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新しい旅に出かける機会がなかなかないので、昔の旅を思い起こして、写真の整理をしてみました。 旅は幼いころに父親と食べ物を求めて出歩いたのが最初でしょうか。戦中戦後の食糧難で食料の買い出しに伝手を頼って あちこちへ行く父親に従い、近畿、北陸方面まで出掛けたものです。牛小屋の二階に泊まったこともありました。 生活が落ち着くと、夏休みなどに子供だけで滋賀県や広島県の知り合いの家へ出かけたものです。 高校生のころは、やはり父親が仕事の関係で、展覧会の出展や各地の染色関係者との面会に出かけるときに、写真撮影のために 付いて歩きました。その頃に使用したキャノン7はレンズが0.95と云う明るさで、現在も手元にあります。 大学に入ると、アルバイトの収入をほぼ旅行に投入しました。生来の「気弱さ」「引っ込み思案」「赤面症」がいくらかでもよくなればと、 一人旅に出ました。1961年の夏には山陰道を回り(本当は山陰山陽道を一回りする予定で、周遊券も京都から山陰本線で下関経由 山陽本線で大阪まで戻る切符でしたが、2日目にこの周遊券を紛失して、山陰のみになりました)、秋には北陸の福井、金沢を回り、 能登半島を羽咋から宇出津まで徒歩で一周しました。 1回生後半になったころに新しい運動部の創設に関わり、一人旅もなかなか出来なくなりましたが、それでも翌夏には東北地方を20日間 一人旅しました。部員からブーイングを受けたものです。それでも旅は止められず、1963年の夏には、級友2名を連れて北海道へ テントと寝袋、飯盒持参の貧乏旅行をしました。これが北海道の旅の最初でした。 そのほかにも、房総半島から筑波山への一人旅、この時は筑波山の麓で関東鉄道のストライキで電車が動かず、トラックの運転手さんに 土浦駅まで送ってもらいました。東京へ出たついでに鎌倉江の島なども一人で歩きました。 旅を通じて少しは生来の性格にも変化が出ただろうと思っています。 今回掲載のアルバムから転載している旅の写真は、今の旅の原点だと思います。アルバムの前書きにもあるように、旅が自分を 育ててくれた部分も多々あると思っています。人とのかかわりを大切にすることはその頃の経験です。 この頃は白黒写真しか撮っていませんでした。この旅のアルバムも運動部の活動が忙しくなると、殆ど継続できず、写真だけが残されています。 写真機との出会いは父親が持っていたローライフレックスという2眼レフカメラと蛇腹式ライカでした。父親は結構写真好きで 家族それぞれのアルバムが作られ、添え書きもしっかりされていました。 実際に自分で撮り始めたのは中学の頃で、次兄のカメラを使って色々と撮影し、学校の暗室を利用して焼き付け(プリント)も行いました。 好意を持っている女子だけを拡大して焼き付けたのも懐かしい思い出です。 高校の頃は上述の如く、父親の撮影隊としてあちこちで染色作品や染色現場などを撮影しました。 大学の頃は旅以外でも仲間を写真に撮ったりしていました。 社会人になって、入社2年目で海外出張の際に、父親がオリンパスの一眼レフを贈ってくれました。自分用の初めてのカメラです。 中国ではこのカメラを利用していました。この頃にはハーフサイズと云う36mmフィルムを半分にする撮り方が流行っており、オリンパスも これが可能で、海外ではフィルムが2倍利用出来る(36枚撮りで72枚撮れる)ので重宝したものです。 2002年に初めて中国でデジカメを購入、FujiFinepix4500で結構重宝しました。2代目はNikonCoolpixS8、 3代目がNikonCoolpixS9100で、これは現在使用中です。どのデジカメもすべてコンパクトカメラ(バカチョン)ですが、 それなりの写真が撮れています。特に、CoolpixS8は名刺くらいの大きさで、胸のポケットにも入り、旅ではとても使いやすいカメラでした。 以下、昔の旅の写真を掲載しています。 |
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大学生になり、初めての一人旅が山陰道でした。周遊券では京都から宮津、城崎、鳥取、米子、 萩、下関、山口、宮島、広島、倉敷、岡山、姫路、大阪、京都の14日間の旅でしたが、途中で 周遊券を紛失し、結局、米子止まりとなりました。 |
旅のアルバムの1ページ目です。 今思うと、この頃に旅への 好奇心が育まれていたようです。 |
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大学に入学して、自分で計画し、 実行した最初の旅でした。 登山靴と麦藁帽が自分流の スタイルです。 浅津温泉(現羽合温泉)には、 父の知人が経営する旅館が有り、 浪人時代にも時々利用させて もらっていました。 この時、周遊券もなく、所持金も 少なく、やむなく、こちらに お世話になりました。 また米子にいた大学の同級生宅 にも世話になり大山登山などの 拠点にさせてもらいました。 帰宅後、宿には親が費用を 払ってくれました。 色々失敗もありましたが、 実のある9日間でした。 |
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旅の最初は山陰線で玄武洞駅に でて、円山川を手漕ぎ船で渡り、 玄武洞を訪れました。 この時、久美浜から一人で 来ていた女子高生に話しかけ、 彼女の家が旅館をやっていると 言う事で、その後、お世話になる ことが多かったです。 玄武洞は火山の溶岩により 形成された柱状節理の綺麗な 洞窟です。 国の天然記念物になっています。 この日は城崎温泉を散策したのち、 香住で宿泊しました。 |
