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石見銀山は島根県の中央部、大田市に有ります。 銀山は1526年から本格的採掘が始まり、1923年の休山まで 約400年にわたり採掘された日本を代表する鉱山遺跡です。 石見銀山で生産された銀は非常に高品質で、最盛期には世界の 産銀量の三分の一を占めた日本銀のかなりの部分を占めていたと 考えられています。 世界経済に大きな影響を与えたことだけでなく、環境に配慮し、 自然と共生した鉱山運営を行っていたことが評価され、2007年 (平成19)に世界文化遺産に登録されました。 手掘り鉱山の坑道が休山後もそのまま遺されていたことは驚きです。 |
石見銀山は1526年に博多の豪商神屋寿禎により開発が 開始されました。神谷寿禎は日本海を出雲へ向け航海中に 南の山に光るものを見付けたのが銀鉱山発見の最初と されています。 石見銀山は鉱山地区と町並み地区に分かれています。 この銀山は囚人などが強制労働させられたのではなく、 専門の山師と鉱山労働者により採鉱されていたので、 給金も比較的高く、生活レベルも高かったそうです。 労働者への福祉なども結構充実していたとの事で、 そのため、石見銀山の人口は最盛期には20万人にも 達したとの事です。 銀山地区には今でも住宅地の石垣などが残されています。 更に、1533年に神屋寿禎は博多から石見銀山へと 技術者を送り込み、朝鮮から伝来したとされる灰吹法の 技術を用いて現地で銀精錬を行わせるようになりました。 これにより銀の生産量が飛躍的に増えたようです。 石見銀山遺跡は一般車の通行を制限し、世界遺産センター に車を置いて、バスで現地へ向かう「パークアンドライド方式」 を採用しています。 |
石見銀山世界遺産センターです。 バスの発着所と、館内は石見銀山に 関する展示が行われています。 レンタカーをここにおいてバスに乗車、 バスの運転手は出来れば先にセンターを 見学した方が、現場の理解がし易いと 言ってましたが、我々はバスの時間の 関係で帰りに入場しました。 我々はたまたまレンタサイクルの置き場で ボランティアのガイドさんが待っていて、 案内してくれたので助かりましたが、 ガイドなしなら、ここで展示の説明を 受けて行った方が理解しやすいでしょう。 |
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石見銀山への入口です。 手前に羅漢寺があります。 |
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自転車を借りて、先ずはこの羅漢寺を 訪れました。 羅漢寺は寺の前にある五百羅漢の造営 過程で1764年(明和元)に創建されました。 開祖は月海淨印で、真言宗の寺院です。 石窟五百羅漢は銀山で亡くなった人の霊や 祖先の霊を供養するため、多くの人の 寄進を受けて、25年の年月をかけて造営 されたものだそうです。 五百羅漢については下記ボタンから お入り頂けます。 |
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この銀山橋が石見銀山遺跡の入口と なります。 橋を渡って、左へ向かうと鉱山坑道跡へ、 右へ向かうと街並み地区となります。 橋を渡ってすぐ左手に石見銀山公園が あります。 |
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石見銀山の「龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)」 へ向かう道沿いにある、高橋家です。 高橋家は1839年(天保10)ごろに 御料銀山町年寄山組頭を務めていました。 山組頭は代官所と銀山師の中を取次ぐ 役目を担い、銀山師の中から選ばれます。 組頭は鉱山労働者にも気を配り、季節に 応じて食料、調味料などを配ったそうです。 自転車は高橋家の手前までしか入れません。 自転車置き場が設けられています。 たまたま、そこでボランティアガイドの方が 待っていてくれたので、案内してもらう 事にしました。 |
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山裾には銀鉱山の坑道(間歩:まぶ)跡が 数多く見られます。 現在、龍源寺間歩以外は立ち入り禁止と なっています。 石見銀山の間歩は現地調査によると 500か所以上あるようです。 あちこちに数字の付いた坑道口が 見られます。 この坑道の一つ(左端)には 「福神山間歩」の碑が立っていました。 この間歩は坑口が3か所あって、上段の坑は 空気抜き坑、下段の2坑は中でつながり、 説明板のある道路の下2mほどのところを通って 銀山川の下をくぐり、後ろにそびえる銀山の 最高地点「仙ノ山」の方向に堀り進んだと伝えられ、 仙山(せんのやま)の逆方向へ向かって坑口が 開いている珍しい間歩です。 |
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龍源寺間歩の前にある受付です。 ここからが有料となります。 江戸時代、採掘操業の場所を「山」、 坑道を「間歩」と呼んでいました。 石見銀山の間歩は、元禄4年(1691)に 92ヵ所でしたが、文政6年(1823)の 古文書によると新旧合わせて279ヵ所と され、最近の現地調査では、空気抜きなど を合わせると、500ヵ所を超える坑道を 確認しています。 |
