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岩手県は日本で北海道に次いで面積が大きい県です。 ただ、可住面積は25%弱しかありません。 人口は約130万人ですが、そのほとんどが北上盆地に集中しています。 藩政時代の伊達藩北部地域と、南部藩南の地域が 現在の岩手県になります。岩手県の北部が南部地区となります。 岩手県は大学生の時に一人旅で回りました。遠野市では公民館に 泊めてもらい、その日の地域の野球大会の打ち上げ会に飛び入りで参加 させてもらったのは良い思い出になっています。 NHK朝ドラの「あまちゃん」人気で陸中海岸の三陸鉄道が人気になっています。 久慈駅には沢山の観光客が集まっていました。 列車は指定席がなく、立っている人もいました。 宮古から釜石までのJR山田線には乗車経験がありましたが、 三陸鉄道は乗ったことがなく、今回の旅行で、この線の乗車も一つの目的でした。 ただ、車窓からは思ったほどの景観は見られませんでした。 今回の旅は秋田、青森を経由して、野辺地から三沢市を通り、八戸自動車道で 九戸ICより軽米町経由久慈へ出ました。久慈からは三陸鉄道に乗車。 普代まで乗り、再びバスで岩泉から盛岡に出ました。途中に龍泉洞(鍾乳洞)が ありますが、今回は時間の関係でスキップでした。 盛岡駅から新幹線「はやぶさ」で東京駅へ戻りました。 |
青森県から八戸自動車道で岩手県に 入りました。 ここは軽米町にある爪折PAです。 正面に見えるのは爪折岳(852m)です。 画面にポインターを置くとPAの 様子もご覧いただけます。 |
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折爪PAからすぐの九戸ICから久慈市へ 向かう途中にある久慈渓谷の景観です。 |
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久慈川は国道に沿って流れています。 車窓からのショットではなかなか上手く 撮れませんが、眺めとしては好い景色です。 |
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久慈駅(三陸鉄道)です。 小さい駅でした。 画面にポインターを置くと JR久慈駅もご覧いただけます。 こちらの方は駅らしい駅です。 |
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久慈駅前です。 NHK朝ドラにもしばしば登場したと 説明がありました。 よく覚えていないけど… |
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駅前にあった石碑です。 小田観蛍の歌碑です。 久慈市出身の小田観蛍は1886年生まれ、 1900年には北海道に渡り、その後教員の 生活を50年間続けました。 あちこちに観蛍の石碑はあるようですが、 久慈駅前の歌碑には 「ふるさとの わが陸中よ 久慈駅の ホームに今ぞ 歓迎の人ら」 と刻まれていました。 昭和30年故郷吟行の折の作と記されて いました。 |
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久慈駅のホームです。 左手はJR久慈駅のホームで、此処から 八戸まで繋がっています。その先は 青い森鉄道に繋がります。 右手のホームは三陸鉄道久慈駅ホームです。 先に車止めが見えるように、此処が始発で 宮古市まで繋がっています。 画面にポインターを置くと反対のホームを ご覧いただけます。JRのホームです。 下は三陸鉄道久慈駅の駅表示板です。 副題に「琥珀いろ」とありますが、久慈市は 日本で最大の琥珀産出量を誇っています。 |
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この車両が今回乗車したものです。 思いの外洒落たレトロな車両でした。 「日本宝くじ協会」の表記があり、 多分宝くじの分配金で建造された 車両でしょう。 車内も結構洒落ています。 画面にポインターを置くと車内の 様子もご覧いただけます。 |
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他にはこのような車両もあります。 ミュージックセラピーの会社デラが 東北復興のために寄贈した車両の ようです。 |
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久慈駅を出てすぐに長内川を 渡ります。この辺りでは海からも 距離があります。 川では釣り人が楽しんでいました。 |
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陸中野田まで来ると海岸線に出ます。 まだ、復旧工事が進められており、 海沿いには全く人家が見られません。 堤防もまだ出来上がっていませんでした。 既に震災後3年経過しているのに… |
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同じく陸中野田近辺です。 樹木だけが残っていました。 補修用資材が山積みになっています。 |
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この辺りは堤防も水門もほぼ出来上がって いるようです。 ただ、周辺には何も建物はありません。 |
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野田村の海岸線です。 国道は復旧しているようです。 左手岬は久慈市宇部町です。 この辺りで列車が一時停車します。 北リアス線の中でも景色のよい 場所のようです。 |
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野田玉川近辺の港と海岸線です。 左手は野田湾になります。 |
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譜代村堀内(ほりない)にあった 夫婦岩です。 注連縄で繋がれています。 大きさでは伊勢の二見が浦の 夫婦岩より大きいそうです。 |
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譜代堀内港です。 | |
譜代駅手前の岬です。 リアス式陸中海岸の一部です。 |
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譜代駅です。こじんまりとした駅です。 駅の表示板には 「はまゆり咲く 譜代」とあります。 はまゆりは普代村の村の花だそうですが、 今回は見当たりませんでした。 |
