智積院 
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2019年3月に姉の3回忌で、京都の墓参りに日帰りで行った折に、帰路、智積院に立ち寄ってきました。
今まで何度も門前を通りましたが、今回やっと拝観することができました。境内は結構広くて、帰りの新幹線の時間の関係で
ゆっくりと拝観する時間がなく、急ぎ足での慌ただしい訪問になりました。
智積院は真言宗智山派の総本山として全国に約3千の末寺を擁していて、成田山新勝寺、川崎大師平間寺、高尾山薬王寺の
大本山をはじめ、別格本山もあり、信徒数は30万人いるそうです。
また、過っては、「学山」として教学の研鑚や修行などを厳しく行い、他宗の僧侶や一般の学徒にも開放された「学問寺」としての
性格を持つ寺院として、江戸時代には多くの学匠を輩出している寺院です。
「総本山智積院」の総門です。

東山通に面していますが、普段は使われて
いないようです。
境内にある冠木門です。

奥に見えるのが「金堂」です。
冠木門を抜けると拝観受付の案内板が
あります。
前庭の様子です。
前庭にある「延命子育地蔵大菩薩」です。
信者からの奉納です。
智積院境内の地図です。

左下が総門ですが、境内への入場は
冠木門の前の道路から入ります。

冠木門から左手、延命大地蔵の前を通り、
拝観受付をします。

拝観受付の後、収蔵庫の前を通り、
唐門から講堂の前を東へ回り、庭園横から
大書院に入り、書院、大玄関、講堂の内部を
参観の後、再び参道へ出て、金堂へ向かいます。
時間の関係で今回は大師堂と密厳堂は
スキップして、学侶墓地から明王堂へ回り、
智専之鐘の横を通り抜けて冠木門へと戻りました。

大書院、講堂には各種の襖絵が並んでいますが
全てレプリカで、本物は収蔵庫(宝物館)に
保管されています。
「収蔵庫(宝物館)」です。
内部へ入れるのかどうか判らず
素通りしました。

「唐門」です。
講堂・大書院にはここから入ります。

門の奥に見えている五色の幕は講堂の
廊下に掛かっている物で、五色はお釈迦さまの
御体や御教えを表す色.なのだそうです。
唐門を入ってすぐのところにある
「高浜虚子句碑」です。

「ひらひらと つくもをぬひて 落花かな」

1930年(昭和5)に虚子が智積院を参拝
した折に作られた句です。

この道を通って庭園へと向かいます。
「利休好みの庭」と伝えられるこの庭園は、
豊臣秀吉が建立した祥雲禅寺(しょううんぜんじ・
智積院の前身のお寺)時代に原形が造られました。
左手は大書院です。奥は宸殿です。宸殿は
寺院内部用で参観はできません。

右手の築山は別に正面からの写真がありますが、
中国の廬山をイメージしたものと言われています。
大書院から眺める庭園です。

正面の築山は中国廬山を模したと言われて
います。

手前の石橋は青石を二枚繋げており、桃山時代の
祥雲禅寺の遺構とも言われています。

左は大書院の全体です。
左手の襖絵は長谷川等伯の楓図などです。

右の上段の間には等伯の「松に葵図」(複製)が
描かれています。

左は等伯の息子長谷川久蔵筆の「桜図」(複製)です。
久蔵25歳の時に描いたもので遺作とされています。

右は 長谷川等伯の障壁画「楓図」(複製)です。
息子・久蔵の急死の後に完成し、絵には父の
悲哀が表されているともいわれています。

左は大書院の手前の部分です。

右は大書院から眺める庭園です。
大書院と講堂の間にある内庭です。
中央に石と波紋を表す白砂、周囲に植栽がある
枯山水庭園です。この庭の周囲を回って講堂の
西(正面の建物)に行きます。
講堂から大玄関にでます。
大玄関から見る総門とその向こうに七条通が
見えています。
総門から大玄関への道は閉鎖されています。

左手は大玄関の様子です。

右は大玄関使者の間の「布袋唐子嬉戯の図」です。 明治大正期の画家・月樵(げっしょう)上人
(田村宗立)の南画作品です。
講堂の集会所に、後藤順一(1948-)の、
「浄」8面があります。
講堂から眺める西側の庭園です。
左は講堂の金剛の間にある田淵俊夫の描く
「夏」;めだけ(左)とけやき(右)です。
これ以外にも「春」「秋」「冬」の合計60面が
あります。夫々撮影禁止になっています。
この一枚は張り紙に気付かず撮ったものです。

右は百雀の間の後藤順一が描く「百雀図」です。


左は後藤順一の「百雀図」(右側)99羽の雀が
描かれています。

右は講堂の不二の間にある内陣と本尊です。
この手前の両側の襖絵は田淵俊夫の描く
夕陽と朝陽が描かれています。写真撮影は禁止です。この一枚は講堂の外から撮ったものです。

参道と「金堂」です。

総本山智積院の中心的な建物であり、
金堂と呼ばれています。

以前の金堂は、1701年(元禄14)智積院
第10世専戒僧正が発願し、桂昌院(徳川5代
将軍綱吉の生母)より与えられた金千両を基に
学侶からの寄付金を資金として、1705年(宝永2)
春に建立されました。その後、1882年(明治15)
に火災により焼失しました。

その後、 宗祖弘法大師のご生誕千二百年の
記念事業で1975年(昭和50)に再建されました。

画面にポインターを置くと金堂の拡大画面が
ご覧頂けます。

明王殿は不動明王を本尊として祀っているので、
不動堂とも呼ばれています。

もとは四条寺町にあった浄土宗の名刹、
大雲院の本堂であったものを、智積院の本堂焼失後、
譲渡されたものです。
本尊の不動明王像は、興教大師(こうぎょうだいし)
の作と言われ麦搗不動とも呼ばれています。

明王殿を左斜めから眺めています。
金堂の東側は白梅、紅梅が満開です。

左手は金堂です。
 
金堂の後ろにある「学侶墓地」です。

江戸時代に智積院で修行途中で亡くなった
学僧たちの墓地です。
江戸時代、智積院で修行する僧は1600人に
及んだと伝えられています。

境内にある「智専之鐘」です。

豊国神社にあったものが、江戸時代の1667年
(寛文7)に移築されています。
東山通に延びる智積院外壁です。
石垣と白壁が重厚さと規模の大きさを表しています。
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