西南北海道
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2011年7月に西南北海道を廻ってきました。
千歳空港に入り、レンタカーを借りて古平、積丹半島、奥尻島、江差、松前、函館と回り、
最終日は雨が激しかったので函館から千歳まで直行しました。
総走行距離は980kmと意外に短かったです。
せたな~奥尻~江差間はカーフェリーを利用しました。
キャンペーン期間で帰路の奥尻-江差間が無料となりました。
約1万5千円程セーブできました。
ゆっくり回ればよい場所が一杯あるのですが、日数にも限りあり、また、過去に行った
場所は割愛しました。結構時間に追われる旅になってしまいました。


下の写真に*印があるときは
ポインターを画面に置くと
裏画面がご覧いただけます。
余市町          余市は宇宙航空士毛利衛さんの出生地です。
ニッカウヰスキーの工場がある事でも有名です。初めて来たときは
その工場見学もしました。今回は素通りとなりました。
 
流石、世界の毛利誕生の地、道の駅は宇宙記念館です。
閉館後で内部参観は出来ませんでした。
古平町 古平町は積丹半島の北側にあります。今回は札幌への到着時間と
積丹半島への走れる時間からこの地で一泊しました。たまたま当地の
お祭りの日に遭遇し、思いがけない祭り見物をしました。
宿へ向かう途中に神輿と遭遇しました。
前に少し見えている白い衣装の神輿が
この日の祭の主体の琴平神社の神輿です。

赤い衣装は昨日の祭の主体だった明和神社の
神輿だそうです。
祭は2日間行われ、夫々の町内を神輿と山車が
練り歩きます。
宿で食事を終えたころから祭の先頭が宿の前に
来ました。

宿のおかみさんは何本もお神酒を準備し、神輿や
山車が来る毎にお神酒と金一封を渡していました。

ここの祭の主役はこの天狗さんです。

毎年町内から選ばれた人が天狗になって町内を
練り歩きます。

下駄が一本歯です。他の地区の祭りでも天狗が
出るケースは多いそうですが一本歯で長時間歩くのは
古平だけだそうです。

前に天狗をやったお宅の前では敬意を払い、踊りを
踊っていました。

薄暮のため少しボケた写真になりました。
宿の前ではお神酒のお礼を奴さんたちが踊りで
表現しました。
港町(宿のある町内)の山車です。
この町内の山車だけが手引きでした。
他の町内はトラックに乗せ走っていました。
やはり人手不足なのでしょう。
港町は漁師が多いからと言ってました。
お祭りのクライマックスは天狗の火くぐりでした。

鉋屑を燃やしたたき火の中を天狗が通り抜けます。
この後には獅子舞や神輿も火をくぐります。

思わぬところでお祭り見物を楽しみました。

お祭りの他の写真は下のボタンからお入りください。


     祭
 
お祭りの主体であった琴平神社です。

*神殿です。
古平で止まった民宿「ほり」今回の旅行で一番費用対
効果の悪かった宿でした。部屋は工事飯場のレベル。
洗面具なし、タオルなし、寝巻なし、シーツなし、
冷凍機の音が一晩中鳴り響いていました。
食事も今一で一人7千円。
まあ、お祭り見物料と考えればいいのでしょうね。

*宿のおばあちゃん
積丹半島
積丹半島は余市から岩内までぽっこり突き出た
半島で先端には積丹岬と神威岬があります。
積丹半島の東側にある美国港には宝島とゴメ島
があります。
朝の靄が深くて残念ながら景観はよくありませんでした。

うっすら見える宝島はかってはニシンの大群が
押し寄せた島だったので、宝島と呼ばれたそうです。

美国にある黄金岬からは積丹半島の東海岸が
眺められると案内書にはありましたが、
靄のため、目の前の宝島さえこの状態で
残念ながらエメラルドグリーンに輝く海岸は
見ることが出来ませんでした。
残念!

左手の島はゴメ島。
ゴメとは海鴎のことで、かもめが休んでいるように
見えることからゴメ島と呼ばれているそうです。

*海岸の眺めですがガスで見通しが悪いです。
時間の関係で積丹岬の先端には行けませんので、
一巡りした西側から眺めました。
靄も晴れて、岬が良く見えました。
何より、海の水の綺麗さ、透き通っていました。

*別の角度からの岬です。
積丹半島のもう1つの突端神威岬が見えてきました。

神威岩が立っています。
神威岬は女人禁制の時代がありました。
婦女子を帯同して岬を通ると神霊の怒りにふれ
海が荒れると言う伝説があり、漁師たちも女人の進入を
嫌ったと云うことです。

