京都南東部
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京都市の区分け方は色々ありますが、概ね洛北、洛東、洛西、洛中、洛南に区分されるケースが多いです。
ただ、この分け方では京都の場合、有名な場所が多いので、このHPではもう少し細分化しています。
京都市南東部は主として山科区の地域となります。地下鉄東西線沿線となります。
伏見区は概ね京都市南部地区として対応しています。
中学校の同期生の集まりが、今回が最終回となるとのことで、2019年5月14日、15日に京都を訪れました。
長年行けてなかった醍醐寺を訪れるとともに、60年ぶりに伏見桃山御陵(桃山城址)を歩いて来ました。
いずれの場所も結構広くて歩く距離が長く、脊柱管狭窄症患者には厳しい行程で、夜には足が痛くなってしまいました
今回は京都駅八条口から京阪バスで醍醐寺に出ました。
直通バスで30分で到着できます。
醍醐寺を拝観後は地下鉄東西線の醍醐駅に出て、六地蔵で
JR奈良線に乗り換え、隣の桃山駅まで行きました。

桃山駅から伏見桃山御陵(明治天皇陵)まで歩きます。
この道は結構距離があるうえに、登りになっています。

御陵から伏見桃山城(再建)に出て、更に近くの桓武天皇陵
まで行き、そこから近鉄の丹波橋駅に出ました。

丹波橋から竹田駅で地下鉄烏丸線に乗り換え、この日の
宿泊場所の烏丸四条に出ました。
醍醐寺 伏見桃山御陵
醍醐寺
醍醐寺は874年(貞観10)聖宝尊師により開創されました。
以来、醍醐、朱雀、村上夫々天皇の帰依を受け基礎が築かれています。

醍醐寺は真言宗醍醐派の総本山で、上醍醐と下醍醐の二つの地区に
分かれ上醍醐は醍醐山山頂付近の一帯を中心に修験者の霊場として
発展しました。その後、醍醐天皇が自らの祈願時として庇護したことから
下醍醐に多くの伽藍が作られ発展しました。

室町時代に入ると、応仁の乱などで寺は荒廃し、五重塔のみが
残ったそうです。その後、豊臣秀吉の「醍醐の花見」をきっかけとして
紀州から寺院が移設されたり、三宝院が再建され、現在の姿に
復興しています。

寺院は伽藍エリア、三宝院エリア、霊宝館エリアに分かれています。
総門を入ると三宝院の入口に受付があり、ここで夫々のエリアの
拝観券を購入します。

三宝院から参道を通り、西大門(仁王門)から伽藍エリアに入ります。
金堂(国宝)が醍醐寺の本堂となります。五重塔(国宝)は951年(天暦5)
村上天皇が醍醐天皇の菩提を弔うために建てたものです。現在、京都府下
で最も古い木造建築物です。
霊宝館は寺宝の保存と公開のための施設として1935年(昭和10)に
建造されています。ここには醍醐寺にかかわる数多くの国宝、重文が
展示されています。内部の撮影は禁止です。
京都駅八条口にある京阪バス
H4番バス停留所です。
醍醐寺、橘大学、醍醐バスターミナル
など京都南東部へのバス便の
発着場です。
京都市内を流れる鴨川を
十条通りの「陶化橋」から
眺めています。
旧山科駅址に建てられている
「名神起工の地」の看板です。

日本の最初の高速道路がここから
建設が始まったことを知っている人は
多くはないでしょう。

1958年(昭和33)にここで
高速道路の起工式が行われています。

1963年(昭和38)に名神高速道路
が開通しています。
京阪バスの醍醐寺駅(終点)です。

境内の駐車場内にバス停があります。
 
醍醐寺総門です。
往路のバス車内からの撮影です。

画面にポインターを置くと帰りに通った
総門の画面もご覧頂け間ます。
三宝院
三宝院は醍醐寺第14世座主勝覚僧正により1115年(永久3)に座主の居住する本坊として創建されています。 
現在の三宝院は1598年(慶長3)秀吉の「醍醐の花見」の折に整備されたもので、庭園は秀吉の基本設計と
言われています。この庭園を眺められる表書院は国宝です。
三宝院の入口の門です。

左手には拝観受付があり、3エリアの拝観券は
ここで発売されています。

この門の右手に唐門があります。
「唐門」(国宝)です。

門跡寺院としての三宝院にあり、朝廷からの
使者を迎える時だけに扉を開いたとされる
門(勅使門)が唐門です。
1599年(慶長4)に造られた桃山時代を
代表する木造建築物です。

創建時は門全体が黒の漆塗で菊と
桐の四つの大きな紋には金箔が
施されていました。

2010年(平成22)に往時の姿に
復元されています。
 
「三宝院大玄関」です。
大玄関です。玄関の奥の襖絵は画面に
ポインターを置くとご覧いただけます。
表書院へ向かう途中の葵の間の一部です。
襖絵は京都三大祭りの一つ葵祭が
描かれています。

