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市川市は人口47万人強の千葉県で4番目の市です。 東京のベッドタウンとしてその利便性と居住性の良さ から人口が増加しています。 歴史は縄文時代に遡り、万葉集にも詠まれています。 永井荷風、幸田露伴、北原白秋などが住んだことも あり、また、新生中国の副総理郭沫若氏が日本亡命 の際この地に住んでいました。 街は江戸川とJR総武線、京成線で三つに分かれ 南寄りは東京湾に接して低く、北寄りは丘陵で少し 高くなっています。 |
京成国府台駅を出て北よりすぐの ところに国府神社があります。 日本武尊が祭神で1087年の創建と 伝えられています。 ポインターを画面に置くと掲額が ご覧頂けます。 |
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国府神社から更に少し北へ向うと 小高い台地にでます。 この辺りは以前に富豪の住居地と なっていた場所だそうです。 趣のある坂が続きます。 |
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その住宅の一つ木内家があります。 貴族院議員の木内重四郎邸です。 元は1万坪の広大な敷地でしたが、 現在、一部マンションになっています。 洋館部分のみが復建され ギャラリーとして一般に公開されています。 |
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木内家別邸の洋館部分です。 1914年の竣工で、元は木造でしたが 復建に際し1階はコンクリート造りに 変わっています。 内装は当時のままの状態を残しています。 画面にポインターを置くと内部の部屋が ご覧頂けます。 |
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737年に行基の建立した求法寺を 882年弘法大師が弘法寺(ぐほうじ)と 改称したそうです。 明治の大火で仁王門以外殆ど焼失し、 本堂は1890年に再建されたものです。 |
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左は仁王門で明治の大火を逃れ 残りました。掲額は空海の書と伝えられ ています。 右は赤門です。 弘法寺では最も古い500年前の門です。 |
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赤門から入ると正面に太刀大黒 尊天堂があります。 ここに祀られている大黒天は日蓮の手に なるもので、「福再来(ふくさらい)」 と呼ばれています。 ポインターを置くと 大黒天がご覧頂けます。 |
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弘法寺の傍から眺めた市川市内です。 左の高い建物は船橋になります。 |
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弘法寺から7〜8分歩くと 芳澤ガーデンギャラリーがあります。 この庭は個人のものが市に寄贈され、 ギャラリーとして一般公開されています。 敷地は約千坪で百樹園と呼ばれ、 春夏秋冬色々な樹木が楽しめるようです。 ギャラリーは有料ですが、 庭園のみなら無料で入場できます。 ポインターを置くと別の庭園の風景が ご覧頂けます。 |
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ギャラリーから東へ5分ほど歩くと 須和田公園に出ます。 ここには須和田遺跡が有ります。 縄文時代から平安時代にかけての 遺跡群が発見されています。 写真は弥生初期の集落跡とみられています。 ポインターを置くと 遺跡の状態と昔の様子がご覧頂けます。 |
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須和田公園内には郭沫若の肖像レリーフと 彼の詠んだ詩の自筆の記念碑が建てられて います。 郭沫若は1914年留学のため来日し、 1923年に上海に戻り、その後、 蒋介石政府から追われる身となり、 1928年日本に亡命し、市川市に居を定めました。 1937年に帰国後、新しい中国建設の為に活動し 新中国の副総理に就任しました。 画面にポインターを置くとレリーフがご覧頂けます。 |
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郭沫若記念館です。 須和田公園近くに有ります。 記念館の建物は過って郭沫若が住んでいた家を 復元移築したものです。 内部は画面にポインターを置くと ご覧頂けます。 |
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亀井院は1635年に弘法寺貫主の隠居所 として建てられました。 ここに有る井戸は「真間の井」とよばれ、 手児奈と呼ばれる伝説の美女が この井戸の水を汲んだと言われています。 |
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手児奈が汲んだと言う井戸です。 手児奈伝説は既に万葉集に 「われも見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児名が 奥津城処(おくつきところ)」 と山部赤人詠んでいます。 |
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手児奈を祀っているのが手児奈霊神堂です。 あまたの男に言い寄られ、身一つでは多くの人を 不幸にしてしまうと、海に身を投げたという 手古奈伝説をもつ霊神堂です。 画面にポインターを置くと門前の掲額をご覧頂けます。 |
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