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玄武洞の様子です。 柱は全て六角形の石を積んだ ようになっており、天井からは 六角形の柱が垂れ下がっている という奇観です。 |
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香住での宿泊は三輪旅館。 現在も残っているかどうかは 不明です。 電話は37番と二桁です。 香住港から遊覧船に乗船し、 日本海から香住海岸を眺めました。 この頃には下段案内書のように 幾つかのコースが有ったようですが、 どのコースに乗船したかは記憶に 有りません。 右上の写真の拡大が下記写真です。 |
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日本海の荒波を想像できる 海岸線です。 |
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香住海岸からは余部の鉄橋も 遠望できます。 明治時代から使用されている 鉄橋で1912年(明治45)に 開通しています。 この鉄橋も2010年には運用が 終了され新しい橋に架け替え られているようです。 右側上の写真には余部の 鉄橋も写っていますが、良く 見えません。 右下の写真は余部の鉄橋からの 日本海の眺めです。 |
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上図左下の写真の拡大です。 メガネ岩と名付けられています。 |
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香住にある大乗寺を訪れました。 江戸中期の画家円山応挙や その一門の画家たちの襖絵 などがたくさんあるので 「応挙寺」の名もあるようです。 撮影できないので、絵葉書を 貼り付けています。 カラ―でないのが残念ですが、 |
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香住駅から山陰線で浜坂へ出ます。 その間に余部の鉄橋を渡ります。 湯村温泉は848年慈覚大師により 発見されたという温泉で、豊かな 自然環境の中にある温泉街です。 ここで宿泊した翌朝に周遊券紛失 に気付き、探したものの見つからず、 結局、友人と約束していた大山 登山のみを目的の旅と変わりました。 そのため、浅津温泉で世話になる ことにしました。 この宿は東郷湖に面し、部屋から 釣も出来て、お気に入りの宿です。 10歳くらい年下の息子さんが後を 継いでいる筈です。 結婚後、家族を連れて行った こともあります。 |
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大学の友人と一緒に大山に 登りました。 友人の実家が米子市に有り、 お母さんが皆生温泉に宿を 取っていてくれたので、 二人で温泉宿に泊りました。 大山では大山寺の傍に有る 「ぶな林」と云う山の家に泊り、 翌朝早くご来光を見るべく、 山頂へ向かいました。 |
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大山寺到着日の付近の景観です。 中央の写真の山は高麗山です。 朝鮮から山比べに来たものの、 大山に圧倒され、山を置き忘れて 帰ったという伝説のある山です。 |
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早朝から登り、大山縦走し、 元谷の砂すべりで下山しました。 縦走路の途中には両側が崖で 僅か数十センチの道を行くところも 有りました。 北壁は岩肌の荒い崖で、南壁は 幾らかなだらかな樹林が続きます。 |
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大山縦走路の景観です。 人がすれ違うのも難しい位の 狭い道が続きます。 |
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元谷の様子です。 写真では平坦に見えますが、 場所によっては20度以上もある 下りになります。 砂利が滑るので、一歩踏み出すと 10歩分くらい滑って行きますので、 結構楽に下れます。 富士山の砂すべりと同じです。 |
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元谷から眺める大山北壁の 全容です。 |
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左は大山最高峰、剣ケ峰頂上 (1729m)の様子です。 右は大山寺です。 |
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下る途中の元谷には万年雪が 有り、シャリシャリの雪が喉を 潤してくれます。 大山を下って米子へ出た後、 再び浅津温泉で泊まり、 鳥取砂丘も見直し、(この時の 写真は写っていなかった) 翌日朝、帰途につきました。 色々な事の有った9日間でした。 |
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