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上海は街の中を黄浦江が流れ、街を二分しています。 昔は川の西側(浦西)が中心で、東(浦東)は農村地帯でした。 1987年から浦東開発が計画され、1990年代に入って急速に 計画が進展しました。空港も長江(揚子江)沿いに移され、 高速道路があちこちに建設されています。 10年ひと昔と言いますが、上海は5年ひと昔の感があります。 上海を初めて訪れたのは1967年4月で、その後、1980年代、 1990年代に駐在も経験し、上海の変化をつぶさに眺めることが 出来ました。 今や、上海は世界的な商業都市となり、あらゆる商品が手に入る街と なっています。香港を凌駕するショッピングモールが林立しています。 |
魔都とも呼ばれたことのある上海。
初めて行ったのは1967年の春。丁度文化大革命が始まって街中の商店街はウインドウが大字報(壁新聞)で蔽われて、
商店の名前も「東方紅」とか「紅太陽」とかに改名されて、夫々の店の扉を開けない限り、何を商っているのか判りませんでした。
そのご、1980年代後半に3年強、1990年代後半に4年弱上海に駐在しました。
1988年には高知の高校の列車事故がありました。この頃は、上海の資金は殆どが北京の建設事業に使われ、
上海の発展は遅れ気味でした。ホテルなども不足しており、仕事で来る人のホテル確保にホテルの担当者への付け届けが
必要な時代でした。
1990年代に入ると、上海の改革に資金が投資されるようになり、その変化の激しさとスピードには驚いたものです。
特に浦東は広い道路が田んぼの中に作られて、どうするのかと思う間もなく、ビル群が次々と建設され、あっという間に
都会が出現しました。ビルも夫々に意匠を凝らしたデザイナーの競演となっています。
1980年代後半でも500名程度の日本人居住者が1990年代半ばには1万人を超えて北京を抜き、2000年代には
アジアでもトップクラスの居住人数になりました。2005年ころには5万人程度が居住されており、短期の出張者なども含めれば
常時10万人以上が滞在し、2015年の10月の話では20万人以上となっているそうで、まさに世界一となっています。
今やホテルも林立し、競争も激化し、ホテルの担当者が利用を頼みに頭を下げる時代となりました。
2019年9月に大学の同期生9名が上海に集まり、同期会を開きました。その時の模様は上海4で紹介しています。
2011年には団体ツアーで上海へ行きましたが、今回2012年は元の仕事仲間とゴルフのために 上海を訪れました。前回廻れなかった場所も見てきたので、追加しました。 この仲間は2009年に北京へゴルフしに一緒に行った仲間でもあります。 と言うより2000年初めころに北京に駐在していた仲間たちです。 |
今回は浦東空港からリニア モーターカーで市内まで出ました。 リニアは中国では 「磁浮(Maglev)」と呼ばれて います。 前回は数秒間でも450km/hを 出しましたが、今回は安全性の 問題なのか、終始300km/h でした。 写真は到着駅のプラットフォーム です。 |
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車内の最高速度表示は 301㎞/hより上には 行きませんでした。 数年前は400kmを越えると 車内でどよめきが上がりましたが、 今回は静かなものでした。 |
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上海旭宝ゴルフ倶楽部は 実際には江蘇省昆山市に あります。 上海市内から45分位の 定山湖という湖の傍に あります。 同じ時間帯にやはり日本人の グループがコンペを行って いました。 スタートは6時半と早いです。 その代わり昼前にはプレーは 終了します。 |
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湖の傍なので、比較的フラットな ゴルフ場ですが、池があちこちに 隠れています。 基本的には18H歩きですが、 小生は脊柱管狭窄症のため 長距離が歩けないので、 特別に乗用カートを準備してもらい 18Hを廻りました。 ゴルフの費用はそれほど安くは ありません。 クラブを借りて、キャディ付の 乗用カートを準備してもらって、 土曜日のプレーで1,460元。 日本円に換算すると約1.9万円 と日本のコースに比べれば それほど高額ではありませんが、 日常品の物価レベルと比べると 割高な感じがします。 |
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ゴルフの前日に知人たちと 上海バンド近辺を散策 しました。 上海市内延安中路の眺めです。 奥に見える高い建物は インドネシア財閥の建てた 建物で、現在ウェスチンホテル が入っています。 |
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和平飯店の前から浦東地区を 眺めるのが一番綺麗です。 黄浦江がカーブしている所で あたかも島のように見えます。 |
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展望デッキで結婚記念写真を 撮っているお嬢さんがいました。 |
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南京東路の眺めです。 左手は和平飯店(元の サッスーンハウス:1926建)。 右手は同じく和平飯店南館 (元のパレスホテル:1908建)。 正面に東方明珠テレビ塔が 見えています。 |
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和平飯店の内部です。 ロマネスク様式の内装です。 |
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四川南路にある セント・ジョセフ教会です。 1861年に建てられました。 後期ロマネスク様式になって います。 内部にはゴシック様式の柱 等もあるようです。 |
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四川南路から金陵路へ 出た辺りの風景です。 新しい上海(後ろ)と 昔ながらの上海の 渾然一体の眺めです。 画面にポインターを置くと 同じ場所からの 別角度の街をご覧頂けます。 |
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人民路と中華路が サークルになっている 内側にあるのが豫園です。 この辺りは昔は 中国人居住区で 狭い通りが入り組んで いましたが、現在は 再開発され、昔風の店舗を 並べた仿古街に なっています。 |