たまたま、拝観の翌日が葵祭の日でした。

ここ以外は内部の撮影は禁止されています。
表書院も撮影できません。
廊下からの庭園と左は表書院です。
表書院から眺める庭園です。

秀吉が基本設計したと言われています。
右端の松の木が茂っている岩は「鶴石」で、
その左手の五葉松の石は「亀石」です。
左手前の三つの石は賀茂の三石と
呼ばれています。
表書院から眺める奥宸殿とその奥に見える
旧庫裏の煙突です。

庫裏の様子は画面にポインターを置くと
ご覧頂けます。
 
玄関横の部屋の襖絵と衝立です。

衝立には「鸞鳳」と書かれています。
詳細は判りません。
右手大玄関の左奥には醍醐寺寺務所が
あります。

寺務所の前を左手に行くと修証殿と
憲深林苑があります。
今回はスキップです。
三宝院唐門の前から眺める参道と西大門です。
伽藍エリア
醍醐寺の中心をなす建造物群が広がっている地区です。
堂宇のほかに、弁天池や無量寿苑などの自然が広がり、四季折々の風景を楽しめます。
伽藍エリアへの入口はこの「西大門」です。

豊臣秀頼が1605年(慶長10)に再建した門です。
そこに安置されている仁王像(重文)は、
もとは南大門に祀られていた尊像で、
平安後期の1134年(長承3)に
仏師勢増・仁増によって造立された
尊像です。

画面にポインターを置くと仁王像を拡大して
ご覧頂けます。
西大門を入って右手にある
「清瀧宮本殿」です。

醍醐寺の総鎮守清瀧権現(せいりゅうごんげん)を
祀る鎮守社で、1097年(永長2)に、
最初に建立された上醍醐より分身を移し
祀られた宮です。
文明の兵火により焼失し、現在の社殿は
1517年(永正14)に再建されたものです。
国の重要文化財に指定されています。
「清瀧宮拝殿」です。

1599年(慶長4)に座主・義演(ぎえん)
僧正により拝殿の整備が施されました。

画面にポインターを置くと本殿に面対する
側もご覧頂けます。

「五重塔」です。

醍醐天皇のご冥福を祈るために、朱雀天皇が
936年(承平6)に着工し、村上天皇の951年
(天暦5)に完成しています。
高さは約38メートルで屋根の上の相輪は
約13メートルあり、相輪が塔の三分の一を
占めています。
塔は国宝で、京都府下では最も古い
木造建築物です。
「金堂」です。国宝です。

醍醐天皇の命により926年(延長4)に創建され、
当時は釈迦堂といわれていましたが、永仁、
文明年間に二度焼失しました。
現在の金堂は豊臣秀吉の命によって紀州湯浅
から移築が計画され、秀頼の時代、1600年
(慶長5)に完成しました。

醍醐寺の本堂にあたります。
本尊は薬師如来坐像で、病気を癒し、苦しみを
除くといわれています。


画面にポインターを置くと本堂内の
薬師如来坐像をご覧いただけます。

「不動堂」です。

堂内には不動明王を中心に五体の明王を
奉安しています。また、堂前の護摩道場では、
時によりゴマ法要が行われるようです。

画面にポインターを置くと
内部の明王をご覧いただけます。

「真如三昧耶堂」です。

もとは朱雀天皇の御願により法華三昧堂として
949年(天暦3)に創建されましたが、1470年
(文明2)に焼失し、現在の堂は1997年(平成9)
に真如三昧耶堂として建立されました。
「真如三昧耶堂」は建立されたのが1997年で
最近のお堂ということになります。
本尊は金剛界大日如来と釈迦涅槃像です。

画面にポインターを置くと堂内のご本尊を
ご覧頂けます。

「祖師堂」です。

1605年(慶長10)座主義演准后(ぎえんじゅごう)
により建立されたもので、真言宗を開いた
弘法大師・空海と、その孫弟子で、醍醐寺を
開創した理源大師・聖宝とが祀られています。

画面にポインターを置くと空海と聖宝の像を
ご覧頂けます。

「日月門」です。

観音堂を中心に付近に広がる大伝法院堂宇群
の一つです。
1930年(昭和5年)、醍醐天皇一千年御忌を
記念して山口玄洞居士より寄進された門です。

「観音堂」です。

醍醐天皇一千年御忌を記念し、1930年
(昭和5)山口玄洞居士の寄進により造築
されたものです。
西国三十三ヶ所の御朱印や納経を
受け付けています。
現在修理中で、入口は裏側になっています。

画面にポインターを置くと本尊と堂内の様子を
ご覧頂けます。お堂の内部は撮影禁止ですが、
外から撮らせて頂きました。

「弁天堂」です。

堂内には、音楽などの学芸や知識の女神として
広く知られている弁才天(七福神の一つ)が
祀られています。
朱塗りの弁天堂が水面とよく合う紅葉の名所と
なっています。

