京都中央部・烏丸四条

 京都中央部の風景 京都の風景 関西の風景 日本の風景 トップページ
  左図は京都市下京区の烏丸通四条〜松原間の地図です。
下段東横インの横にあるのがわが実家です。
創業1773年(享保18)の老舗です。現在甥が九代目を継いでいます。

その隣には「新玉津島神社」があり、北村季吟が神官をしていたこともある、
1186年(文治2)創建の神社です。以前は我が家の蔵に神社の品を
預かっていました。

我が家から烏丸通を上がる(北へ行く)と平等寺(因幡薬師)が
あります。997年(長徳3)に鳥取(因幡)の海から引き揚げられた
と伝えられる薬師如来がご本尊です。善光寺の阿弥陀如来、京都嵯峨
清凉寺の釈迦如来と共に、日本三如来の一つです。

また、京都の通りの名前にもなっている「仏光寺」が平等寺の北東に
あります。仏光寺は浄土真宗仏光寺派の本山で、寺院の体裁は
西本願寺の構図とほとんど同じようなスタイルになっています。

仏光寺北側に神明神社があり、鵺(ぬえ)の退治された場所とされています。

京都だけに色々と歴史の深い建造物が沢山並んでいます。
然しながら、この地区も表通りである烏丸通は近代化が進み、
ビル街となっており、ホテルも最近どんどん増えています。
実家の近くの烏丸通も東横インのほか、こじんまりしたホテルが群立し、
現在建設中のホテルも幾つかあります。それでもシーズンには里帰りの
ホテルに困るほど、京都を訪れる人々が内外を問わず多くなっています。
平等寺(因幡薬師)
京都市下京区にある真言宗智山派の寺院です。平等寺(びょうどうじ)は因幡薬師
(いなばやくし)とも因幡堂(いんばどう)とも呼ばれている、癌封じのお寺です。
中学の同期会の始まる前に、墓参の後、こち等を訪れました。
烏丸通の東側、高辻と松原通の間に
あるのが平等寺・通称因幡薬師です。

烏丸通の入口にはこのように燈籠が
建っていますが、寺院の門が
見当たりません。

平等寺建立には下記の逸話があります。

959年(天徳3)橘行平は、上天皇の命で
因幡国(現鳥取県)の一宮に赴きました。
そこで、行平は急病になりました。
平癒を神仏に祈り続けていると、ある夜、
夢に異形の僧が現れこう告げました。

「因幡国賀留津の海中に一つの浮き木が
あるから、この浮き木を求めて供養しなさい。
そうすれば必ず病気は治る。さらに一切の
あらゆる願いが成就するだろう」

行平は早速人々を集めて海底を探らせた
ところ、お告げの通り一つの浮き木があり、
よく見ると身の丈五尺余り(約165cm)の
薬師如来の尊像でした。

行平は喜んでこれを信心しこれを供養する
草堂をこの浦に建て尊像を祀りました。 
                   以下下段へ

上図の正面突き当りを右折すると
この道へ出ます。
左手にやっと入口が見えてきます。

逸話の続き、

行平は見つけた尊像を祀り、「因州
(鳥取県)高草郡大字菖蒲浦の
座光寺(ざこうじ)」を建立しました。

その後、行平の病気は平癒し、無事に
京に帰る事が出来ました。ところが
帰京した行平にまたある夜、一人の
異形な僧から夢告があります。

「我は西の天より来て、東の国の人々を
救おうとやってきた。あなたには宿縁が
あるから重ねて事を示す」との事です。

行平が夢から覚めると、屋敷の西門に
来客があると家人が呼びに来ました。

行平が「どなたですか」と問うと「因州の
僧だ」と返答がありました。行平は驚いて
西の門を開けさせたところ、あの薬師如来の
尊像が立っておられたのです。

                    以下下段へ

平等寺本堂です。
1886年(明治19)に再建されたものです

平等寺は真言宗智山派の寺院で、
本尊は逸話の薬師如来です。
藤原期の一木造で、国の重文です。

逸話の続き、

さっそく行平は五尺余りの尊像を碁盤の
上にのせて安置しました。これが1003年
(長保5)4月8日の黎明のことでした。
行平は屋敷を改造してお堂を作り、
このお堂を因幡堂と名付けたのです。

その後、 1171年(承安元)には、
高倉天皇により「平等寺」と命名され、
勅額を贈られました。
 
以上が平等寺成立の逸話です。(おわり)

