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川越城は、扇谷上杉持朝が1457年(長禄1)に太田道真・道潅父子ら家臣たちに命じて築城させた城です。 当時、持朝は山内上杉房顕と連合し、古河公方足利成氏と北武蔵の派遣を巡って攻防を繰り返していました。 築城は扇谷上杉領の北端の拠点とするためと考えられます。 小田原を拠点に武蔵への進出を図る後北条氏は、1537年(天文6)に川越城を攻め落しました。扇谷上杉は 1546年(天文15)に川越城奪還を図りましたが大敗し、後北条氏の北武蔵支配が強まりました。 1590年(天正18)に豊臣秀吉の関東攻略に際し、川越城は前田利家らに攻められ降伏しました。 同年に徳川家康が江戸城に入ると、江戸に近い川越城に重臣酒井重忠を置き、その後も幕府の有力な大名が 川越領を持ちました。 1639年(寛永16)に川越城主となった松平信綱は川越城の拡張整備を行い、本丸・二の丸・三の丸・追手曲輪・ 新曲輪などの各曲輪、3つの櫓、13の門からなる総面積約9万9千坪(約32.6万u)の規模を持つ巨大な城郭に なりました。 明治になると、本丸御殿をはじめとする多くの建物は移築・解体されましたが、1871年(明治4)の廃藩置県により 川越に県庁がおかれ、本丸御殿の玄関と広間部分はその庁舎として利用されました。 埼玉県が出来ると県庁は移転し、本丸御殿は入間郡公会所になり、更に1918年(大正8)には専売局川越分工場として タバコ工場になりました。 1933年(昭和8)には「初雁武徳殿」として武道場になり、戦後は市立第二中学校の仮校舎・屋内運動場として使われ、 その後再び武道場になりました。 1967年(昭和42)に川越城本丸御殿としての大修理を行い、屋根の修理、間取りの復元を実施し、県指定の文化財として 一般公開されました。 さらに、1988年(昭和63)に家老詰所の建物がふじみ野市に移設されていたのを川越市に戻し、現在地に再建しました。 家老詰所の現在の場所は元の場所とは異なる位置に移設されています。家老詰所も1991年(平成3)に県指定の 有形文化財になっています。 (参考:川越城本丸御殿パンフレット) |
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川越城本丸御殿の見取り図です。 @は玄関です。以下の写真に同じ番号を付けています。 Aは広間です。36畳あります。来客が城主のお出ましまで待機した部屋です。 Bは廊下です。部屋の仕切りには杉戸が使われています。 Cは大書院がこの南側にあったことを表わす痕跡が残されています。 Dは大廊下の跡で、創建当初の家老詰所はこの廊下の西端に有ったようです。 Eの明治棟は明治初期に建てられたものと考えられています。庁舎として 利用されていた際に使われていたと思われます。 Fは家老詰所です。建物は明治初期に解体され現ふじみ野市の商家に移築されて いましたが、1987年(昭和62)に川越市に寄贈され、今の所に移築されました。 G家老詰所の便所は建物の内部に設置されていました。 H中ノ口は北からの玄関口です。@に比べると一回り小さい玄関になっています。 I中庭です。 |
光西寺に残されていた本丸御殿の図面です。 赤枠が現在残されている部分で、上の赤枠は 家老詰所の元の場所です。 夫々の棟は廊下で繋がっています。 下段の赤枠の左が書院です。 |
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@本丸御殿の玄関です。 巨大な唐破風屋根に間口3間の広い 開口部と8寸角の太い柱が石高17万石の 大名御殿に相応しい威容を示しています。 |
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A玄関を入った所にある広間です。 36畳あり、現在は展示品も置かれています。 丁度小学生の見学会に遭遇し、大変賑やかでした。 天井には屋内運動場として使われていた時の 痕跡として、ボールの跡が残っています。 画面にポインターを置くと ボールの痕跡をご覧いただけます。 |
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B南へ向かう廊下です。 |
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F家老詰所の南面です。 | |
家老詰所から見る庭園です。 | |
家老詰所の西奥の部屋には この様な人形が展示され、 当時の談合の様子を示していました。 |
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G家老詰所の便所の部分です。 汲み取り口の有るのが懐かしい眺めです。 |
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I左の白壁は家老詰所の建物です。 右の建物は坊主部屋の一部です。 広間のある建物との間の中庭です。 |
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B広間の西側の廊下です。 |
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