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クロアチアはクロアチア人が90%以上を占めるアドリア海に面した人口約430万人の国です。
面積は九州の約1.5倍、公用語はクロアチア語です。
10世紀前半に成立したクロアチア王国をスタートに幾多の変遷を経て、1991年に共和国として独立しました。
第二次大戦後はユーゴスラビアの構成国として社会主義国の一員でしたが、セルビア人との抗争が激しくなり、
1991年の国民投票を経て同年6月に独立しました。然しながら、セルビア人との抗争は激化し、9月に
ユーゴ軍との戦闘に突入「クロアチア紛争」は1995年の終戦まで続きました。この結果セルビア人は
クロアチア国内から脱出しユーゴに移住しています。クロアチア人の占める比率の高い原因でもあります。
国土は一部ボスニア・ヘルツゴビナにより分断されています。これも歴史的な原因によるものです。
クロアチアは左図のように島の多い国です。1168の島があり、 66の島に人が住んでいるそうです。 ダルマチア式海岸と言うようです。起伏の激しい山間部が 沈降して出来る海岸線にはリアス式がありますが、 これは海岸線に対して垂直に沈降したもので、ダルマチア式は 海岸線に平行に沈降したもので、そのため島も細長い島が多く、 また、入り江が深く入り込み、更に半島状の岬が多くなっています。 今回は北部のイストラ半島から南下して、中部のクルカ国立公園、 スプリット、南のストン、ドブロヴニクを回り、再び北上して プリトヴィツエ国立公園を訪ね、ザグレブの西を通り抜けて オーストリアのグラーツからフランクフルト経由帰国しました。 クロアチアの北部イストラ半島、中部ダルマチア海岸地方、南部の ドブロヴニクの3地域に分けて写真を掲載しています。 路程の関係でプリトヴィツエは南部に編入しています。 |
イストラ半島 | ダルマチア海岸 | ドブロヴニク | プリトヴィッチェ国立公園 |
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イストラ半島はアドリア海の北奥にある半島でイタリア、スロベニア、クロアチアの三国に跨っています。 1815年に半島はオーストリア帝国の領土となり、第一次世界大戦後の1918年にはイタリア領になり、 第二次大戦後は東西関係から国連管轄の非武装地帯となり、1954年に三国の境界が確定し、更に、 1975年のオージモ条約により現在の国境が確認されています。 |
クロアチアで最初に泊まったのは オパティアです。 別荘地帯と言うことで、トップシーズン には短期の旅行者はなかなか泊まれ ない場所だそうです。 翌日、イストラ半島のポレッチ、ロヴィ二、 プーラと西側海岸を回りオパティアに戻り ました。 図の上部にイタリア・トリエステとありますが、 出発日のLH航空のストライキで、イタリア航空に 便が変更され、ローマ経由ここへ飛び、 ここからバスでスロベニアに入り、 翌日ボーヒン、ブレッド、ポストイナ経由で オパティアへ向かいました。 半島名はクロアチア語ではイストラ、イタリア語では イストリアとなるようです。ここではクロアチア語 を採っています。 |
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「クロアチアの貴婦人」と称されるこの地はかってハプスブルグ家の貴族たちの別荘地となっていたそうです。 イストラ半島の東北の端に位置しています。 街の中心には昔の豪商が作った庭や別荘があります。これらは現在ホテルとして使われているようです。 我々のホテルの裏山は公園になっており、海と花の楽しめる街です。ただ、ゆっくりと見て回るほどの時間もなく、 我々のような短期旅行者は別荘街には不向きな旅人でした。 |
スロベニアから国境を越えてクロアチアに 入りました。夕方のオパティアの眺めです。 海岸沿いの右手少し出張っているところが オパティアの中心地です。 |
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我々の泊まったホテルオパティアホテルの 前庭です。綺麗に刈り込まれています。 |
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ホテルから街を眺めています。 右手のドームはマリア教会?(Crkva Marijina Navjestenjaと表記されていました)です。 街中は瀟洒な建物が多いです。 |
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街中の海岸べりに出ました。 砂浜ではなく、すべてこのような コンクリート造りになっています。 夏場の海水浴には便利かも。 |
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海岸沿いの建物です。 地元の人でしょうか、旅行者でしょうか、 おしゃべりに花が咲いていました。 |
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お父さんと一緒に来ていた 姉と弟の兄弟はアイスクリームを 食べていました。 |
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海岸沿いの岩場にはこのような彫像も 立っていました。 「少女とカモメの像」だそうですが、 謂れは判りませんでした。 カモメを手に乗せている少女の頭に 丁度カモメが休んでいました。 海の向こうはイストラ半島の東海岸です。 |
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オパティアの東寄りの街並みと 右寄りは隣町のVolosko(ボロスコ)です。 |
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海岸が少し突き出た場所に ヴィラ・アンジェリーナがあります。 ここの庭はきれいに手入れされていて、 自由に出入りできます。 |
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こんな大理石の噴水もありました。 | |
これはミレニアムホテルです。 聖ヤコブ公園の近くにあり、 海と緑の美しい場所にあります。 ポインターを画面に置くと 気持ちよさそうなラウンジの様子も ご覧いただけます。 |
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メインストリートから少し入ったところに 警察署がありました。 お巡りさんはいませんでした。 |
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ホテルの裏にあるマルガリータ公園です。 結構色々な花が咲いていました。 画面にポインターを置くと 庭の内部もご覧いただけます。 |