現在の神威岬への入口で時間により閉門されます。
門の奥に見えるのが神威灯台です。
神威岬と岬への道です。
神威岬先端からの神威岩の眺めです。
この岩は乙女の化身とも云われています。
神威岬から崖下の眺めは素晴らしい色彩です。
白い花に緑の草、紺青の海に白い波。
ボーと眺めていました。
神威岬の入口から岬への途中で眺められる
ワクシリ岬です。

この岬は昔は難所となっており、死者も出たことから
トンネル掘削事業が行われたが1919年に
やっと貫通。
念仏トンネルと呼ばれています。
現在はその形骸が残っているだけで利用は
されていないようです。

*裏画面でトンネルがご覧頂けます。
神威岬灯台です。
水面からは82mです。
1888年8月に点灯した北海道で5番目に古い
灯台です。
半島西側からの神威岬と神威岩の眺めです。
神威岬から岩内へ抜ける途中に瀧がありました。
名もない滝でしょうが、勢いがありました。
岩内はにしん街道とあるように、漁業の街ですが、
アスパラガス栽培の発祥地、(*)野生ホップ発見の地
でもあります。
更に、我々の出発前に新聞ニュースで紹介
されていましたが、郷土館に初期の竹下夢二の作品が
所蔵されていたようです。

(*)野生ホップ発見の地の石碑が郷土館に
 ありました。
岩内からせたなへ向かう途中の寿都(スッツ)町歌棄に
あった漁場建築の佐藤家です。

完成年度は明治十年代と思われますが、和洋折衷の
スタイルを有し、ニシン漁場の特徴である漁夫宿泊部
が含まれていないのが、この家の特徴だそうです。
有形文化財に指定されていました。
寿都(スッツ)町にある弁慶岬です。
案内板に寄れば「780年余前、義経は武蔵坊念西から
多数の食料と軍船を得て寿都に回漕させた。
弁慶は毎日岬に出てその到着を待った。爾来、この岬を
弁慶岬と言う(北海道伝説集)」と記されています。

弁慶の銅像も建っています。

(*)銅像の説明文には上記と少し異なる説明が
されています。
せたな町への海岸通りには変化のある風景が
続いていました。
せたなは雨でした。
フェリー乗船後も激しい雨で景観はまるでなしでした。

(*)フェリーです。
   写真は奥尻港で撮影したものです。

奥尻島
奥尻島は1993年7月12日の北海道南西沖地震で大津波の被害を
受けたことで有名になりました。
奇しくも我々が訪れたのは丁度18年目のその日でした。
奥尻港に着いてそのまま北に向かったところに
弁天堂がありました。
小高い岩の上に作られていて階段を上がるのは
一苦労でした。

(*)道路から降りて上がる階段はあたかも修行の
   ごとき感じでした。


  奥尻島の更なる詳細
  画像は下記ボタンで
  ご覧頂けます。

     奥尻島
島の北端には賽の河原がありました。
震災で亡くなった方の慰霊碑も建っていました。

元々はこの辺りには難破船の残骸や、海難被害者が
集まったため、それらの慰霊の意味で作られたのが
始まりだそうです。

(*)
海岸線一杯に石積がされています。
寂しさの漂った河原の感じです。
正面の赤い家は土産屋さんです。
稲穂岬から南方向の景観です。
島の北寄りにある「球島山」標高369.3m
視界は360度で島全体を見通すことが出来ます。

豪快な眺めです。
夕食後島のシンポル鍋つる島を見に行きました。
ライトアップされた鍋つる島は中々の雰囲気を持って
いました。
鍋の取っ手に似ているから鍋つる島です。
地震で島の基部が相当沈んだそうです。
北追岬と岬公園です。
少し小さくて見え難いですが
あちこちにモニュメントが建っています。


*入口にあるモニュメントです。
島の西側の海岸に並ぶ島の一つ
右 かぶと島
左 神威島

この島の前に神威山(584.5m)がそびえて
います。
上の岩から更に南下するとこの岩が現れます。
「モッ立岩」です。
未亡人が岩のりを取りに来てこの岩が余りにも
主人の「もの」に似ていたことから名付けたものだ
そうです。(ほんとかいな?)
更に南下するとほやに似た「ホヤ石」
に出会います。

この岩は柱状節理がはっきり見える岩です。
ホヤ石の少し南に「ホヤ石の滝」があります。
水量の多い時はもっと豪快な滝になると
思われる岩場です。
西海岸を走って最後の岩が
左 「無縁岩」
右 「平島」 です。

ここと北国岬の夕陽が奥尻では 最高だそうです。
北国岬の夕陽に遭遇しましたが、少し雲が多く
落日は見られませんでした。
青苗岬に建設された「奥尻島津波館」です。
昼前に着きましたが、急にガスが出てきて、見通しが
大変悪くなりました。
ご興味のある方は「奥尻島」のボタンを
押すと詳細がご覧頂けます。


