バルカン半島
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ボスニア・ヘルツゴビナ
ボスニア・ヘルツゴビナはボスニア・ヘルツゴビナと
スルプスカ共和国(セルビア人共和国)の連邦共和国です。
国土面積は5.1万㎢で北海道の約3/5になります。
人口は約380万人が住んでいます。
首都はサラエボです(ここも今回訪問できませんでした)。
この地域は18世紀にはオスマン帝国の傘下に入り、その後は
「火薬庫」と呼ばれるようにオーストリア・ハンガリー帝国や
ロシア帝国の争いの場となり、第二次世界大戦時にはドイツ・ナチス
管轄の下クロアチア独立国の傘下に置かれ、終戦後は
社会主義国としてユーゴスラビア連邦国の構成部分となり、
1946年ボスニア・ヘルツゴビナ人民共和国となりました。
1992年に国民投票でユーゴスラビアからの独立を果たしましたが、
その後は民族的な争いによる内戦状態となり、
1995年に国連の調停で内戦は終息し、
ほぼ、現在の状態になっています。ただ、民族間の綱引きは
変わることなく、各民族ごとの政党が結成されており、
政治的にはなかなか大変な国のようです。
今回はモスタルへ行っただけで途中は車中からの眺めのみで
実際の生活に接する機会がなく、民衆の実態は殆ど
わかりませんでした。

ただ、外観ではまだ内戦当時の残骸も残され、激しかった民族抗争の
状態を窺い知ることもできました。

ネウム Neum
ネウムはボスニア・ヘルツゴビナの唯一の海岸線で、ネウムのある街の間ほぼ10km弱
くらいがクロアチアの国を二分しています。向いの半島はクロアチアです。
海岸線には大きな港もなく、歴史的な政策によりあえてこの部分をドブロヴニクを守るための
緩衝地帯とした結果のようです。
この部分を通過するには税関を通る必要がありますが、観光客は殆どスルーパスのようです。
シェンゲン条約により現在新しい税関が建設中でした。間もなくの開通だそうです。
今回モンテネグロへ向かう時とドブロヴニクからモスタルへ向かう時の2度通過しました。
休憩に立ち寄った
パーキング場からの
ネウムの街の
鳥瞰です。
ダルマチアの美しさを
もった海と街並みです。
ネウムの街の様子です。
アドリア海沿岸の街は
崖の間に家があり、
どうしてもこういう形に
なるようです。
手前の岬は半島です。
奥に見えるのは島になります。
雪のように見えるのは
石灰岩です。
この地点から三つ目の
岬あたりまでが
ボスニア・ヘルツゴビナの
領土になっています。
ボスニア・ヘルツゴビナの
南側国境近くの景観です。
現在使われている税関の設備です。
ボスニア・ヘルツゴビナからクロアチアへ
ぬける時のものです。
これ以降は税関にカメラを向けないようにと
言われたので、最初で最後の写真と
なりました。
シェンゲン条約締結国の場合は
素通りとなるので、何時通ったか
殆どわかりません。
シェンゲン条約に基づき
新しい税関が作られています。
殆ど出来上がっていました。
モスタル Mostar
モスタルはヘルツゴビナ地区の最大の都市です。ボスニア・ヘルツゴビナの北寄りはボスニア地方、
モスタルを中心とする南寄りはヘルツゴビナ地方となっています。全体では5番目の都市です。
モスタルが都市化したのはオスマン帝国時代になります。
ネレトヴァ川に架かる橋は1566年に木のつり橋から石橋に変わり、モスタルは往来の中心地となったようです。
この橋はスタリ・モストと呼ばれ、今回のボスニア・ヘルツゴビナへの訪問はこの橋を見るのみとなりました。
スタリとは橋の意味、モストとは古いの意味です。モスタルはその橋を守るとの意味もあるそうです。
1993年に破壊されたこの橋は1999年以降に復興に取り掛かり、2004年に再建されています。
これに伴いモスタルの市街も順次復興されたようで、2005年に世界遺産に登録されています。
今回クロアチアのドブロヴニックから向かいましたので、ネウムまで戻り、更に一旦クロアチアへ出て、
再びネレトヴァ川沿いにモスタルへ入りました。
ドブロヴニックからモスタルへ向かう際に、
ネウムを通り抜け一旦クロアチアへ出ますが、
ネレトヴァ川の下流はクロアチアに属し、河口には
プロチェと言う都市があります。
この地域は川のおかげで肥沃な土地となって
いるようです。クロアチアのダルマチア海岸線の
風景とは全く異なる景観を見られます。
オプセンと言う町からネレトヴァ川に沿って走り、
メトコヴィッチで国境を越えます。
ネレトヴァ川に沿って走る途中でクロアチアと
ボスニア・ヘルツゴビナの国境を通過しますが、
止まることなく通過するので、何時通りすぎたのか
判らないうちにボスニア・ヘルツゴビナに入って
いました。
国境を過ぎたチャプリナあたりの景観です。
内陸に入るので、海岸線の風景とは
まるで違います。
今回ここでだけ鉄道車両を見掛けました。
この鉄道はネレトヴァ川河口の街プロチェから
モスタルを経てサラエボを繋ぐ鉄路です。
クロアチア部分もボスニア・ヘルツゴビナが
運行を担当しているそうです。