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豫園商城の一部ですが、 ここは昔ながらの 古い店舗の並んでいる 一角です。 豫園の中心になります。 |
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豫園の前にある湖心亭です。 1986年10月に エリザベス女王が 上海へ来た折にも ここでお茶を飲んで 行きました。 この時には上海市内全域が 綺麗に洗われ、バンドの 建物も元の色が現れました。 左手の橋は九折橋です。 |
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湖心亭の向かいにある 老舗「緑波廊」です。 飲茶の有名なお店です。 こんなに大きい建物だったか なぁと言う感じです。 |
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右手に豫園の入口が あります。 「湖濱」と言うお店は 記憶にありません。 見過ごしていたのかも。 |
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豫園の入口です。 既に入場時間が過ぎており 中には入れませんでした。 豫園は昔の上海の豪族潘氏の お屋敷で、16世紀に作られ、 その後清代に再建されて います。 ここの龍の彫り物の指は 3本になっています。 本来、皇帝しか使えない 龍の彫り物を作るにあたり、 指を5本ではなく、3本にして 言い逃れにしたと伝えられて います。 狭い敷地を広く見せる技法が 採られています。 |
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上海の夕陽は 何時も靄のなかです。 近代化されるに伴い この傾向が強くなります。 上海の赤い夕陽が見られる のは何時のことでしょうか。 |
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上海の赤門、交通大学の 正門です。 戦前にはここが同文書院で 日本の各県から選抜された 学生が入学しました。 大学の説明文には 一切その事は触れらていません。 北京の精華大学に比肩される 工学系大学です。 |
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交通大学の図書館です。 1919年の建築で 木造煉瓦造りです。 |
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ホテルの近くに新たに ローソンが開店していました。 初日と言うことで 覗いてみましたが、 おにぎり、弁当もありました。 |
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ゴルフの後、時間が有るので 再び、市の中心人民広場へ 出てきました。 広場から眺める国際飯店です。 昔はパークホテルと呼ばれ 1960年代半ばまで アジアでも最も高いビルでした。 1934年の開業です。 ここの「パーコ麺(排骨麺)」 は中国でも一番の味でした。 あるミッションの夕食を ここのレストランで摂ってもら ったら、丁度結婚式が 同じフロアーで行われており、 新郎新婦に来て貰い皆で 祝福してあげたことも ありました。 |
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人民広場です。 元は競馬場でした。 以前この辺の目印だった テレビ塔は新しいビルに 隠れてしまいました。 |
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人民広場のすぐ前が 南京路です。 昔は中国一の繁華街でした。 現在も一部は完全に 歩行者専用道路にし、 老舗と新しい商店が びっしりと並んでいます。 |
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夕暮れの南京路です。 | |
路上でダンスを踊っている 一団もいました。 |
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市内での移動は 地下鉄を利用します。 現在上海市内の地下鉄は 9路線あり、 殆どの場所へ行けるように なりました。 |
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地下鉄の車内は 日本同様殆どの人が 携帯に向っています。 北京の時もそうでしたが、 今回も若い人が席を譲って くれました。 その辺は日本より進んで います。万博効果でしょうか。 |
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日曜日の朝、ホテルの近くにある 中山公園へ行きました。 中山とは孫文の雅号で 謂わば孫文公園と言った 所でしょうか。 日曜日の朝早くから 大勢の市民が集まってきます。 広い公園で少ししか回れません でしたが(下図、青い線) 日曜らしい風景でした。 公園内の模様は下の地図を クリックするとご覧頂けます。 |
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公園内で凧を飛ばしていた おじいさんに話を聞きました。 この凧は手作りだそうです。 でも、絵はプリントされて いましたので、パーツが 売られていて、それを 組み立てるのでしょう。 揚げ方は紐をひくのでなく、 釣りのリール状のもので 操作していました。 |
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公園内には こんな外人さんもいました。 「写真撮っていいい?」と きいたら どうぞとポーズを決めて くれました。 |
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この日は知人と 旧日本人居住区へバスで 行くことになっており、 バス停に向う道路で 昔ながらの朝食をとっている 御人に会いました。 パジャマで麺。 懐かしいぃ~。 後ろのおばさんは スナック菓子が朝ごはん? |
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こんなバスが走っています。 殆どが冷暖房完備です。 前面にはそれを 「空調」と表示しています。 (画面にポインターを置くと バスの全面がご覧いただけます) 料金は市内全域2元(約30円) 今回は西の始発駅から 東の終点まで乗りました。 |