    奥尻島
青苗の青苗灯台です。
ここで折り返して東海岸を北上しました。
東海岸は御影石が多く岩が白っぽくなっています。
また、海が石の関係で白っぽく見えます。
昼間にみる「鍋つる岩」です。
奥尻島のシンボルです。

この岩が出来た理由を津波館の説明員から
聞いたのに、忘れてしまいました。
確かマンガン系の岩でマンガン含有部分が
残っているとか???
奥尻港からフェリーで出発しました。
左手に見えるのが鍋つる岩で、遠くから見ると
岩と言う感じがしません。
江差 江差追分で有名な場所ですが、歴史文化の街でもあります。
思いのほか見所も多く、時間が足りずに見過ごしたところも多々
ありました。街は海岸にそって延びており、中央部には鷗島があります。
フェリーが江差に着いたのは午後6時15分、ホテルに入り
散歩がてら北前坂まで出てみました。
雲のために落日は見えませんでしたが、暮れゆく鷗島と
その前にある開陽丸が高台から眺められました。
夕食は「津花館」と言う眺めの良いレストランで、
家内はイカスミベースのDADEMEカレー
これは今日のお勧め品(左)方言でめちゃおいしいと言う
意味だそうです。美味しいとの家内評。小生はこの店の
名物料理の海老フライオムライス。でもお味はうーん。
鷗島への入口から眺められる馬岩です。
○印の中にあり白い色をしています。
義経が衣川では討ち死にせず、江差に渡ったと言う話が
あります。
この時、義経が残した馬がここで岩になったと言う
伝説があります。
鷗島の海岸寄りの遊歩道から眺められる
瓶子岩です。

折居と言う姥が神より瓶子を頂き、この瓶の水を海に垂らすと
ニシンが大量に集まり、江差の人の生活が豊かになったとの
伝説があります。

瓶子を逆さまにしたような形をしていることから瓶子岩と
名付けられたようです。

*反対側から岩と開陽丸を眺めています。
北前船の係留杭が残っています。
鷗島には南北二か所にお台場跡があります。
江戸後期には外国船に対峙する台場が作られて
いました。
北側のテカエシ台場です。
南側はキネツカ台場と呼ばれています。


*台場からの千畳敷の 眺めです。
 江戸時代の江差屏風には、ここへ桜の木を持ちこみ
 花見の宴を開いている絵が残っています。


島の西岸は荒波に洗われ岩場になっています。
千畳敷と呼ばれています。
左手に見えるのは鷗島灯台です。

*鷗島灯台は江戸時代は灯明台でしたが、その後
 1889年に木製に変えられ、1951年現在のコンクリート製に
 なりました。
西海岸にある弁慶の足跡です(青枠内)。
満潮時は隠れます。

義経について弁慶も北海道に渡ったとの
伝説は寿都の弁慶岬でもありました。
朝靄の中の開陽丸と記念館です。

9時を過ぎると街全体に靄が出始めます。
これは積丹半島や奥尻島などと全く同じ傾向です。
多分海水の温度が上がるためでしょうかね。
昼ごろまで晴れません。

*船内は展示館になっています。この大砲は手前と
 一番奥が海底から引き揚げられた本物です。
 
1868年に江差沖で座礁沈没した開陽丸の
遺留品が1975年から引き揚げ作業開始され、
3万点以上の遺留品を引き揚げました。
本船も1990年に再建され、遺留品の展示場となって
います。
ここは本船の甲板です。


*遺留品は機関備品から砲弾、銃刀に至り、往時の軍艦を
  偲ばせます。
江差の豪商関川家別荘の庭園です。
家屋は土日のみの開放で残念ながら見られませんでした。

関川家は17世紀から明治30年代まで松前藩きっての豪商で
江差の街中でも色んな所でその名前を見ることが出来ます。
江差の海岸寄りにあるいにしえ街道には
重要文化財に指定されている「旧中村家」があります。
元は近江商人の大橋家が建てたものです。
奥は海まで続き(現在は埋め立てにより国道となっている)
問屋建築の代表的な造りとなっています。


*側面からみた旧中村家です。坂に沿って
 夫々の役目ごとの部屋が繋がっています。
 最後はハネ出しと呼ばれる海から直に荷物の
 積み下ろしが出来るようになっている部屋があります。
同じ廻船問屋の横山家の内部通路です。
玄関からハネ出しまで一直線です。
京都の家を想起させます。

