その2
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エジプトには2005年の2月下旬から3月はじめに行きました。3月を過ぎると砂嵐が起こるためです。
直行便で成田〜カイロが往路で15時間、復路は13時間弱でした。
主な旅程は成田〜カイロ(泊)〜ギザ(泊)〜カイロ(泊)〜アスワン〜アブシンベル(泊)〜アスワン〜
ナイルクルーズ(3泊)〜コムオンポ〜エドフ〜エスナ〜ルクソール(下船)〜カイロ(泊)〜機内泊〜帰国の
9泊10日の旅でした。
砂漠ではめったに遭遇しない雨にも降られ、それ以外の場所は好天に恵まれ、旅としてはまずまずでした。
2020年初めから世界的に広がった新コロナ禍による自宅待機の時間に古いページで不十分なものを
適宜更新している過程でこのエジプトも一部補追する形で作製しています。元のページと重複する部分もあります。
ただ、探しても古いアルバムが見つかりません。従い、元のページと同じ写真が殆どとなります。
正式名は「エジプトアラブ共和国(Arab Republic Egypt)」で
アフリカ大陸の北部に位置しています。アフリカ大陸にありますが、
中東地区に入れらるケースが多いです。
首都はカイロで、人口は約1億人です。

南北に流れるナイル川の河谷とデルタ地帯のほかは、国土の
大部分の95%以上が砂漠地帯となっています。
ナイル河口の東に地中海と紅海を結ぶスエズ運河があります。

5千年の時を超えて、今もなお巨大な遺跡の数々が存在する国で
古代のロマンが凝縮された国と言えるでしょう。


エジプトの国旗です。
カイロからギザへ
2005年2月21日(月)に成田からエジプト航空直行便でカイロへ飛びました。
その日はカイロの「ピラミッドパーク・インターコンチネンタル・ホテル」に宿泊、翌日午前中に
ギザへ向かい、ピラミッド観光後、バハレイア・オアシスへ向かい、そこで宿泊しました。
エジプトと言えば「ピラミッド」と
「スフインクス」ですねぇ。

2日目朝からギザ地区へ向かい、
ピラミッド観光です。

スフインクスの奥は「カフラー王ピラミッド」
左手奥は「メンカウラー王ピラミッド」です。

砂漠の中にピラミッドがあると
思っていましたが、意外に街が近くに
ありました。
ケンタッキーフライドチキンなども有ったり…
近くから見る「スフインクス」と
「カフラー王ピラミッド」です。

カフラー王のピラミッドは高さは136mで
クフ王のピラミッドの140mに劣りますが、
美しさではNo1と言われています。
「スフインクス」です。

ファラオ(古代エジプトの君主)や神を
守護する聖獣とされています。

横幅は14m、高さ20m、全長74m
あります。

クフ王のピラミッドの側面石組です。

中央の石組みから内部に入ることが
出来ます。
内部の写真も撮影したのですが、
原画が見つかりません。
ピラミッドの石組みの石はそれぞれ
結構大きな石ばかりです。
ピラミッド巡りにラクダに乗りました。

左奥のピラミッドが最大のクフ王のピラミッド、
その右手前がカフラー王のピラミッド、
右端がメンカフラー王のピラミッドです。

クフ王のピラミッド単独の写真があった筈
ですが、見つかりませんでした。

なお、この三大ピラミッド以外にも
小さいピラミッドが幾つも建っています。
「太陽の船博物館」です。

博物館はクフ王のピラミッドの
すぐそばに位置しています。
発掘跡の穴の上に建てられており、
館内には、有名なクフ王のピラミッドの
南側から発見された、世界最古の木造船と
言われている「太陽の船」を復元したものが
展示されています。
「太陽の船」の反対側から眺めた
画像です。
バハレイア砂漠
ギザでピラミッドを見学した後、バハレイア・オアシスへ向かいました。
バハレイアで宿泊し、バハレイア砂漠の観光後、再度カイロへと戻りました。
バハレイヤ・オアシスは、ギザから
バスで約5時間の場所にあります。

こちらは「白砂漠」です。
元は海で石灰岩で形成されたため
白い砂漠になったようです。
「白砂漠」も陽が欠けるとクロっぽくなりますが、
これでも白砂漠です。
白砂漠をラクダの行列が進んでゆきます。

まさにエジプトです。
ちょっとボケましたが、「黒砂漠」です。

火山帯があり、火山の吹き上げた
玄武岩が広がり大地を黒く染めるこの
一帯にはピラミッドの様な形をした
黒い山が並んでいます。

位置的にはこちらの方がカイロに
近いです。
黒砂漠を背景に記念撮影です。
アスワンからアブシンベルへ
4日目はカイロから空路アスワンへと向かい、アスワン観光後は
再び、空路でアブシンベルへと向かいました。アブシンベルで宿泊し、
翌早朝にアスワンに戻り、アスワン観光後、ナイル川クルーズ船に乗船しました。
アスワンの「石切り場」です。