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オパティアから半島の北寄りを通り、 ポレッチェへ向かう途中の風景です。 低い丘に囲まれた平坦な地域でした。 |
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街中にあった案内板です。 記憶に基づき書き込んでいますが、 一部自信のないところもあります。 街の大体の感じが掴んでいただければと 思います。 ほんとに小さい範囲の街です。 |
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ポレッチェの駐車場近辺です。 | |
市内は総て徒歩観光となります。 スロボダ広場へ向かう道です。 |
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途中にこんなモニュメントがありました。 地場の芸術家の制作作品だそうです。 |
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聖ドミニク教会です。 画面にポインターを置くと 正面がご覧いただけます。 |
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スロボだ広場の一隅に コーヒーショップがありました。 ここでも日当たりのよいところの方が 混んでいました。 |
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五角の塔です。 見た感じは四角のようですが 壁が五面あります。 このような塔が昔は5か所にあった そうですが、現在は3か所あるそうです。 守りの門だったようです。 1447年建造の標識がありました。 |
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五角の塔の前を女性ばかりの集団が 通っていました。 もう完全な夏スタイルです。 日本人は長袖シャツにジャケットまで 羽織ってるのに…・ |
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街の中心街デクマヌス通りです。 色々なお店が並んでいました。 この先を右に入ると聖堂へ出ます。 |
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デクマヌス通りから聖堂の入り口を 眺めています。 |
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聖堂の入り口を入ってすぐに回廊があり ここから八角形の洗礼堂とその先に 鐘楼が見えます。 なんかロボットの顔みたいですけど。 |
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エウフラシウス聖堂の中にある 6世紀の建物の跡にある モザイクです。 エウフラシウス聖堂の詳細は 下記ボタンからお入りください。 |
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聖堂を出たところの通りのです。 石造りのしっかりした建物が 並んでいます。 路面も勿論石畳です。 |
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聖堂を出てすぐに公園があります。 グプカ公園だと思います。 |
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公園のそばに石造りの建物が 残っています。 |
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この建物は13世紀の建物で 木質のバルコニーが残されています。 |
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この石造りの家は何だったっけ?? 13世紀頃の建物だったと思います。 |
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ローマ神殿の遺跡です。 1世紀のものだそうです。 画面にポインターを置くと 別角度の遺跡がご覧いただけます。 |
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遺跡跡から海を眺めると 一番古い灯台が見えます。 画面にポインターを置くと 向かいにある小さい島バルバラン島が ご覧いただけます。赤い灯台が 立っています。 |
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海岸通りからセントニコラ島方向を 眺めています。 春の海は穏やかで深い紺色を していました。 |
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昼の食事をしたレストランです。 海岸通りにあります。 |
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レストランの窓からの眺めです。 | |
昼の食事は魚で作ったペースト(パンと食べます)と魚のフライにムール貝とイカ、デザートはアイスクリーム。食器が凝っていました。 | |
レストランの隣はホテルが並んでいました。 どこの店もテラスを設けていて、 欧米の人は殆ど外で食事をしています。 |
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ポレッチェの市庁舎です。 綺麗な建物です。 周辺は花壇が取り巻いていました。 |
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港からの一枚。 二種類の灯台がそれぞれ味のある 形をしていました。 ヨットも絵になります。 |
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オパティアでもよく見ましたが、 クロアチアの街には結構藤が 咲いていました。 |
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ロヴィニはイストラ半島の西海岸、ポレッチの南寄りにあります。 1283年から1797年までロヴィニはヴェネツィア共和国に支配され、1763年にもともと島で あったところを人口の増加に伴い埋め立てて、地続きとしました。市内には3つの門(元は7つ) があり、これを繋ぐ壁で取り巻かれて要塞となっていました。街の境界は北に長い入り江があり、 人口は1.5万人(旧市街は1.4万人)。クロアチア人が66%を占め、イタリア人も12%ほどいます。 元島の中央には聖エウフェミヤ聖堂が建っており、街の景観の中心となっています。 |