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譜代駅より再びバスに乗車、 海岸沿いの県道44号線を走って 北山崎に向かいます。 駅を出てすぐに見えるのは譜代水門です。 譜代川の海から300mくらいの場所に 造られた高さ15.5m、幅205mの大きな 水門です。 1984年の完成です。当初は水門が 大きすぎると批判されたそうですが、 村では過去1896年、1933年の二度に わたり、津波被害を受けており、村長が 二度あることは三度あってはならないと 高さ15m以上を譲らず、出来上がったもの だそうです。 結果的に2011年の大津波ではこの水門が 効果を発揮し、普代村では死者ゼロ、 被災民家もなしと言う事だったそうです。 近隣の高さ10mの水門の多くは越水や 破損で機能しなかったようです。 画面にポインターを置くと海側から見た 水門の状況をご覧いただけます。 |
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譜代水門の外側の海です。 譜代浜海水浴場になっています。 |
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県道44号線を南に下り海岸方向へ 向うと、北山崎に出ます。 北山崎は陸中海岸の中でも財団法人 日本交通公社の全国観光資源評価の 「自然資源・海岸の部」で国内で唯一、 最高ランクの特A級に格付けされた 景勝地です。高さ200mもの断崖に、 太平洋の荒波洗う奇岩怪石、 大小さまざまな海蝕洞窟と、ダイナミックな 海岸線が約8kmにもわたり続きます。 この日はガスが出ており、遠くの見通しが 悪かったので、思ったほどの景観には なりませんでした。 北山崎の様子は下のボタンから お入り頂けます。 |
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北山崎を出て矢越岬の近くにある 漁師の番屋(漁師小屋)です。 机浜番屋は震災ですべて流され、 現在再建中です。 3年たってもこの状態です。 番屋とは漁師が作業用に使ったり 宿泊したりする小屋の事です。 机浜番屋は昭和8年の津波被害で 流された後に再建され水産庁指定の 「未来に残したい漁業漁村の歴史 文化財百選」にも選ばれていました。 |
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陸中海岸弁天崎付近の景観です。 | |
県道44号線から見る 陸中海岸の景観です。 |
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明戸近辺ではまだ堤防が崩壊した ままで改修工事もされないままに なっている個所もありました。 人家は全くありません。 手前で工事中の箇所がありますが、 何を作っているのかは判りませんでした。 |
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別の個所でも防波堤が破損したまま 残されている場所があります。 津波の激しさを偲ばせる光景です。 |
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県道44号より弁天崎を眺めています。 | |
田野畑村羅賀地区のランドマークでもある 「ホテル羅賀荘」は、震災の大津波が 4階まで押し寄せ大きな被害を受けました。 宿泊客全員は内陸の安全な場所に バスで移動し、従業員も安全な4階より 上の階まで避難して一人の犠牲者も 出すことなく難を逃れることができた そうです。 平成24年11月21日にリニューアルオープン しています。 |
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平井賀海水浴場のそばです。 | |
津波にあった三陸鉄道の高架鉄路の 一部が残されています。 車両も一両乗っかっています。 津波の爪痕を残すのでしょう。 |
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海岸を離れて県道44号線は岩泉方面へ 向って山へ入ります。 羊腸の如き道を進むと遥かに太平洋も 望めます。 |
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県道44号線から国道455線に 入ると、傍を小本川が流れています。 |
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盛岡市の地方裁判所の敷地内に ある石割桜です。 巨大な花崗岩の割れ目から育った直径 約1.35m、樹齢360年を越える桜の木です。 車中からの為少し見難いですが、 岩の中から桜の木が出ています。 |
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盛岡市内を流れる中津川です。 |
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盛岡の酒蔵「あさ開」を見学しました。 時期外れのため、酒造りはしていなく、 設備の見学のみでした。 皆さん沢山お酒を買っていかれました。 画面にポインターを置くと 工場の建屋がご覧いただけます。 |
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盛岡城址公園の入り口です。 県庁の前にあります。 |
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北上川の先に薄らと岩手山が見えます。 |
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盛岡駅南口です。 画面にポインターを置くと 駅の画面右手方向をご覧頂けます。 |
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盛岡駅南口を出て通りを渡った 所にある「ぴょんぴょん舎」と言う お店で盛岡冷麺を食べました。 焼肉屋さんですが、冷麺だけを 食べてきました。そこそこの味です。 平壌を故郷に持つ料理人がふるさとに 思いを馳せて、盛岡で冷麺を作ったのが 盛岡冷麺の始まりなのだそうです。 盛岡冷麺の特徴は麺を小麦粉とそば粉で 作るのではなく、馬鈴薯澱粉と小麦粉で 作っていることです。 |
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盛岡駅構内に飾ってあった 盛岡八幡宮例大祭に使われる山車です。 300年前に始まったお祭りだそうです。 盛岡市の指定無形民俗文化財です。 下は「はやぶさ32号」グリーン車です。 盛岡出発時刻到来です。 今回の旅はここで終わりました。 |
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