現在は街が間近にまで延びています。
石切り場の「切りかけのオベリスク」です。

ハトシェプスト女王が造ろうとしていた
オベリスクが残されています。
途中で割れてしまったそうで、そのまま
残したそうです。割れてなければ
世界最大のオベリスクになったそうです。
アスワンからアブシンベルへと向かいました。

アブ・シンベル神殿は、エジプト南部、
スーダンとの国境近くにあるヌビア遺跡にあり、
砂岩でできた岩山を掘り進める形で作られた
岩窟神殿です。
大神殿と小神殿からなり、建造主は
新王国時代第19王朝の王、ラムセス2世。
大神殿は太陽神ラーを、小神殿はハトホル
女神を祭神としています。

画面は大神殿です。


大神殿の正面からの眺めです。

岩山を掘って造った岩窟神殿で正面の
高さ約33m、幅約8m、奥行約63mあります。
4体の像は全部ラメセス2世で岩山を
削って造りあげた巨像の高さは20mあります。


像は左から若い時代から老年期への
4体となっています。
内部にある神像で、毎年春秋2回
洞内まで陽光が射しこみ、神像が
光るそうです。
ただし、冥界の神であるプタハには
陽が当たらない様になっているそうです。

左から万物の創造主プタハ神、
王の守護神アメン・ラー、神格化された
ラメセス2世、太陽神ラー・ホルアクティの
座像が並んでいます。

なお、この神殿はダム建設のため、
元の場所から現在の場所へと移され、
そのため、毎年春分、秋分には道内の
神像に光が当たっていたのが、現在は
日にちがづれているそうです。

画面はパンフレットから拝借しています。
「小神殿」です。

前面は高さ12.2m、幅283mで、
高さ11.5mの2体の王の像に挟まれた
王妃の1体が、左右対称に6本立っています。

小神殿は、ラムセス2世が、その妻
ネフェルタリのために造った神殿です。

翌日アスワンに戻り、ファルーカ(帆船)
での、ナイル河帆走の後、フィラエ島にある
「イシス神殿」を訪れました。

「イシス神殿」は古代代エジプト末期王朝から、
プトレマイオス王朝、古代ローマ時代に
建てられ、550年頃ローマ帝国により
閉鎖されるまで、古代エジプトの信仰が
残った最後の神殿です。
川から眺める「イシス神殿」です。

右は第一塔門、左が第二塔門です。
上陸して「イシス神殿」を参観しました。

イシス神殿は古代代エジプト末期王朝から、
プトレマイオス王朝、古代ローマ時代に
建てられ、550年頃ローマ帝国により
閉鎖されるまで、古代エジプトの信仰が
残った最後の神殿でした。

第一塔門の前です。
塔門のレリーフにはそれぞれ意味が
あるそうです。
「イシス神殿第一塔門」の全景です。

門の前にはライオン像が置かれています。
第一塔門の側面の眺めです。
上図の右手方向の眺めです。

右の石組みは「ハトホル小神殿」です。
ナイル河クルーズ 
5日目の午後にナイル河クルーズ船に乗船。3日間かけて、ナイル河沿いの
コムオンポ、エドフ、エスナ、ルクソール東岸を訪問しました。
8日目朝にルクソール西岸を観光後、カイロへと戻りました。
「コムオンポ神殿」です。

コム・オンボ神殿は、プトレマイオス朝の時代
(紀元前332〜32年)にエジプトの
コム・オンボの町に建設されました。
珍しい二重神殿です。神殿はのちのローマ
(支配)時代(紀元前30〜紀元後395年)に
いくらか増築されているようです。
コムオンポ神殿の中庭にある
柱列です。
柱には全て彫り物があります。

エドフの「ホルス神殿」です。
「エドフ神殿」とも称されます。

ハヤブサ神ホルスに捧げられた神殿
として知られ、プトレマイオス朝時代
(紀元前332〜32年)の紀元前237年
から57年にかけて建造された神殿です。
大きさはカルナック神殿に次ぐ2番目に
大きい神殿です。
「ホルス神殿」の塔門です。

高さ36m、幅79mあります。
左は「ホルス神」であるハヤブサ像です。

右は門壁左側のレリーフの様子です。

エスナの「クヌム神殿」です。

エスナはルクソールとエドフの間に位置し、
エドフ、コムオンボと並ぶ、プトレマイオス朝
以降の神殿遺跡です。
現存する多柱室は砂に埋もれていたため、
保存状態はよいのですが規模は小さいです。

神殿の大きさは左下の人物と比べてください。
結構大きな柱列です。
ルクソールにある「カルナック神殿」です。

カルナック神殿はアモン神(空気の神)を
祭った神殿で、東西540m、南北600mの
周壁で囲まれた壮大な神殿で、世界最大の
神殿建造物といわれています。
スフィンクス(頭は羊、胴体はライオン)の
参道から第1塔門を見ています。
左は神殿内の柱列。