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受付の左手すぐに間歩があります。 坑道入口の枠組(四つ留)は 新しく作られています。 |
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江戸時代の中頃1715年に掘られた 代官所直営の坑道です。 入口の木枠を「四つ留」と称していました。 公開されている坑道は273mですが、 実際は600mあるそうです。 抗口:高さ2.5×巾2m、 坑内:高さ約2×巾1m。 公開されていない奥:高さ約1×巾0.6m。 坑道に入れるのはここだけです。 坑道内の様子は下記ボタンから お入り頂けます。 |
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龍源寺間歩の出口部です。 見学者用に造られた坑道となって います。 |
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鉱山区内にある 「佐毘売山(さびめやま)神社」です。 国指定の史跡です。 祭神は鉱山の守り神である金山彦神で、 室町幕府の命により、1434年(永享6)に 守護大内氏が祀ったとも伝えられています。 戦国時代には石見銀山を領有した大内、 尼子、毛利の歴代大名に崇敬されたようです。 社殿は1818年(文政元)に焼失しましたが、 翌年には再建されています。 画面にポインターを置くと 社殿の一部がご覧いただけます。 さすがに、この階段を上まで登れません でした。 |
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山腹にある、昔の鉱山労働者の 住宅街の跡です。 石垣が組まれ、家が建てられていたようで、 結構豊かな生活をしていたと思われます。 |
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世界遺産センターの展示の中に有った 昔の鉱山の労働者住宅街です。 最盛期には20万人が住んだという 町の一部でしょう。 |
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山を下る途中にある「新切間歩」です。 新切間歩は、幕府代官所直営の御直山 と呼んだ間歩の一つで、1715年(正徳5)、 代官鈴木八右衛門のときに開発し、最初は 疎水坑(水抜き)として掘ったもののようです。 銀山の間歩のなかでは、最も大森の町に近く、 標高も低い場所にあったものです。 |
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途中から遊歩道(一部のみ自転車 通行可)に入り、清水谷製錬所跡へ 向いました。 ここも自転車通行可でしたが、 手前に停めて歩きました。 |
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清水谷製錬所跡です。 この製錬所は1894年(明治27)に当時 東京帝大生の武田恭作氏設計により 近代的な銀の製錬所として建設を開始し、 翌年完成、4月から操業を開始しました。 然しながら、鉱石の品質が予想より悪く、 また設備の銀の製錬能力も不十分で 不採算となり、1896年(明治29)10月に、生産開始からわずか1年半で操業を 停止しました。 生産停止後は放置され、草木で蔽われて いたものを、修復したそうです。 |
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製錬所跡の近くにある「安養寺」です。 浄土真宗のお寺で、安養寺の創建は不詳 ですが、当初は仙ノ山の山頂に境内があり 天台宗の寺院でした。16世紀に入った 1523年(大永3年)浄土真宗に改宗、 寛政年間(1789〜1801)に現在地に移り 特に石見銀山で働く労働者から信仰されました。 現在の本堂はその当時のものとされ入母屋、 桟瓦葺、向拝付、内部の内陣や扉等には 建立の際の年号や寄進者などの名称が残され 貴重な資料とされています。 画面にポインターを置くと 境内に建立されている経堂をご覧頂けます。 経堂には龍の鏝絵が描かれています。 |
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豊栄神社です。 元は長安寺と言うお寺で、1571年(元亀2)、 毛利輝元によって開かれたとされています。 明治時代初頭に発令された神仏分離令と 廃仏毀釈運動により仏式が廃され1870年 (明治3)に豊栄神社の社号を賜っています。 現在の社殿はその当時のものです。 |
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「下河原吹屋跡」です。 発掘調査によって初めて発見された17世紀 初頭の銀精錬遺跡です。 ここでは、鉛を利用した灰吹法と呼ばれる 精錬法で銀を取り出していました。 この技法によって銀の精錬技術は飛躍的に 発展し、現在でもその原理が使われている そうです。 遺跡には、銀鉱石を砕いた要石や選別の ために水をためていた跡などがあります。 画面にポインターを置くと「要石(かなめいし)」 をご覧いただけます。 要石は高橋家の前にも置いてありました。 画面奥の建物は上から遺跡を眺める為の 展望台だとセンターで教えてくれました。 当初、何かわからず、上には登らずじまいでした。 |