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バスの車内です。 結構綺麗です。 数十年前に比べると 雲泥の差が有ります。 画面にポインターを置くと バスの乗客たちを ご覧頂けます。 |
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目的地のバス停付近で こんな情景が有りました。 地方では当たり前のような 風景も上海で見ると あれまだ~と言う感じですね。 |
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魯迅公園とその中にある 魯迅記念館です。 魯迅は日本でも馴染みが 有るのでしょうか、日本人の 観光客が結構入っていました。 |
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記念館の入口と 内部にある 魯迅と友人たちの 蝋人形です。 |
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魯迅公園の近くにある 多倫路文人街の中です。 日曜日のためか、新婚さんの 写真撮影が多かったです。 多倫路文人街の詳細は 下記からお入り頂けます。 |
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いずれも新婚さんたちです。 右の建物は元映画館で、 現在はOld Film Caffeに なっています。 二人がまるでマネキンのように 見えますねぇ。 |
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横浜橋です。 日本の横浜とは無縁です。 下の川が浜(水路)なのです。 昔はもっと小さな橋で 橋の名前も縦長の石の 柱に彫られていました。 現在は立派な橋になっていました。 画面にポインターを置くと 下の水路をご覧頂けます。 |
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四川北路公園です。 以前にこんな公園 あったかな~? 綺麗に管理されていました。 |
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四川北路から少し 東に入ったところに 西本願寺の跡が有ります。 1931年に建てられています。 築地本願寺を模してると 言われています。 岡野重久設計、島津製作所 施工と記されていました。 壁面の細かな彫刻が 残されています。 中央の横欄には動物が 色々と彫られていました。 |
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四川北路の西端は 蘇州川(呉淞江)になります。 右手の時計台は 郵便局です。 現在は郵政博物館が 併設されています。 と言うか、博物館に 郵便局もあります、と 言った方が正しいか。 |
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蘇州川は黄浦江に ここで流れ込みます。 鉄橋は外白渡橋です。 外国人が渡る際は無料 の意味で、戦前は 中国人のみ有料の橋でした。 左手の建物は 昔のブロードウェイマンション 現在はホテルの上海大廈 です。 ガスに霞んだ浦東も見えます。 |
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日曜日の公園です。 淮海公園で、戦前は フランス租界の中に ありました。 |
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あれ、画像間違えたかな。 と思える風景です。 上海の新天地地区の 景観です。 欧米人が沢山散策しています。 昔の建物を利用して 今風のテラスや喫茶店、 レストランに変貌しています。 画面にポインターを置くと 別の画面がご覧いただけます。 |
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新天地を出たところにある 共産党第一回会議の 開催場所です。 現在一大会址博物館に なっています。 会議の会場になったのは 写真右手の上が朱塗りの 扉奥から三番目の家です。 |
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フランス租界内の 路地裏(里弄)です。 ここは韓国のビザを 発行する事務所に なっていました。 |
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レストランの中ですが、 大勢の人が食事そこのけで 階段に集まってきました。 ここは四川料理の店で 四川の伝統芸能 「変臉」を見せてくれます。 一瞬で顔を変える技です。 |
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左の顔は青色、中は赤色、 右は黄土色に変わりました。 何度見てもどうして顔の面を 外すのか判りません。 |
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翌朝は帰国日。 朝8時から玉仏寺と 静安寺へ向かいました。 朝の地下鉄のラッシュは 殆ど東京並みです。 画面にポインターを置くと 電車待ちのスタイルがご覧 頂けます。これも 日本と同じと言うか、 世界共通のスタイルでしょうか。 |
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玉仏寺です。 ミヤンマー(ビルマ)から 贈られた白玉で出来た 仏像が有ります。 仏像含め、内部の様子は 下記ボタンからお入り 頂けます。 |
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玉仏寺の近くの朝市です。 上海では男性が買物する 姿が多いです。 女性の強いのが上海の 伝統です。 |
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朝市の近くで 靴直しのおじさんが いました。 昔ながらのやり方で 靴を直していました。 |
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上海の西より 延安中路に近いところに 「静安寺」が有ります。 何と金ぴかのお寺に変身。 その上、一部はビルになり、 道路に面した部分は ショッピングセンターに なっていました。 寺院も金稼ぎが大ぴらに 出来る時代になったのでしょう。 内部は下のボタンから お入りください。 |