ロヴィニ市街に入る所にある 入り江です。川ではありません。 長さは10km以上あります。 ここがロヴィニ市の境界となって います。 この辺りは養殖産業が盛んだ そうです。 |
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ロヴィニの地図です。 数字は以下の写真の場所を 示しています。 もともとは島であった旧市街を 散策しました。 ポレッチ同様旧市街はこじんまりした 小さい街です。 |
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ツアーの添乗員さんが持っていた 案内書から採らせてもらった 旧市街の鳥瞰図です。 上記の地図と比べてみてください。 |
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地図の@から眺めた聖エウフェミヤ聖堂 と旧市街の情景です。 青い海に浮かんでいるように見えます。 |
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Aバルディブラ広場です。 旧市街への入り口になります。 屋台のスーベニアショップが出ていました。 この辺りではトリュフが採れるので、 結構安く売られていました。 画面にポインターを置くと お店の陳列をご覧いただけます。 トリュフやオリーブ油が並んでいます。 |
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A 広場には花の塔が作られていました。 団体客の集合場所になっていました。 |
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B 旧市街の通りです。 石畳と石造りの家々が並んでいます。 |
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B 同じく旧市街の聖堂へ向かう通りです。 上の通りに比べてカラフルになって います。 |
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C 聖堂への登り口にあった 灯台でしょうか? カモメの泊まっているのが見えるでしょうか。 |
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D 聖エウフェミヤ聖堂の正面 サファードです。19世紀のものです。 鐘楼は17世紀の建造で、 高さ60mあります。 画面にポインターを置くと 登り口からの聖堂の眺めを ご覧いただけます。 |
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聖堂の内部です。 バロック様式の教会です。 華やかな内装と装飾品が 溢れていました。 |
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鐘楼の頂上には車を持つ像があり、 聖堂の頂上には蝋燭をかたどった クロスが掲げてありました。 |
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E 鐘楼からの眺望です。 15分で駆け上がり写真撮って 駆け下りてきました。疲れた〜。 上の写真は3枚をパノラマにした 地図の右手方向の眺めです。 下は同じく右下方向の眺めです。 |
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E 聖堂から見た地図の左下方向です。 |
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E 聖堂から見た地図の左方向です。 |
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E 聖堂から見た地図の左上方向です。 |
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F 聖堂から港へ向かう通りです。 |
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G市庁舎近くの広場です。 広場には必ずテラスか コーヒーショップが出ています。 ゆっくりとコーヒーを飲む時間は 残念ながらありませんでした。 |
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H 広場のすぐ近くに市庁舎がありました。 13世紀の建造物です。 ここロヴィニの市旗は で、画面の旗の真ん中に あります。 正面の上のレリーフは 画面にポインターを置くと 拡大したものをご覧いただけます。 |
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I 市の門(旧市街への入り口)です。 バビルのアーチとも呼ばれており、 バビル家の紋がついています。 13世紀の建造です。 |
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J 門を出ると港が一望できます。 港に向かって立つ像のある 噴水がありました。 茶色の部分は彫刻がされています。 |
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K 港からバルディボラ広場へ戻る 通りです。 どの建物も暖色に塗られています。 |
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バルディボラ広場にある モニュメントです。 手前の二人の胸像は Pino Budicin(1911〜1944) Matteo Benussi(1906〜1951) とありましたが、詳しいことは 聞き漏らしました。 画面にポインターを置くと 疲れたファミリーをご覧いただけます。 |
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プーラはイストラ半島で最も大きい都市です。人口は都市圏には9万人、市内に約6.2万人住んでいます。 この地に人間の住んでいた痕跡は紀元前1万年まで遡ります。新石器時代の遺物が見つかっています。 イストラ半島が紀元前177年にローマによって征服されたことから、プーラは紀元前46年〜45年にかけて ローマの植民地の都市として発展したようです。その後の変遷を経て、イストラ半島がクロアチアの領土となり、 現在に至っています。 市内には円形劇場をはじめローマ時代の建造物がいくつも残されています。今回は短時間の滞在で 円形劇場とアウグストゥス神殿以外は残念ながら見て回れませんでした。 |
