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飫肥は戦国時代、飫肥城の覇権をめぐって伊東家と 島津家の間で激しい合戦が繰り広げられ、合戦は 80余年にわたって続きました。 伊東義祐は、飫肥城主の島津忠親を打ち破り、 念願であった飫肥城を奪いますが、すぐに島津氏の手に 戻りました。 その後、1588年(天正16)、豊臣秀吉の命により、義祐の子・ 祐兵(すけたけ)が伊東家の居城として入城し初代藩主となり、 飫肥城下の建設に取りかかりました。 以降、明治初期まで280年間、伊東家は14代にわたって飫肥藩を 治めました。 しかし、明治維新間もない1869年(明治2)、伊東家が 大手門前の豫章館に移り、1873年(明治6)には、 飫肥城内の建物全てが取り壊されました。 大手門は1978年(昭和53)6月に樹齢100年の 飫肥杉を使用して復元されました。 城跡の敷地内には、「歴史資料館」や「松尾の丸」があります。 また、大手門に向かって左手には、明治になって城主が 移り住んだ「豫章館」。右手には飫肥藩の学問所・藩校 「振徳堂」や武家屋敷、石垣が残っており、小京都とも 呼ばれています。この地域は国の重要伝統的建造物群 保存地区に選定されています。 |
「長倉」です。 1874年(明治6)に小村寿太郎の父 小村寛が総代人の「飫肥商社」を設立 しました。 1881年(明治13)以降、伊東家が 管理し長倉として利用していたそうです。 この長倉は飫肥城下に残る唯一の ものであり、同時に飫肥藩役所として 残る唯一の建物となっています。 現在内部は「おび天蔵」という 郷土料理のお店になっています。 内部には歴史的展示物もあります。 ここで買った天ぷら(飫肥天)は 美味しかったです。 |
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長倉(左手)の前から眺める 大手門に向かう通りです。 正面奥が大手門になります。 石垣に囲まれた武家屋敷が 並んでいます。 |
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大手門手前にある「豫章館」の入口、 薬医門です。 豫章館は藩主、後に飫肥県知事の 伊東祐帰の居宅でした。 |
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豫章館の主屋の玄関です。 | |
豫章館の主屋の全景です。 飫肥城内でも格式の高い 典型的な武家屋敷づくりになって います。 豫章館の詳細は下記のボタンから お入り頂けます。 |
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豫章館の向かいにある 「伊東祐正家住宅」の入口です。 この奥には小村寿太郎記念館もあり、 その入口も兼ねています。 記念館入口は武家屋敷通りにあります。 |
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武家屋敷通(横馬場通)から入る 小村寿太郎記念館です。 小村寿太郎は 飫肥の生んだ明治の 偉大な外交官です。数々の功績が ありますが、日露講和条約 (ポーツマス条約)締結が最も 有名でしょう。 1855年9月生まれで、1861年に 藩校「振徳堂」に入学しました。 振徳堂を優秀な成績で卒業し、14歳で 長崎に留学し、17歳で明治天皇を前に 講演を行っています。 20歳でハーバード大学に入学し、 その後、外務省に入省しました。 1901年46歳で外務大臣に就任し、 1905年9月5日に日露講和条約を アメリカのニューハンプシャー州 ポーツマス市で調印しました。 |
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伊東祐正(すけまさ)住宅です。 内部には入れません。 伊東祐正は江戸時代の武士で、 元は旗本の嫡男で、父の切腹後 母方の飫肥を頼り、成瀬祐正と 名乗りましたが、帰参叶わず、 伊東内膳祐正と改名し、失意のまま 松尾の丸で生涯を終えています。 |
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大手門です。 飫肥(おび)城の大手門は、明治時代 初めに取り壊されましたが、1978年 (昭和53)6月に樹齢100年の飫肥杉を 使用し、復元されました。 木造渡櫓二階建て、本瓦葺の重厚な 造りの江戸時代の櫓門です。 高さ2.33メートル 樹齢百年の 飫肥杉四本を使用しています。 |
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大手門の裏側です。 お城の石垣などは一部残されて いたようです。 |
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大手門に続く通路です。 石段を登り、左へ行くと「松尾の丸」、 右へ行くと「歴史資料館」へでます。 |
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杉木立に囲まれた城址です。 | |
「松尾の丸」です。 飫肥城復元事業により、1979年 (昭和54)に、江戸時代初期の 書院造りの御殿として、在来工法を 使用して建設されました。 復元ではなく、江戸時代の建築を 考証して建てられています。 |
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玄関の間に有った鎧兜です。 |
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湯殿は、こけら葺きの総桧づくりの 蒸し風呂となっています。 国宝である西本願寺の飛雲閣のものを 模した桧造りです。 |
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飫肥城歴史資料館です。 館内には飫肥城に関わる資料などが 展示されています。 |
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大手門の右手、横馬場通には 空堀が残っています。 |
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武家屋敷通り(横馬場通)です。 石垣と植え込みの塀が続きます。 この通りの先左手に小村寿太郎生家 があり、右の白い蔵は服部亭、 この通りの終わりに伊東伝左衛門の 住宅が有ります。 |
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小村寿太郎生家です。 画面にポインターを置くと 別角度からの住宅がご覧 頂けます。 |
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「服部亭」です。 飫肥御三家のひとつとされ、 江戸時代から続く山林王・服部家の 約100年の歴史を持つ旧邸宅で 由緒ある建造物です。 現在はこの屋敷を利用した 割烹・小料理のお店になっています。 |
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武家屋敷通(横馬場通)と 八幡馬場通(右手の通り)の 角にある伊東伝左衛門家の 石垣です。 左手奥は伊東家の庭になります。 |
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伊東家への入口です。 長い石段と石塀がその格を 想像させます。 |
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伊東伝左衛門は幕末に家老職を勤めた 人物で、屋敷は1800年代半ばから 末期にかけての建築と言われています。 かつての屋敷は900坪ほどの広さが あった様ですが、現在はその主屋部分と 南側の庭園部分が残っているだけです。 建物は豪華と言う訳ではなく、 やや質素な感じです。 |
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伊東家門前から眺める 田ノ上八幡神社です。 神社の創建は1110年(天永1)と されています。もとは楠原八幡原に 鎮座してましたが、1588年(天正16) に伊東祐兵が飫肥に復帰した際に 現社地に遷座させたと言われています。 |
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神社の手前を左に入った所に 「旧藩校振徳堂」が有ります。 1831年(天保2)、藩主伊東祐相が 飫肥藩の藩校として設立した建物で、 高さ2m以上の高い石垣に囲まれた 広い敷地内に長屋門と主屋が 保存されています。 これは長屋門です。 |
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藩校の主屋です。 画面にポインターを置くと 建物の内部をご覧いただけます。 |
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藩校の玄関です。 「振徳堂」の額が掛かっています。 |
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