右は神殿内のオベリスクです。
「ルクソール神殿」です。

カルナック神殿から南へ2.5km行くと
ルクソール神殿があります。アモン神の
妻ムート神をまつった神殿です。
ルクソール神殿正面の入口両脇には
巨大な大理石坐像と左側に高さ25mの
巨大なオベリスクがあります。
右側のオベリスクはムハンマド・アリが
1833年にフランス国王ルイ・フィリップに
贈ってしまい、今は片方しかありません。

画面にポインターを置くと
パリのコンコルド広場にあるもう一本の
オベリスクをご覧いただけます。
円柱と石像が交互に密集する
「ラムセスの中庭」です。
ルクソールからカイロへ
ルクソールでクルーズ船を降りて、ルクソールの西岸を見学後、空路で
カイロへと出ました。カイロで一泊し、翌日はカイロ市内を観光しました。
カイロ市内観光後は空港へと向かい、夕刻の便で日本へと向かいました
ルクソール西岸にある
「ラメセウム(ラムセス2世葬祭殿)」です。

ラムセス2世はエジプト新王国第19王朝
のファラオで在位は紀元前1290年〜
紀元前1224年とされています。
「王妃の谷」です。

王妃の谷は、エジプト、テーベ(現ルクソール)
のナイル川西岸にある岩山の谷にある
岩窟墓群です。
ファラオが王家の谷に埋葬されているのに
対して、主にファラオの妻が埋葬されています。


「王家の谷」です。

正面奥が王家の谷で62基の王の墓が
見つかっています。

右の建物は「ハトシェプスト女王葬祭殿」です。

「王家の谷とツタンカーメンの墓」です。

王家の谷は、 ピラミッド に似た三角山(左端)
がある険しい岩肌に囲まれた 岩窟墓 です。
1922年イギリス人により新王国時代
第18王朝の ツタンカーメン王 の墓が発見され、
現在までに62の墓が発見されていますが、
ツタンカーメン王以外は総て 盗掘 されて
いたそうです。
「ツタンカーメンの墓」の表示板です。
 「ハトシェプスト女王葬祭殿」です。

ハトシェプスト女王葬祭殿は、古代エジプト
唯一人の女性ファラオ、ハトシェプストが
造営した葬祭殿です。
ハトシェプストの側近で建築家センムトが
設計を行いました。
後にトトメス3世によって壁画や銘文が
削られるなど一部破壊を受けました。

「メムノンの巨像」です。

エジプト新王国(紀元前1570年頃 〜
紀元前1070年頃)に造られた高さ
18メートルのアメンホテプ3世の像です。

この後、カイロへと戻りました。



最終日(8日目)の午前中は
カイロ市内観光です。

「エジプト考古学博物館」です。

エジプトの首都カイロにある国立の
考古学博物館です。通称カイロ博物館。
収蔵点数は20万点以上と言われています。
館内には、ツタンカーメン王の王墓から発掘
された黄金のマスク、黄金の玉座をはじめ、
カフラー王座像、ラムセス2世のミイラなど、
古代エジプトの至宝が展示されています。

左は「ツタンカーメンの黄金のマスク」
です。

右はミイラの内臓を収める箱です。
「ツタンカーメン王の黄金の玉座」の
背もたれ部分の絵です。

王妃アンケセナーメンが王に香油を塗って
いる場面で、バックにはアテン神が描かれて
いますが、この画面では見難いです。
 
「モハメッド・アリ・モスク」です。

モハメッド・アリ・モスクは、高台にそびえ立つ
城塞・シタデルの中にあります。
モスクとは、イスラム教徒の礼拝所ですが、
ここは、エジプトの数あるモスクの中で最も
観光客に人気があり多くの人が訪れます。
今のトルコであるオスマン帝国から派遣された
エジプトの支配者である、ムハンマド・アリが
1824年に着工し、彼の死後、息子が
1875年に完成させました。
左はモスク中庭にある「清めの泉」です。
後ろに見える塔には、フランスから贈られた
時計が据え付けられています。この時計、
同じ時間をさしたまま動いていません。
ムハンマド・アリが、ルクソール神殿にあった
ラメセス2世の2本のオベリスクのうち1本を、
フランスに贈り、そのお礼にもらったものです。
そのオベリスクは、現在もパリのコンコルド広場
に飾られ象徴的存在になっていますが、
こちらの時計は壊れたまま放置されています。

右はモスク内のドーム天井です。
天井は幾何学模様の細かく美しい細工で
飾られています。


この日(9日目)夕刻にエジプト航空機で
成田向けに出発し、2005年3月2日
昼過ぎに成田へ戻りました。
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