画面にポインターを置くと
クロアチア内の鉄道線路をご覧いただけます。
この辺りの山も石灰岩でできており、
殆ど樹木らしい樹木がみられません。
川をどんどん遡ってゆきます。
ところどころに現れる村はこじんまりとして
静かなたたずまいを見せています。
モスタル市内に入る前に山の上に
十字架を見つけました。
川を挟んで西側はカトリック教徒が多いようで、
このクロスも何か意味があるのでしょうが、
詳細は聞き漏らしました。

画面にポインターを置くと
⑫のレストランから眺めたクロスも
ご覧いただけます。
モスタル市内スタリ・モスト(古い橋)近辺の
地図です。
ネレトヴァ川を挟んで上の方はカトリック地区、
下はイスラム地区となっているようで、
下の地区にはモスクが数多く見かけられます。
モスクの数は35あるそうです。
丸数字は以下の写真の場所を示すもので、
写真の一部に説明を付けています。
⑦でバスを降り、川沿いにスタリ・モストまで
歩き、そのまま①~③方向へ向かいました。
⑧の近辺から再びバスに乗車し、
⑬で昼の食事をとりました。
⑩の位置でバス座席の反対の窓側から
橋の様子を撮りました。一瞬のチャンスでした。
橋のこちら側の写真はこれ一枚です。
モスタルの駐車場⑦からの遠望です。
ボテイン山(1967m)には雪が残っていました。
⑦をでてすぐの交差点にあった
建物です④。銃弾の跡が生々しく残されています。
戦闘の激しさを偲ばせます。

画面にポインターを置くと
街中の他の建物の壁面もご覧いただけます。
⑥破壊された建物が戦乱後もそのまま
残されています。
これは意図的に残しているそうです。
抗争の悲惨さを忘れさせないためのようです。
水路は内戦後も変わることなく流れて
いるようです。
この石橋⑤も有名だそうです。
Kriva Cupuria(Aslant Bridge)と
表示されていましたが、
スタリ・モストと同じ形で、元の橋は1557年に
造られ、スタリ・モスト建設のためのテスト用
とも言われています。
1966年の洪水で流され、2003年に修復
されています。旧市街の復興に合わせ
改修されたそうです。
石橋の見える場所を過ぎたあたりから
土産物屋が並んでいます。
各種各様の品が並んでいます。
イスラム系と思われる親子?孫と祖父?が
店の前で食事をとっていました。
⑩の橋を上流から眺めています。
川の流れは滔々と言う感じです。
橋の名前はPort Bridge(Luciki Most)
になっています。
比較的新しい橋でしたが年代は判りません。
橋の袂からのスタリ・モストの眺めです。
狭い場所に人が集まって写真を撮るので
スリの絶好の働き場所になっているようです。
当初の建造は1557年で9年間かけて完成
しています。内戦で1993年に破壊された後、
1995年からユネスコにより復旧工事が
始められています。
橋の復旧に伴いこの周辺の街並みも
修復されています。
橋の上から水面までは21m、水深7mあります。
橋を通るのは無料ですが、橋から川に飛び込む
にはお金がかかるそうです。
橋の上から上流を眺めています。
右手はイスラム地区、モスクが
あちこちに見られます。
正面のドームは②のモスクです。
もともと25あったモスクは現在35か所
あるそうです。
橋を渡った場所からの橋の様子です。
正面の鐘楼は聖ベータ―教会です。
1847年に建てられた教会は1993年に破壊
され、その後2004年に再建されました。

その左下にはフランシスコ修道院があります。

橋のたもとの建物はやはり修復されたものです。
もともとは武器庫などに使われていたそうです。
①の通りの様子です。
路面は石畳で健康ロードとも称するそうです。
石が足の裏に当たってマッサージするような
感じだからでしょうか。
両側は店屋さんが並んでいます。
③にマーケットがあります。
そこからの橋の眺めです。
一番綺麗に見える場所のようです。
画面にポインターを置くと別の角度の
橋をご覧いただけます。
⑨にあるモスクです。手前は墓地になって
いました。
⑧にイスラム文化センターが有りました。
この地区のトルコとの関係の深さを
示しています。

画面にポインターを置くと
旧市街にあるトルコの出先機関を
ご覧いただけます。
②のモスクの様子です。
1617年に造られています。
柱が6本ある清めの池です。

ポインターを画面に置くと
本堂がご覧いただけます。
裸の男の人はお金を払うと川に
飛び込んでくれるそうです。
飛び込むにはお金がかかるからです。
スタリ・モストは飛び込みでも有名で、
以前日本のテレビで、民族の異なる
青年が飛び込みを実現させるまでの
ドキュメントを放映していました。
現在はお祭り化しているようです。
⑪の眺めです。右側にはレストランがあり、
川の流れと橋を眺めながら食事が
出来るようになっていますが、残念ながら
レストランへ降りることすら叶いませんでした。
⑬にあるレストランです。
画面にポインターを置くと
店内の様子もご覧いただけます。
昼食はチェバブチチ(クロアチア風
ハンバーグ)でした。結構いけます。


下左は前菜(名前忘れた)、
下中はデザートのケーキ(甘かった)
下右は地場のビールです。
⑫のチトフ橋です。
1996年、街の復興と同時に
建設された橋のようです。

画面にポインターを置くと
橋の袂の年代板をご覧頂けます。
橋の向こうはイスラム地区です。
やはり斜面に住宅が建てられています。
山容も結構厳しい感じです。
新市内の住宅です。
社会主義国独特の建て方で
同じようなスタイルが多いです。
国境に近い風景です。
湖が見えていました。
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