本堂です。
平等寺は京都の町中にあり、病気の人の
最後の拠り所として、多くの人々の信仰を
集めていました。
病気を治してくださる仏様、また、子授け、
安産の仏様として多くの方が参られますが、
特に癌封じのお薬師如来として信仰されて
いるようです。

前日の大原では快晴に恵まれましたが、
この日は残念ながら雨模様。

本尊の薬師如来です。(資料写真より)
被っている帽子は御簾との隙間を埋める
ための物だそうです。
本堂の西寄りにある「観音堂」です。

こちらには弘法大師や如意輪観音、
毘沙門天、十一面観音などが
お祀りされています。
本堂西側には手前の「歓喜天」を祀るお堂、
その右隣の「安産の地蔵堂」、その奥に
「十九所権現」を祀る祠が建っています。

閻魔さまは、嘘をつくと舌を抜かれる
ことで有名ですが、密教では除病、息災、
延寿を祈るとのことです。

本堂に祀られている薬師如来像とともに
健康と長寿を司っているそうです。

実際の石像は少し下向きになっており、
膝をついて下から拝むとご利益があると
言われています。

膝をついて撮った写真がこれです。
下から見上げるには更に低くする必要が
ありそうです。

画面にポインターを置くと普通の立ち位置
から撮った写真をご覧いただけます。

大日如来を祀る小さな祠(手前)と
その祠を守る金剛夜叉明王像(左)と
毘沙門天像(右)です。
本堂の東側です。

手水鉢が置かれています。
参詣者の休憩場所にもなっています。
寺宝の収蔵庫です。

本尊の薬師如来は普段はこの収蔵庫に
御簾に入った状態で保管されている
そうです。

入口には、過って屋根上を守っていた
贔屓の瓦が置かれています。

本堂の改修のため127年ぶりに地上に
降ろされ、展示されています。

伝説では贔屓とは竜が生んだ9頭の
神獣のひとつで、重い荷を好んで背負うと
言われており、気に入った者に肩入れする
ことを意味する贔屓の語源となったそうです。
そういった特性から贔屓は通常は柱などを
支える台として使われることが多いのですが、
平等寺では屋根に置かれており、
その理由は不明だそうです。

画面にポインターを置くと
贔屓の瓦をご覧いただけます。
仏光寺
京都の中心部を東西に走る四条通りと五条通りの間にある、高辻通りとその北側にある東向き一方通行の佛光寺通りに
挟まれて、真宗佛光寺派本山 佛光寺があります。
京都市下京区の仏光寺通と高辻通の間に有る「仏光寺」の境内図です。

東側の高倉通に面した場所に4つの門があります。南側にも南門が1ヶ所あります。

浄土真宗の本山、東本願寺、西本願寺のように周囲に掘割はありませんが、
なかなか立派なお寺です。
仏光寺通と言う名前は子供の頃から知っていましたが、寺院を訪れたのは
今回が初めてでした。

仏光寺の成り立ちは、越後流罪に遭われた親鸞聖人が、ご赦免の翌年1212年
(建暦2)に京都に帰られ、山科の地に草庵を結ばれました。この草庵が佛光寺草創と
伝えられています。当初、真宗開闢の根本道場を意味して、「興隆正法寺」と号しました。

その後、後醍醐天皇が夢枕に東南の方向から一筋の光が差し込むのをご覧になり、
ただちに人を使わせられたところ、阿弥陀如来のお木像が出てきました。
この仏像が当寺の盗まれた阿弥陀如来像の台座と一致するところとなり、勅願により
「阿弥陀佛光寺」略して佛光寺の寺号を賜ったと伝えられています。

後醍醐天皇から寺号を賜った佛光寺は益々隆盛となりましたが、それとともに延暦寺の
弾圧が強まり、応仁の乱を境に寺勢は次第に衰え、代わって本願寺が台頭するところと
なりました。1586年(天正14)には豊臣秀吉の命により、寺基を五条坊門(現在地)に
移し、その後430年以上法灯が守り継がれてきています。
高辻通から眺める「佛光寺」です。