左側が蔵になっています。
現在は生活用品などの展示室にしてあります。
横山家の玄関先(左)です。現在もお蕎麦屋さんを営んで
居られます。
右は座敷です。一般公開されています。座敷の右には
住宅部分があります。
一部はそば店の客室に使われています。
いにしえ街道より少し高い所に旧桧山爾志郡役所が
残っています。
ここには派出所も併設されていた為、(*)留置所も
作られていたとのことで、一部復元されています。
明治20年の建築です。
現在は江差郷土資料館になっています。
いにしえ街道から南に入り高台に上がると
「法華寺」に出ます。
山門は300年前に桧山奉行所の正門として建てられた門で
北海道最古の建築物の1つです。
寺内には池大雅作と言われる八方睨みの龍のほか、
狩野家代々の作になる絵画なども残されており、
江差が豊かであったことを思わせます。


*お寺の案内書から拝借した本堂天井に描かれている
 八方睨みの龍です。
姥神大神宮は北海道最古の神社で創建は
鎌倉時代と言われています。
姥神大神宮渡御祭があり、13台の山車が町内を練り
歩きます。
一部の山車は江差山車会館に展示されています。
祭の起源は370年くらい前にニシン漁の豊漁を祝う祭だった
ようです。
祭礼は8月9日から三日間です。
江差会館は入って右が山車会館左が江差追分会館に
分かれています。

姥神大神宮渡御祭の山車が2基常設されています。

二基の山車です。左の山車は船形です。
江差線の終着駅「えさし」駅です。
物寂しい駅でした。
松前 松前藩は江戸時代松前氏(その前は蠣崎)により統治されており、
漁業と交易で豊かになった藩だそうです。
古い城下町かと思っていましたが、あまり見るべきものもなく、
ちょっとがっかり。観光客目当ての城と藩屋敷も今ひとつの感ありでした。
松前城(福山城)と本丸御門です。
城は昭和36年の再建です。
御門は1854年造で重要文化財に指定されています。
城内は展示場になっています。


(*)松前城の説明板です。
旧福山城本丸表御殿玄関です。
1637年に城中から出火し城が焼けた折、表御殿として
京都伏見城より一部移設されたとのことです。

明治以降は小学校として利用されていたそうです。
松前神社の鳥居越しに松前城天守閣です。
城の北東に「阿吽寺」があります。
1617年ごろに真言宗の寺として城の鬼門を守るため
この地に移設された由。
山門は松前城の堀上げ門が移設されています。
阿吽寺の本尊不動明王は11世紀頃の作と伝わっています。

(*)本堂内部です。 不動明王はよく見えません。
松前城(福山館)の北側に作られたのが寺町です。
元は15ヶ寺程あったのが、戊辰戦争の折、松前藩が
寺に火を放ち、以来、現存するのは5ヶ寺のみとなっています。

松前家菩提寺の曹洞宗大洞山法幢寺です。
1546年の開基。

(*)寺内ある御霊屋(みたまや)です。
   松前家累代藩主一同の位牌が納められています。
寺町の閑静な場所に松前藩主松前家墓所がありました。
5代目から埋葬されています。
寺町にある法源寺の山門です。
17世紀に作られたと考えられており、
北海道でも最も古い建築物の1つで重要文化財に指定されています。
松前藩による寺町創設以来、そのまま残っている唯一の寺が
龍雲院です。
重要文化財に指定されています。
寺町通りの佇まいです。
函館 函館と言えば函館山からの夜景。1964年夏にはその夜景が
綺麗でしたが、白黒写真で残っています。前回来た折にはガスで
見えませんでした。今回は??
ホテルから市電に乗り、ロープウエイで頂上へ。
函館山は晴れていました。

17時~22時までは登山道への自家用車の
進入が禁止されています。
五稜郭方面がガスっていた以外はよく見えましたが、
節電のためか、以前に比べ明りが少ない気がしました。

カメラの性能の所為も(腕?)あるかもしれません。
帰りも市電利用です。
車内は殆どが大陸、台湾の中国人でした。
彼らのバイタリティーが北海道へも及んでいることに
驚くとともに、中国人の豊かさが本物になりつつある事を
感じました。
テレビの撮影などにもよく利用される元町の八幡坂です。
朝はガスで函館港が霞んでいました。
お馴染みの旧函館区公会堂です。
明治40年(1907)の大火で函館区の半分を焼失。
町会所も失くし、明治43年豪商相馬氏の寄付金で
明治洋風建築物として再建されました。
国の重要文化財に指定されています。
元町公園から函館ドック方面の眺めです。
教会地区の石畳の通りです。
左の石垣の中がハリストス正教会
右の石垣の中が元町カトリック教会
手前左手には聖ヨハネス教会
手前右下には東本願寺別院があります。
元町カトリック教会です。

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