龍源寺間歩
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龍源寺間歩は江戸時代中期の1715年(正徳5)に開発された代官所直営の間歩で「御直山」と呼ばれました。
坑道は高さ1.6〜2.0m、幅0.9〜1.5mで水平距離が約630m(公開しているのは旧坑道156m、新坑道116m、
新坑道は栃畑谷へ通り抜ける為の連絡通路)あり、そこから鉱脈沿いに20余りの細く小さな坑道が延びています。
江戸時代に掘削された部分はノミ等当時の道具の跡が随所に残され竪坑や斜坑などがみられます。

間歩には代官所直営の「御直山」と採掘にあたった山師個人が経営した「自分山」がありますが、御直山は1844年(天保15年)
には23か所まで増えますが、自分山は1730年(享保14)に55か所もあったものが、翌年には9か所となってしまいます。
龍源寺間歩の見取り図です。
高橋家から約300mで受付管理棟になります。

間歩入口から156mで新坑道へ出ます。
新坑道は見学者用に新しく作られた坑道です。

新坑道より先に本来の間歩がさらに延びていますが、
狭くて低い坑道になります。進入禁止です。

出口に出ると管理棟があります。その先の道を戻ると、
佐毘売山神社の前を通り、住居跡の石垣群を横目に見て、
高橋家の先の合流点へ出ます。

通常に歩くと15分程度と言われていますが、今回ガイドさんの
説明を聞きながら歩いたので小一時間かかりました。
最初は二人だけで、途中から追いついてきた二人が一緒に
なりましたが、小人数で色々なことを説明してもらえてよかったです。
ガイドさんはボランティアの寺本功子(てらもといさこ)さんでした。
休憩の折には飴まで頂きました。

大森バス停から徒歩だと間歩まで45分かかるそうですが、今回はレンタサイクルで
往路で15分、復路は10分でした。ガイドさんの説明時間をゆっくりとれました。
坑道の採掘方法について、ガイドさんが
図を出して説明してくれました。

石見銀山には主な鉱脈が23本あったと
伝えられおり、そこから岩盤の亀裂に沿って
30cm前後の幅で鉱石を含んだ支脈が延びて
いたとのことです。

従い、鉱脈が縦に何本もあるので、
坑道を鉱脈と垂直に掘り進み、途中で
鉱脈に当たると、そこから鉱脈に沿って
細い坑道を掘っていったのだそうです。
これにより、坑道の無駄がなく、鉱石の
運搬にも便利なのだそうです。

勿論、最初は露頭掘りだったそうです。
ひ押し堀も一部あったようです。

因みに、石見では坑道を間歩と呼んでいますが、
佐渡の銀山も、岩見の技術者が出向いたので
佐渡でも坑道を間歩と呼ぶそうです。

また、採掘する人間は岩見は専門の山師と
鉱山労働者で、佐渡では囚人が使われた
違いがあるとの事です。
龍源寺間歩の入口にある他の間歩です。

幾つも掘られていたことが分ります。
これはシダの株ですが、
普通のシダは年中葉を付けているのに、
この近辺ではこのように葉が落ちて
次の芽が出るまである一定の時間が
かかるそうです。それは、地質的に
銀鉱物を含んでいるからで、これにより
銀鉱脈発見の手掛かりにしたそうです。
龍源寺間歩の入口です。

見学者が通りやすいように(車椅子でも
見学可能)手が入っているそうです。
通り道以外は昔のままの坑道です。
鑿で削られた跡が残っています。
銀鉱脈に当たるとこのように横坑道を
掘って行きます。
人一人通れるのがやっとの坑道です。

この様な枝分かれした坑道が幾つもあります。
これはガイドさんが持って来てくれた
サザエの貝殻です。
銀山が稼働していた頃の灯りは
このサザエの貝殻に灯をともしていたそうです。
栄螺(サザエ)から螺灯と呼ばれていたそうです。
見学用間歩が終わった先に
まだ間歩が続きます。

ここからは狭く細い間歩になります。
進入は禁止されています。
現在地の下の黄色い線が上の坑道です。

上に向かう青い太めの線が新坑道です。
見学者用に新しく作られた坑道です。
新しい坑道は歩きやすい道になっています。
ここは機械掘りでしょう。

新坑道に「石見銀山絵巻」の絵が
展示されていました。
少し見難いですが、展示されていたすべての
えを別ページにしました。

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絵巻
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