プーラの地図です。 深い湾に囲まれています。 旧市街は海沿いに 広がっており、 ところどころにローマ時代の 遺跡の発掘跡があります。 四角い部分が観光の中心と なります。 |
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上図の四角に囲った部分です。 以下の写真は○数字の順に 並んでいます。 中心街(F〜H)の東側に やはり遺跡が幾つかありますが、 今回は西側のみで、東側は 歩きませんでした。 博物館等にも入ることなく、 フォーラム広場で少しコーヒータイム があったのが救いでした。 |
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@ ローマ時代の期限世紀に建設された 円形劇場(コロッセウム)です。 世界では6番目の大きさだそうです。 ほぼ完全な状態で残っていて、保存状態も 良いそうです。もちろん修理、改修は行われて いるようです。 この建物を期限内に作り上げるのに、 期限の日の朝に雄鶏が鳴いた時には まだ天井が出来上がっておらず、青天井に なったそうです。 旧市街の城壁の外側に造られているのは 珍しいとの事でした。 |
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@ 内側から見た状態です。 音響効果が良いので、夏にはここで 音楽祭が開かれるそうです。 白っぽく見える部分は改修されています。 |
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コロッセウムの南側に建っている 聖アントン教会が柱越しに見えます。 A 画面にポインターを置くと 教会の鐘楼がご覧いただけます。 |
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コロッセウムの1階部分には 建設当時の材料、機器類が展示されて います。 画面にポインターを置くと 2000年前にオリーブオイルが 入っていた壺をご覧いただけます。 |
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コロッセウムの回廊部分に獅子の彫刻が 残されていました。 周辺部の家屋建設にこのコロッセウムの 石材が利用され、持ち出されたそうです。 |
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正面からの眺めです。 このコロッセウムをそのままイタリア・ベネチア に移設しようとの話があったそうですが、 地元民の反対に遭い実現しなかったそうです。 |
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B コロッセウムからフォーラム広場へ向かう途中 公園の中に街のソリッドモデルが有りました。 鋳造されたもののようですが、 市内を細かく表現されていました。 海べりの公園では八重桜?が咲いていました。 |
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C 近代的な建物のそばにローマ時代の遺跡が 残されています。 ふーんと言った感じです。 |
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D プーラ大聖堂です。 6世紀には建てられており、10世紀に 拡張され、ヴェネチアの攻撃で一旦破壊 されたそうですが、15世紀には復元され 現在に至っています。 ファサードはルネッサンス期に追加されています。 |
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E 大聖堂からフォーラム広場へ向かう 坂道です。ここも石畳になっています。 |
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E ファサード広場への入り口です。 右手の建物は市庁舎です。 |
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広場の一角は 子供たちの遊び場にもなっているようです。 |
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G アウグストゥス神殿です。 紀元1世紀に建てられ、第二次世界大戦で 破壊されましたが、戦後に再建されました。 現在は考古学博物館の別館だそうです。 右の白い建物は市庁舎です。 画面にポインターを置くと後ろから見た 神殿の状態をご覧いただけます。 |
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H市庁舎です。 神殿を利用しています。 2階に掲げられている旗は全部で5本。 左はクロアチアの旗、次はイストラ半島の旗、 中央はプーラの旗、その隣にイタリアの旗、 右端はEUの旗。 イタリアとのかかわりの深さを感じます。 プーラの旗は このような旗です。 画面にポインターを置くと市庁舎の後ろ側を ご覧いただけます。神殿の作りと同じです。 リアノ神殿の遺跡をそのまま使っています。 |
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市庁舎の側面です。 文化遺産の中で執務しているようなもの でしょうね。 |
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F 市庁舎の前のフォーラム広場です。 この周辺にはいくつかの神殿があったそうです。 テラスになっていて、お茶が飲めます。 少し時間があり、コーヒータイムが採れました。 |
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駐車場へ戻る途中の公園の先に このような銅像が見えました。 何の像かは不明ですが、 海に向かって何を叫んでいるのでしょうね。 |
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プーラからオパティアに戻る時に 半島を横断してゆきました。 半島内陸部の景観です。 |
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クロアチア全体にも言えますが、 カルスト台地で石灰層が多く、 時には雪が積もっているようにも見えます。 |
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なだらかな丘陵が続きます。 石灰層があちこちに顔を出しています。 |
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