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昔の市内のメインは上海バンドでした。 バンドには1900年代初めの建物がたくさん残っています。 現在は浦東を中心とする新しい建物が見所とされて 来ているようです。 |
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上海の新しい顔と なりつつある 浦東地区の 眺めです。 中央は東方電視台、 その右下煉瓦色の 建物はシャングリラ ホテルです。 |
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上の写真の少し西より 右端は上海環球金融中心 (森ビル)です。高さは 492メートル。その左手は 金茂大廈(421m)です。 上海はこの近辺を アメリカニューヨークの マンハッタンの様な地区に しようと考えている そうです。 |
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黄浦江の西側にある、 上海万博の跡地です。 中国館だけが記念塔 として残されています。 |
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森ビル94階からの 世紀公園近辺の ビル群の眺めです。 奥の川は黄浦江です。 右側大通りに面した ピンクっぽい壁に黒の線 の入ったビルも森ビルで、 竣工後は日本の企業が 沢山入居しました。 上海環球金融中心(森ビル) は100階まで上がれますが、 時間と費用の関係(ツアー)で 94階までしか上がれません でした。100階にはスカイ ロードと呼ばれるガラス張りの 廊下があります。 *東方電視台です。 |
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かっての観光スポット 上海外灘(バンド)の眺め です。 右から横浜正金銀行、中国 銀行、和平飯店北楼(旧 サッスーンハウス)、旧パレスホテルなどです。 *裏画面に詳細記載してます。 |
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森ビルの94階展望台です。 売店や、ビルの説明台なども あります。 *外人の子供たちがビルの 詳細を見ていました。 |
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世紀広場とビル群です。 | ||
黄浦江の西側にあった 倉庫地帯を改修して 「老碼頭」街を作りました。 写真奥の部分はまだ古い 倉庫をそのまま残しています。 *古い倉庫をご覧頂けます。 |
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古い倉庫街も洒落た街に 変身していました。 ここからも森ビルが見えます。 *古い倉庫が洒落た レストランに変わって いました。 |
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上海には里弄と呼ばれる 細い路地が延びています。 その古家を利用して、洒落た 店に変えていました。 「田子坊」と呼ばれています。 この辺りは昔は静かな住宅街 でしたが、ある意味、街作りが 上手くいった例でしょう。 |
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小さな家を改造し、小物類の 店にしています。 飲食店もあります。 *地元の買い物客も 見られました。 |
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観光客の間を縫って 子供たちが路地で遊んで いました。 |
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昔の下町の繁華街 「豫園」市場も 現代化していました。 細い路地に卸問屋が 並んでいた景色も まだどこかにあるのでしょうが・・・ |
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旧日本人居住区内にある文人街です。 この辺には魯迅をはじめ戦前多くの 中国の文化人が住んでいました。 内山書店の内山完造が 彼らをバックアップしたようです。 なお、日本人租界とか英国租界と 言われるケースがありますが、 上海の租界はフランス租界と 共同租界の2か所のみです。 共同租界の中に各国の居住区 が作られていました。 ちなみに日本人居住区は 虹口区と呼ばれるところにあり、 90年代初めまでは古い家並み も残っていました。その頃は、昔上海に 居た日本人の方が訪れてこられ、 自分の住んでいた家を見つけて 喜んでおられました。 |
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文人街の中には沢山の銅像が 立っています。 租界の話ですが、電気は フランス租界は100V、 共同租界は220Vと分かれて おり、電柱もフランス租界は コンクリート製、共同租界は 木製でした。 解放後電圧は統一されましたが、 電柱はそのまま使っていました。 今回古い電柱を探しましたが、 行動が制限されているせいか、 一本も見つけることが 出来ませんでした。 |
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上海市の中心地、人民広場に ある上海博物館にも 行ってきました。 1996年に元の場所から移設 新設されました。 中国三大博物館(北京故宮 博物館、南京博物館) の一つです。 北京や台北ほどではないですが、 歩き疲れる博物館です。 付近には上海市庁があります。 |
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上海の郊外にある古い村で農民が絵を書いています。 また、その近くには古い村の佇まいが残されています。 |
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元々は金山地区の農民が 絵を描いていたのですが、 最近は中国全土から 画家が来てここで絵を描くように なったそうです。 画風は従来の農民画を 主体にしているようです。 壁の絵は中国農民画コンクール 一等賞の絵です。 |