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石見銀山の地役人の遺宅である 「渡辺家住宅」です。非公開です。 銀山地区内にあります。 |
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石見銀山の鉱山区から住居地区を 縦断している「銀山川」です。 古い家並みと石垣が似合います。 鉱山区方向を眺めています。 |
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大森町並地区です。 大森は所謂、陣屋町として整備され 石見銀山の政治、行政の中心地となり、 商人の町屋などが建ち並び、人口20万人を 抱える一大商業地が形成されました。 現在の町並みは1800年(寛政12)の 大森大火後に再建されたもので、 古い家屋が並んでいますが、殆ど人が住んで おらず、お客の多い土、日に戻ってきて、 お店を開くのだそうです。 この日はほとんど人通りもありませんでした。 |
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何れも、古い家屋ですが、それぞれに 異なった特徴を持っているようです。 大森地区には数多くの代官役人の旧宅が 遺されていますが、殆どが非公開となって います。 非公開の旧宅を下記ボタンから入って ご覧いただけます。 |
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大森地区で公開されている旧宅の一つ、 「河島家」です。 河島家は1610年(慶長15)に銀山奉行・ 大久保石見の守に召し抱えられて以来、 代々銀山附役人を勤めてきた家柄です。 現在残されている主家は半分以下に なっています。 住宅詳細は下記ボタンからお入り頂けます。 |
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町中にある旧大森区裁判所跡です。 現在は「町並み交流センター」として 利用されています。 |
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街並み交流センターの横を流れる小川です。 花が咲き、春ののどかさを感じさせてくれます。 |
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大森地区の中ほどにある「観世音寺」です。 岩山の上に鎮座しています。 観世音寺の創建は不明ですが、 大森代官所の代官が石見銀山の隆盛を 祈願する祈願所だったそうです。 宝暦年間の住職、月海淨印は羅漢寺の 住職となり、五百羅漢を造っています。 画面にポインターを置くと お寺の本堂をご覧いただけます。 現在の堂宇(本堂・山門)は1860年(万延元) に再建されたものです。 |
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町中にある郵便局です。 街並みに合わせた作りになっています。 |
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一般公開されている旧住宅の一つ 熊谷家住宅です。 ここは、国の重要文化財に指定されています。 熊谷家は石見銀山御料内で最も有力な 商家の一つだったそうです。 住宅の詳細は下記ボタンからお入り頂けます。 |
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「旧大森代官所」です。 現在は「石見銀山資料館」になっています。 代官所跡は国の史跡に指定されています。 江戸時代に入ると幕府の直轄地となり、 初代奉行となる大久保長安が陣屋構えの 代官所を設け、2代竹村丹後守の時に、 現在の地に移りました。 現在の長屋門は大森代官所の遺構で 1815年(文化12)に建てられたもので、 木造平屋建、切妻、桟瓦葺、外壁は白漆喰 仕上げで、腰壁は下見板張り縦縁押さえに なっています。 |
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代官所跡の長屋門正面です。 奥に郡役所として建てられた平屋が あり、現在ここが資料館となっています。 画面にポインターを置くと 資料館の建物をご覧いただけます。 資料館は1902年(明治35)に迩摩郡役所 として建てられたもので木造平屋建、入母屋、 桟瓦葺となっており、明治時代に建てられた 郡役所建築の遺構として貴重な存在です。 |
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町並の東北端にある「城上神社」です。 城上神社の創建は不詳ですが927年(延長5) に編纂された延喜式神名帳に式名社として 記載された古社です。 延喜年間(901〜23)には馬路の城上山に 鎮座し航海安全と海防の神として 信仰をあつめていたようです。 神社の詳細は下記ボタンからお入り頂けます。 |
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