鹿角(かづの)から十和田湖に 出て奥入瀬渓谷を抜けて 八甲田山に登り、酸ヶ湯に 出ました。 酸ヶ湯は1軒宿で湯治客用に 安い部屋が有りました。 自炊でした。 |
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奥入瀬から八甲田に向かう 途中ではこの学校に 泊らせてもらいました。 現在は廃校になっており、 別の小中学校と合併した 模様です。 若い先生が一緒でした。 |
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学校で宿泊した際の 領収書です。 1泊30円で泊まれました。 この学校に宿泊したあと、 八甲田山に登り、酸ヶ湯に出て 一泊後、青森市の短大の寮に 宿泊、そこからむつ市の 田名部に出て、お魚屋さんに 泊めてもらい、恐山に行きました。 |
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田名部から恐山へ行き、 恐山から再び田名部へ戻った 時のバス切符です。 8月14日です。 |
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青森市から津軽線で三厩に出て、 三厩から竜飛までの バス乗車券です。 1961年8月16日の乗車です。 この辺りの写真が全くありません。 竜飛岬から秋田県大鰐温泉に でて、父の知人の方のお世話で 大鰐温泉に宿泊させて 貰いました。 その後、男鹿半島に行き、 男鹿で一泊後仙台に出ています。 |
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仙台に戻って一泊し、 仙山線で山寺まで出掛けました。 そして、東京に向かいました。 山寺の案内書です。 お寺が日付印を押してくれて いますので、記録になります。 |
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山寺でも沢山写真を撮った 記憶が有りますが、見つかり ません。 この時に、東京から一人で 来ていた東芝の女子社員と 知り合い、その後、上京の折 何度か面倒見てもらいました。 この年の夏の旅行は以上で 終りとなりました。 もっと多くの写真が屋根裏の 物置に眠っていると思われます。 |
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