画面にポインターを置くと正面から見た
弁天堂をご覧いただけます。

境内には2つの鐘楼があります。

左は金堂の横にある鐘楼です。説明文は
ありませんでした。

右は1930年(昭和5年)、醍醐天皇一千年忌を
記念して山口玄洞居士より寄進された鐘楼です。
「旧伝法学院(修行道場)」です。

内部は崩れ落ちています。
この右手にも建物があり、それが道場かも
知れません。

画面にポインターを置くとその建物も
ご覧頂けます。
霊宝館エリア
醍醐寺で多くの天皇、貴族、武家、民衆の帰依を受け、その歴史の中で数多くの絵画、仏像、
工芸品など、10万点以上の寺宝を継承しています。それらの収蔵庫、展示室が霊宝館です。
館内は撮影禁止のため殆ど写真はありません。
「霊宝館」入口です。

霊宝館は桜の名所でもあり、
庭内には40本以上の桜があり、
中でも樹齢180年の「醍醐大しだれ桜」が
有名です。
霊宝館本館の玄関です。
本館から平成館には廊下で繋がっています。

霊宝館は1935年(昭和10)の開館です。
仏像・絵画・工芸品など10万点以上
(うち国宝69,419点、重要文化財
6,522点)の寺宝を保管しています。

本館の他、仏像棟、平成館があります。

平成館は2001年(平成13)に
上醍醐薬師堂の本尊である
国宝・薬師三尊像を中央に安置する
大展示室として増築されました。

館内に展示されている上醍醐五大堂に
安置されていた重文「木造五大明王像」
です。
資料写真からの拝借です。
桃山御陵と伏見桃山城
醍醐寺から桃山へ出て明治天皇桃山御陵と桓武天皇陵及び伏見桃山城を
拝観してきました。桃山城は耐震の関係で城内には入れません。
地下鉄東西線醍醐駅から六地蔵駅に出て、
ここでJR奈良線に乗り換え桃山へ出ます。

JR六地蔵駅の様子です。
JR桃山駅から徒歩5分ほどで明治天皇陵の
入口に出ます。

砂利道の長〜い参道が続きます。
御陵の横からの入口ですが閉門されています。
特別な人の出入口でしょう。

ここから右へ回ったところに正面があります。
明治天皇陵正面の様子です。

近くまでは入れません。

画面にポインターを置くと
御陵の拡大画面をご覧頂けます。
御陵から眺める伏見区・宇治市の様子です。
この先に昭憲皇太后陵もありますが、
流石に参道の上り下りを考えると失礼させて
頂きました。
元に戻り、参道の途中から「桓武天皇御陵」への
参道があります。この道は伏見桃山城へも
繋がっています。
桃山城の入口です。
桃山城の近くに運動公園もあるので、若者が
走っていました。
伏見桃山城の入口門です。
城郭内には入れないので、城内は無料です。


豊臣秀吉によって1597年(慶長2)に築かれた天守は
独立式望楼型5重5階と推定されていますが、
1619年(元和5)に廃城が決定され、城内の建物は
各地に移築されたそうです。

現在の模擬天守は1964年(昭和39)に遊園地
「伏見桃山城キャッスルランド」として約6億円をかけて
鉄筋コンクリートで造られたものですが、江戸時代の
天守とは位置も外観も異なっています。
同遊園地が閉園後に無償で京都市に贈与されましたが、
耐震基準を満たしていないことから内部は非公開と
なっています。

この日も殆ど人がおらず、静かな城跡です。
城内にある「樹霊碑」です。

 「永遠とおもえる
  ながき時のなか
    樫立てり黄なる
       あやくもの果て」

この歌は、「昭和の子規」と呼ばれた引野收
(ひきのおさむ)が詠んだものです。

引野は子規と同じようにこの地で長らく病床に居て
和歌を作り続けたのだそうです。
桃山城から少し北寄りに「桓武天皇柏原陵」が
あります。

桓武天皇は737年(天平9)に生まれ、781年
(天応元)に第50代天皇に即き、山城の国に
遷都を図り、784年(延暦3)には長岡京を造営
しましたが、天災や近親者の不幸が起こり、
794年(延暦13)に平安京へ遷都しています。

806年(延暦25)に崩御しています。

桓武天皇陵です。

御陵が良く見えませんが、土葬されており、
墳丘が作られているようです。

画面にポインターを置くと右手の石標の
拡大図をご覧いただけます。
桓武天皇陵から最寄り駅への参道も
長〜い道になっています。

最寄りの近鉄丹波橋駅です。

ここには京阪電鉄の丹波橋駅もあります。
京都駅方面には近鉄が、四条河原町方面へは
京阪電車が便利です。

今回は四条烏丸にホテルを取っていたので、
近鉄で地下鉄竹田駅へ出て、地下鉄烏丸線で
四条烏丸へ出ました。

今回のルートは徒歩距離が長く、2万4千歩以上
歩きました。脊柱管狭窄症患者の半日の歩行と
しては驚異的な歩行距離でした。
夜になって足が立たなくなりましたが、翌朝には
何とか歩行可能になりました。
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