手前は阿弥陀堂、奥に大師堂です。
右手端に鐘楼が見えています。
鐘楼と阿弥陀門(本堂門)です。
大師堂(手前)と阿弥陀堂です。

このスタイルは西本願寺と同じです。
但し、御影堂と阿弥陀堂は逆になって
います。

両堂が渡り廊下でつながれています。
それも西本願寺を想起させます。

どちらが先なのかは西本願寺が現在地に
移ったのは1591年、仏光寺は1586年で、
仏光寺が先輩になります。
大師堂の正面です。

建物は1884年(明治17)の再建です。
お堂の内部です。
親鸞聖人の座像が祀られています。
写真は自由に撮ってくださいとの事です。

前に座っている4名は海外からの
観光客ですが、内の1人が3人に説明
していました。ガイドなんでしょうか。

画面にポインターを置くと
本堂左手部分の様子をご覧頂けます。
大師堂と阿弥陀堂を結ぶ渡り廊下です。

阿弥陀堂です。

建物は1904年(明治37)の再建です。
阿弥陀堂の内部です。
ご本尊の阿弥陀如来立像が
祀られています。
画像では見えませんが、脇壇には
聖徳太子と法然上人の像があります。

欄間は金箔の透かし彫りが施され、
豪華な雰囲気を醸しています。

画面にポインターを置くと
左手余間の高僧座像と後醍醐天皇位牌
の置かれている様子をご覧いただけます。


お堂の前の庭には大きな銀杏が
植わっています。
手水舎の傍の銀杏は西本願寺も
同様です。

画面にポインターを置くと
手水舎の様子もご覧いただけます。
東側の高倉通から見る仏光寺の壁です。

本願寺の場合はここにお堀がありますが、
仏光寺は道路に接しています。

立派な門が4門ならんでいます。

阿弥陀堂の前にある
「阿弥陀堂門」です。

四脚門で、屋根は切妻造ながら
前後に唐破風をつけた銅版葺です。
1879年(明治12)の建立です。

大師道の前にある
「御影堂門(大師堂門)」です。

切妻四脚門です。
扉や脇、腰の各所を彫刻で装飾しています。
「勅使門」です。
「玄関門」です。
神明神社
京都下京区の神明町にある神明神社です。創建時代は不明ですが、平安末期の藤原忠道(摂政)の
屋敷内に有った鎮守の社だったそうです。鵺(ぬえ)退治の伝説より厄除け、火除けの神と言われています。

祭神は天照大神です。神明社には文子(あやこ)天満宮が合祀されています。
神明神社の正面です。
門前がゴミ置き場になっているのが
残念ですが、これも神社のお役目かな。

ここは平安末期、近衛天皇がしばしば
皇居にされた藤原忠通の屋敷跡で、
四条内裏又は四条東洞院内裡とも
呼ばれていたようです。
この邸内に有った鎮守の社が
神明神社です。

藤原末期からは天台宗の護国山立願寺
円光院と言うお寺になりましたが、明治の
神仏分離により神社だけが残されました。

また、町内にある豊園小学校内に
有った文子天満宮の祭神が戦後に
神明神社に合祀されています。

文子天満宮は942年(天慶7)に
右京七条二坊の多治比文子さんに
「菅原道真の霊をまつれ」との神託があり、
近江神宮と協力して北野神社を創建
したと伝えられています。
道真の功績により学問の神として
崇められています。
文子(あやこ)さんが祭った天神さんです。
神明神社の本社です。

宝物として「矢じり」二本が伝わって
います。
近衛帝のおり、鵺(ぬえ)と言う怪獣が
夜ごと都を騒がせたので、帝から
退治の命を受けた源三位頼政が神明
神社に祈願をこめ、これを退治しました。
そのお礼に奉納されたのが弓箭です。
「鵺(ぬえ)」の姿だそうです。

頭は猿、尾は蛇、手足は虎、鳴き声は
トラツグミという怪獣だそうです。

画面は神社に掛けられていた
歌川国芳の描いた「鵺」の写真です。
京都に着いた日の夜は因幡薬師の近く
因幡堂町にある居酒屋「乱」と言う店で
摂りました。

飲物はモルツビールの生。
食事は鱧、牡蠣。サービスでデザートが
出ました。
 

左は鱧の「落し」、「炙り」、「天婦羅」の
三種盛です。京都の夏と言えば鱧でしょう。

右は舞鶴産の「岩ガキ」です。千葉飯岡の
岩ガキに比べると小振りですが、
しっかりした味と歯ごたえでした。
                京都中央部の風景   京都の風景  関西の風景  日本の風景  トップページ