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村の入口をはいると 塀や家の壁などに 絵が描かれています。 |
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観光客用に描画のデモも 行っていました。 勿論、即売も行っています。 |
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川の向こうの家々には 夫々農民画家が住んでいて、 絵を描いています。 |
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村は水郷並みの風景が あります。それに、壁画が 加わり、少し変った風情が 出ています。 |
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農民画の源流は左官絵だ そうです。それも竈の壁に 描いたものが現在の 農民画になったようです。 農家の竈には彩色画が 描かれていました。 これは、金山のみならず、 江南の農家では普通に見られる ものです。 たまたま金山の農民が この絵を独自の芸術に 仕立て上げたことで有名に なりました。 お陰で村の収入もよくなって いるようです。 |
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1996年には天皇皇后ご夫妻も 金山を訪れています。 その際の情景が農民画として 村の中の看板に描かれて いました。 |
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農民画は水彩画です。 素朴な絵柄で中国内でも 結構人気があります。 値段も最近は高くなったようで、 A4程度の大きさでも 300元(約4,500円)程する とのことでした。 |
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楓涇は金山区にあり、昔の呉と越の境にあり 呉越古鎮と称しています。水郷としては 1500年の歴史を持った地域です。 |
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村への入口には立派な 門塀が建っていました。 呉越古鎮と記されています。 |
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古鎮へ入ってすぐに 大きな邸宅があります。 金圃邸宅です。 清朝の乾隆年間に要臣と なった楓涇出身の謝墉さん (号が金圃)の邸宅です。 内部は陳列館となっています。 見た目以上に大きな邸宅です。 *裏の塀の長さも結構有ります。 |
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いずこの水郷も似たりよったり ではあります。 家の作り、壁の形状などが 少しづつ違ってはいます。 |
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「得泉亭」です。 手前に見える石の枠が 井戸になっています。 名前の由来でしょう。 * 井戸は紐のついた小さい 桶で汲みますが、結構 難しいです。 |
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得泉亭の傍にある 観音石像と「致和橋」です。 橋は元代の物と言われており、 700年以上前のものです。 楓涇古鎮で最も古い橋です。 *橋の状況です。 |
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川の傍に軒が作られています。 他にも廊下風の軒(長廊)が あります。 |
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街中の通り(中大街)は 結構広い通りです。 昔ながらの家並が続いて います。 |
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中大街の商店には子供用の 遊具も置かれていて、 子供連れの家族の遊び場に なっていました。 |
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街中からも常に こうした眺めが得られます。 まさに水郷なのです。 |
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中大街のはずれ清風橋の たもとにある清風閣は 喫茶室ですが、ここの粽は 上海一との評判です。 残念ながら時間の関係で 食することかなわず、残念! *店の横が川になっており、 二階の食事場所からは 楓涇一番の眺めが得られます。 |
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清風閣の横でおばちゃんが 粽を作っていました。 もち米と豚肉をバランスよく 入れて、笹で包み、蒸し上げる ようです。 *この場所から先が北大街に なります。 |
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北大街の中程に 「施王廟」があります。 その本殿 施王殿です。 1579年に建てられた 道教のお寺です。 施王とは岳飛の配下で 掲額の「盡忠報国」は 岳飛廟の掲額と同じです。 本殿の本尊です |
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中国の漫画家丁聴は楓涇の 出身です。 彼の作品展示館があります。 風刺画で中国では結構 有名になりました。 |
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丁聴の作品の一つです。 「甲と乙が酒を造る事を謀り ました。甲の乙に言うに〈私は 水を出すから、お前さんは米を 出して頂戴〉、乙曰く〈米は全て 俺のものだが、どう清算するの かね?〉、甲の曰くは〈ご心配 なく、酒が出来たら私は水分を 頂くだけで、他は全部あんたの もんだよ〉」 |
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丁聴記念館にシャイな男の子がいました。写真撮るよと言ったら笑いながら逃げ回りました。 最後はやっとポーズを取ってくれました。写真はクリックすると拡大出来ます。 |
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上海3 上海4 紹興 水郷 蘇州・無錫 |